古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「兵農分離」はあったか?

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兵農分離」はあったか?

 

 これは、そもそも従来の考え方の前提が間違っているのだと思われます。従来一般的に考えられていた「兵農分離」とは、「戦国の兵とは、農繁期には農業をして、農閑期には戦争をする『兼業農兵』だったが、織田信長豊臣秀吉兵農分離を行い、専業兵士を作り、1年中戦争できる軍隊を作ったため、天下統一にまい進することができた」という意味でした。

 

 しかし、西股総生氏の『戦国の軍隊』等を読むと、そういった「兼業農兵」は存在せず、戦国の兵達は、はじめから「専業の兵隊」であるようです。だから、戦国時代には、そもそも分離されるべき「兼業農兵」など存在しなかったのです。

 

 ただ、その戦国の兵隊は元々武士である「正規兵」と、その場雇いの「非正規兵」に分かれています。この「非正規兵」が問題となります。

 

 この「非正規兵」の出身はどこか。西股総生氏の著書を読むと、①元々武士だったが、主家が滅亡するなどして「牢人」になってしまった者、②元々農民だったが、田畑を戦乱等で失ってしまった流浪の者か、腕に覚えがあって農村から飛び出し(逃げ出し)、立身出世や恩賞狙いで兵となった者、がいるようです。

 

 しかし、こうした戦国時代に大量に発生したであろう「非正規兵」たちは、「天下泰平」になれば、仕事がなくなってしまい、「牢人」や「浮浪の者」になってしまうことになります。この者たちをどう処遇すべきか、という難題に天下統一を果たした豊臣政権は突き付けられることになる訳です。

 彼らは放っておけば、(食い扶持がない訳だから)内乱を起こす原因となり、内乱が各地で勃発して豊臣政権が転覆すれば、天下は再び戦国時代へ逆戻りとなってしまう危険性が高いです。

 

 そうした事態を避けるために秀吉が考えたのが、

 

①「兵農分離

②「失業者対策・公共事業としての『唐入り』」

 

だと思われます。

①については、つまりは(日本国内では)戦乱の世は終わったんだから、農村に帰れる者(元農民)は農村に帰って農業しなさい、牢人は武士に戻りなさい、という意味です。

 戦国時代に大量に発生した「非正規兵」という層を「兵」と「農」という身分に再分離しなおすということです。

 

 しかし、いくら戦乱の世で田畑が荒れていたとしても、既に農村に農民はいるわけですので、仮に彼らが農村に戻ってきたとしても、そのすべてを農村が吸収できるとも限りません(というか、実質困難なのでしょう)し、元々農業よりも腕に覚えがあって「非正規兵」に参加したのですから、そもそも農民に戻りたくないという者もいるでしょう。

 また「牢人」は、農民になろうとしても、元々帰って農業につける農村があるかも怪しいですし、これから「天下泰平」になることが前提ならば、新規に召し抱える大名は激減し、仕官先がないということになります。

 

 そうした、農村に吸収できない「牢人」「浮浪の者」の失業対策として秀吉が考えたのが「唐入り」という「公共事業」だと考えられます。彼らが国内に留まれば、不満分子として内乱の原因となる。彼らに「外征」という「フロンティア」を与えて開拓してこい、というのが、秀吉の「唐入り」の趣旨ということになります。

 

 しかし、周知のとおり秀吉の「唐入り」は失敗に終わります。恩賞や土地をほとんど得ることもなく、ただ兵士の消耗と借金のみがかさんだ諸大名の不満は、秀吉の死後の豊臣公議にぶつけられます。そのため起こったのが「七将襲撃事件」です。(この事件の石田三成は、ほとんどスケープゴートですが。というか、三成っていつもスケープゴート・・・・・・。)

 

 そして、相変わらず「非正規兵」の問題は解決していません。そこで「七将襲撃事件」以後、天下殿(公議の代行者)となった徳川家康が考えたのが、「内戦ビジネス」でした。

 すなわち、国内に「敵」をでっち上げて、その敵を「征伐」するために戦争を起こし、これに賛同して参戦する大名達と恩賞と土地を山分けすることで、諸大名の不満に答え、更にはこの内戦の論考功賞により、豊臣公議の蔵入地を恩賞として諸大名に与えることによって豊臣家を弱体化させ、しかる後に、自らが公議を乗っ取るという計画でした。

 

 実はこの内戦が終了してしまえば、再び「非正規兵」の問題は復活してしまうだけなのですが、家康としては、①とりあえず非正規兵に仕事の場を与え、②「敵」を作り出すことによって諸大名の不満をそらして、不満をその「敵」にぶつけさせ、③かつ自己権力の増大と豊臣公議の弱体化をはかり公議乗っ取りを達成するという、一石三鳥の策なわけです。

 

 この家康の意図に気が付いた奉行衆は七月十七日の「内府違いの条々」クーデターにより、家康のもくろみを阻止しようとしますが、関ヶ原の戦いで敗れ、東軍(家康)の勝利に終わることになります。

 この「非正規兵」問題を、この後どのように徳川幕府が解消していったのかは、徳川時代について詳細に調べないとよく分からず、現状は守備範囲外で何ともいえませんので、ここでは検討しません。(ただ、「大坂の陣」「島原の乱」で大量の死者が出たであろうことは分かっています。)

 

※「非正規兵」の中には「兵」とはいえないのも含まれているかと思いますが、煩雑さを避けるために便宜上「非正規兵」で統一しました。ご了解願います。

 

花園大学文学部准教授の平井上総氏が『兵農分離はあったのか』(平凡社)という著作を近日出されるようです。読む機会がありましたら、感想等書きたいと思います。

 

 参考文献

西股総生『戦国の軍隊』角川ソフィア文庫、2017年(2012年初出)

※上記が参考文献ですが、本エントリーの考察は筆者の考察によるものであり、上記参考文献の要約等ではありませんので、ご注意願います。よろしくお願いいたします。