古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第7章 豊臣秀次家臣を保護する三成

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 豊臣秀次切腹事件の真相については、歴史研究界でも活発な論争が続いています。以下の論点について、秀次切腹事件の筆者(古上織)の見解をまとめます。(詳細については、具体的には下記の一連エントリーで論じましたので、ご覧ください。)

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

→秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画が露呈した。このため、秀吉奉行衆が聚楽第の秀次に詰問に訪れることになった。

 

 2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

→秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。 

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

高野山に来た秀吉の使者(福島正則、福原長堯、池田秀雄)が秀次に渡した秀吉の命令(秀次高野山在住令)は、秀次の高野山「出奔」を後追いで、改めて秀吉政権の「謹慎」命令として確定し、高野山に在住すべしというものだった。

 

 秀次はこの命令が予想していたものより重かった(しばらく謹慎すれば許されるものと秀次は思っていたが、「秀次高野山在住令」には在住の期限が書いていなかった。このため、秀次は無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した可能性がある。)ため絶望して、秀吉の命に背き、自ら切腹を決意した。

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

→①「謀反」を行った秀次に対して、(本来なら成敗すべきところを)高野山謹慎という穏便で「温情」処分に減じた秀吉の命令に逆らう形で、勝手にあてつけのように自殺したことへの怒り。

 ②高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられた。

 この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したという主張になる。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉は「自分の判断・処分は間違っていた」と世間に公表したということになってしまう。

 秀吉は秀次への処分に対する自分の判断は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと考えていた。この秀次の(誤った)「抗議」を、世間的にも認める訳にはいかず、否定するより他なかった。このため、はじめは穏便に事態を処理するため、曖昧にしていた「秀次の『謀反』があった」という事実を公表し、更なる過酷な処分を行うことによって、秀吉の意思を世に示す必要があった。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺だった。青厳寺は秀吉の母大政所菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」。(*1)

 

④中世において「切腹」は色々な意味を持つが、そのひとつとして、「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」という意味もあった。(*2)

  秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があり、そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになる。

 秀次の死を賭した「復讐」の呼びかけに、秀次の遺族達が立ち上がり、秀吉や秀頼を標的として復讐戦を行うかもしれない、という「怯え」が秀吉にはあった。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(①~⑥まであります。)↓koueorihotaru.hatenadiary.com

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4.秀次切腹事件の時の石田三成の動きは?

→①上記で書いたとおり、秀次の「謀反」の噂が表面化したため、秀吉の命令で三成ら奉行衆は、秀次を詰問せざるを得なかったが、「成敗」ではなく、「高野山の謹慎」という、なるべく穏便な処置に留まり、事態が深刻化しないように動いていることが、他大名への書状から分かる。

②秀次切腹後は、三成は秀次家臣の保護に奔走しており、秀次の旧部下の「若江衆」の大部分は三成の配下として、関ヶ原の戦いで東軍と奮戦・討死している。

 このような経緯を考えても、江戸時代の(小瀬甫庵『太閤記』等の)「石田三成らが、秀吉に讒言して秀次を陥れ、切腹に追い込んだ」という俗説は、神君家康公に逆らった三成を貶めるために後年創作されたものであり、誤りである。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(⑦~⑨まであります。)↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p184

(*2)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

(上記エントリーの見解は、筆者(古上織)の見解であり、参考文献の矢部健太郎氏の見解とは違う部分も多くありますので、よろしくお願いします。)