古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十六 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何かの続き1

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※前回のエントリーです。↓

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 では、関ヶ原の戦いをめぐる3派閥のうち、「徳川派」とは?の続きを書きます。

 

 再掲します。

 

A.徳川派(東軍)

① 徳川家康・徳川一族・譜代大名

② 徳川(秀吉の生前からの)縁戚:(池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)

③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗福島正則蜂須賀家政黒田長政加藤清正北政所派?→東軍)

④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興北政所(前田)派→東軍)

 

 前回から続いて、③から見ていきます。

 

③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗福島正則蜂須賀家政黒田長政加藤清正北政所派?→東軍)

 

 秀吉の死後に徳川家康の縁戚となった大名があります。

 

 まず、いわゆる私婚違約事件の3大名

ア.伊達政宗 徳川家康六男忠輝と伊達政宗娘五郎八姫の婚約

イ.福島正則 徳川家康養女(松平康元娘)満天姫と福島正則嫡男正之の婚姻

ウ.蜂須賀家政 徳川家康養女(小笠原秀政娘)氏姫と蜂須賀家政嫡男至鎮の婚約

 

 七将襲撃事件以降に行われた縁組

エ.黒田長政 徳川家康養女(保科正直娘)栄姫と黒田長政の婚姻

オ.加藤清正 徳川家康養女(水野忠重娘)清浄院と加藤清正の婚姻

 

 結局、後世から見るならば、上記の一連の婚姻政策を家康が進めていたという事実は、秀吉の死直後から、家康が豊臣家簒奪のために多数派工作を行っていたことを如実に表しています。これは、「結果論」ではありません。この婚姻政策は、当時からの明確な家康の目的と計画があったことを明らかに示しているのです。以下、順に見ていきましょう。

 

ア.伊達政宗 徳川家康六男忠輝と伊達政宗娘五郎八姫の婚約 

 徳川家と、伊達家の同盟。元々、(徳川家と伊達家の縁組ではなく)五大老同士である徳川家と上杉家の縁組を行うよう、秀吉は遺言をしていました。関東の大大名徳川家と奥州の大大名上杉家が婚姻によって、強固な同盟を結び、東国の統治に共同してあたるというのが、秀吉の構想でした。秀吉自身は、東北の雄である伊達家はいつ反逆してもおかしくない油断ならない家と警戒しており、懐柔しつつも、監視を怠ってはいけない存在として認識しています。

 

 つまりは、徳川家が(秀吉の遺言によって予定されていた、上杉家とは婚姻を結ばず)、秀吉が警戒していた伊達家の方と縁組を結ぶという事は、秀吉の遺言方針に反する上に、むしろ他の五大老の一人である上杉家の方をライバル視するという、極めてきな臭く胡散臭い同盟をしようとしている訳であり、他の四大老五奉行から警戒されて当然なのです。

 

 また、秀吉の晩年から石田三成伊達政宗は親しい関係にあり、(豊臣公議の対伊達家基本方針「警戒しつつ、懐柔する」の「懐柔する」ルートを三成が担ったといえるでしょう。)

 前述したように、上記の縁組が成立すれば、徳川家・伊達家・石田家が縁戚で結ばれることになります。この縁組を通じて家康は、石田三成の取り込みもはかったといえるのかもしれません。(しかし、三成としては、「御掟」違反を咎めるべき五奉行としての立場もあり、難しい所でした。)

 

 前述したエントリー↓

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石田三成伊達政宗の関係については、以下を参照願います。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2) 

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り 

 

イ.福島正則 徳川家康養女(松平康元娘)満天姫と福島正則嫡男正之の婚姻 

 徳川家康が天下取りを狙って、そのため最終的に豊臣家と戦争となり、豊臣公議を滅ぼすことになるのであれば、最終的には家康は、豊臣の本拠大坂城を攻め落とさなければならなくなります。家康の軍勢は関東にあるのですから、東海道中山道のルートから西を攻める形になります。

 

 このうち東海道のルートは、豊臣譜代大名で敷き詰められており、やはり秀吉が家康を「警戒しつつ、懐柔していた」ことが分かります。

 この東海道防衛ラインの最終地点が、尾張清洲城であり、ここに秀吉は自らの従兄弟であり、猛将の福島正則を配置しました。仮に徳川軍が東海道を西上しても、清洲城で粘られれば、徳川軍はそれ以上西にいけません。

 

 家康としては、このため何としても福島正則を自分の味方に付ける必要がありました。そのために一番効果的なのは、やはり婚姻政策です。

 

 福島正則は、脳筋猪武者と、評価されることが多いです。これは、例えば正則の行政能力が低かったという意味ではありません。秀吉死後に、徳川家と福島家が婚姻を進めるという事が何を意味するのかまるで分かっていない、その政治センスのなさがそのような評価になっているのです。

 秀吉の死後直後に、秀吉の従兄弟である正則がこのような行動を取ってしまう事に、四大老五奉行は頭を抱えることになります。

 

ウ.蜂須賀家政 徳川家康養女(小笠原秀政娘)と蜂須賀家政嫡男至鎮の婚約

 前述したように、蜂須賀家政慶長の役の時に処分を受け、阿波国に在国して謹慎処分を受けます。

 

慶長の役時の黒田長政蜂須賀家政処分事件については以下を参照願います。↓

其の十(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相①~蔚山籠城救援戦で追撃戦はあった、長政・家政が処分された本当の理由 

 其の十一(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相②~朝鮮在陣諸将の独断決定はどこまで許されるか 

其の十二(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相③~戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか  

其の十五(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相④~処分の決定時に「石田三成外し」があった?

 

 処分を受けて、豊臣公議に不満を持つ家政に、婚姻政策を持って家康は接近し、自派への取り込みを図ったといえます。

 

 その他の縁組も見てみましょう。

 

エ.黒田長政 徳川家康養女(保科正直娘)栄姫と黒田長政の婚姻 

 この婚姻の約束自体がいつ行われたかは分かりませんが、慶長五(1600)年六月六日にこの二人は婚姻します。長政は、この期に蜂須賀家政の妹糸姫を離縁としますので、黒田家と蜂須賀家との決別という側面もあります。(両者とも徳川家の縁戚として東軍に付くのが興味深いです。)

 この黒田長政の婚姻もまた、慶長の役時に処分を受け、豊臣公議に不満を持つ家政に、婚姻政策を持って家康は接近し、自派への取り込みを図ったものと言えます。

 

オ.加藤清正 徳川家康養女(水野忠重娘)清浄院と加藤清正の婚姻 

 関ヶ原の戦いまでの、加藤清正の行動は必ずしも、徳川派一辺倒というわけでもなく、また(おそらく家康から警戒されて)清正は九州にとどまり、関ヶ原の戦いに参加していません。ただし、関ヶ原戦い時には、九州で西軍の小西行長の留守部隊(行長自身は関ヶ原で戦っています)と戦っており、東軍といえます。

 しかし、一方で、七将襲撃事件以降に加藤清正もまた徳川家と婚姻しており、関ヶ原の戦いにおいて清正が東軍(徳川軍)に付いたのも、ある意味自然といえます。

 

 清正と西軍となった小西行長及び奉行衆兼軍目付(増田長盛石田三成大谷吉継)は、文禄の役時の対明・朝鮮講和交渉の方針で対立しており、これにより豊臣公議に不満を持った清正を自派に取り込もうと、家康は婚姻政策を取ったということになります。

 

 ちなみに、文禄の役時に「清正が、小西・石田らの讒言にあって謹慎処分となり、慶長大地震の時に、真っ先に秀吉の元に駆けつけて、許された」といういわゆる「地震加藤」の逸話は、現在の研究では否定されています。

※詳細は、以下をご覧ください。↓

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*                 *                  *

 

 秀吉の死後、七将襲撃事件の七将のうち、蜂須賀、福島、黒田、加藤の四家と徳川家は婚姻を進めており、しかも、福島・蜂須賀家の2家はいわゆる私婚違約事件の対象です。

 

 上記を見れば慶長四(1599)年閏三月四日に起こった、七将襲撃事件が、以下のような事件であることが分かります。

 

① 私婚違約事件の強引な解決を図り、また、家康が今後誰の咎めを受けずに婚姻政策による多数派工作を勝手に進められる権限を握ることが目的の一つとして行われた事件であること。

 

② 慶長の役時の黒田長政蜂須賀家政処分事件に不満を抱く、長政・家政が、自身の処分の撤回及び、責任者の処罰を求めて起こした事件であること。

(事件後、長政・家政の処分の撤回を行うとともに、裁定時に不在で本来無関係の石田三成及び、裁定に関与できない三軍目付に責任を負わせるいうという、長政・家政に一方的に有利な、理不尽な裁定・処分を家康は行うことになります。)

 

③ 七将襲撃事件の七将のうち、蜂須賀、福島、黒田、加藤の四家と徳川家は婚姻を進めており(黒田・加藤はいつから進めていたのか不明ですが)、また、事件後家康は婚姻政策を自由に進めていることから見ても、七将襲撃事件の黒幕は家康である可能性が極めて高いと、少なくともその後の西軍諸将からは強く認識されたということ。(後のエントリーで説明しますが、事件後に、七将の一人である細川忠興へ、家康が理由が不明瞭な加増を行った事も、家康が七将襲撃事件の黒幕であるという疑いを強めさせることになります。)

 

 さて、前回のエントリーでは、石田三成は、しばらく親徳川家康派だった、としました。しかし、仮に徳川家康が七将襲撃事件の黒幕だったとしたら、なぜ、家康は七将に三成を襲撃させたのでしょうか?

※前回のエントリーは、↓

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 その理由については、結局家康の内心の話であり、推測するより他ありません。

 

 以下、推測です。↓

 

 実は三成と類似したケースが、その後の事件でも起こります。

 五奉行の一人、浅野長政は、徳川家康と協力して東国統治を行い、家康とも親しい仲でした。

 しかし、私婚違約事件の際は、やはり浅野長政もまた、他の四大老・四奉行と共に(もちろん、三成も入っています)家康の「御掟」違反を咎めます。

 

 いくら親しい関係といっても、奉行衆の立場である以上、「御掟」違反は立場としては責めなければなりません。そうなると、今後ますます家康が自らの野望により、豊臣家簒奪の意思を明らかにすれば、豊臣公議の奉行である浅野長政は、立場上、反徳川家康派として対峙・対決せざるを得ません。しかし、最終的に衝突して戦争になれば、家康としては長政を殺さざるを得なくなります。

 

 家康としても、親交のあった長政を殺し、浅野家を滅ぼすのが忍びなかったのでしょう。このため、後の慶長四(1599)年九月に、前田利長らによる徳川家康暗殺未遂疑惑事件が起こった時(私は、この事件も徳川派による自作自演の狂言だと疑っています)に、容疑者の中に長政を入れてその責を問うことによって、長政を武蔵国府中に謹慎処分とします。

 

 こうした措置を取ることによって、長政を奉行衆としてのジレンマから解き放つことにより、家康が長政を殺し、浅野家を滅ぼさなくてもよくなるような配慮を行ったのが、この長政の謹慎処分事件の実態なのだと思われます。

 

 同様のことが、実は以前から親徳川派だった三成と石田家に対しても行われたのだと思います。

 すなわち、七将襲撃事件とは、あえて(黒幕である)家康が七将を使嗾して事件を起こさせ、最終的に事件の責を負わせて三成を謹慎処分とすることによって、奉行衆の責務から三成を解き放ち、後に三成と石田家を家康が滅ぼさなければならない事態にはならないようにしようとしたのが、家康が事件を起こした目的の一つではなかったのではないかと思われます。(結局、その家康の配慮を三成はあえて無視する形になりますが。)

 

 徳川家康という人物は、天下取りのためならば何ふり構わず手段を選ばないという「汚い」側面がある一方で、親しくなった武将には非常に義理堅いという側面がある、という不思議な魅力を持った人物です。

 

 関ヶ原の戦いの後の佐和山城の戦いで、三成の父と兄は自害に追い込まれましたが、三成の子ども達三男三女はすべて助命され(当時佐和山城にいない子達もいますが)生き延びたという史実も併せて考える必要があります。

 

↑以上、推測終了です。

 

 参考文献

小和田哲男監修・小和田泰経著『関ヶ原合戦公式本』Gakken、2014年