古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「批評」とは何か~読書メモ:守屋淳『もう一つの戦略教科書 『戦争論』』

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 守屋淳氏の『もう一つの戦略教科書 『戦争論』』中公新書ラクレ、2017年を読了しました。

 本書は、著名な軍事思想家、クラウゼヴィッツの名著『戦争論』の全訳ではなく、重要な箇所の一部を訳して、その部分に解説を加える入門書の形をとっています。

 

 訳の部分で印象に残った箇所を以下に引用し、感想を述べます。(本来ならば、クラウゼヴィッツ『戦争論』(手元にあるのは中公文庫版)から直接引用すべきなのかもしれませんが、守屋氏の上記著作を読んで印象を受けた箇所ですので、守屋氏の訳より引用いたします。また、今回のエントリーは、上記著作の要約という訳ではありませんので、ご了解願います。下記ページ数は、前掲書のページ数です。)

 

「フリードリッヒ大王やナポレオンのような優れた将帥の犯した過ちを指摘する批評があっても、批評した本人ならそのような過失を犯さなかったということではない。批評家はもし自分が将帥の立場であったらより深刻な失敗を犯していたという事を認めなければならない。」(第二編第五章 p270)

 

 歴史研究者によくある過ちなのでですが、歴史学者であっても、軍事の専門家ではありませんし、仮に、また軍事史の専門家であったとしても、例えば戦国時代の歴戦の武将・大名等に比べれば、その方もまた、はるかに軍事の経験が劣る「机上の素人」に過ぎません。

 

 さすがにフリードリッヒ大王、ナポレオンクラスの名将の戦略や戦術を、軍事に素人な歴史学者が笑う事はおこがましいことは誰にも分かるでしょうが、戦国時代で戦に敗れた大名は「戦下手」の烙印が押され、歴史学者もまた、彼ら自身は「机上の素人」に過ぎないにも関わらず、いっぱしの軍事批評家気取りで、彼らの軍事能力を評価してしまいます。

 

 例えば、彼ら現代の素人軍事評論家より軍事的知識が豊富で、戦争の経験も多い戦国大名・武将のことを、現代の「机上の素人」が評価して、「彼らは『机上の名将』に過ぎず、机上の計算はうまくいくわけがない。だから彼らは負けたのだ」云々と評価しているのは非常な滑稽な話です。

 

 結果として敗者となった戦国大名・武将の軍事的な思考・行動を読み取り、評価したいならば、彼らの軍事的能力や経験を認め、彼らの思考や行動の理路を学ぶべく努力した上で、もっと謙虚に彼らの評価をすべきでしょう。

 

「批評というのは、批評する人間の計算や確信、そのすべてを考慮したあとに、物事に深く隠された関連性が目に見える現象として表にあらわれない部分については、その結果が語る。」(第二篇第五章 p272)

 

 上記は、「結果論」について語ったものとえいます。「結果論」というものは、結果に至る過程をきちんと理解した上でないと、結果から逆算した結論となってしまい、因果関係が逆になってしまうため、一見論理的に見えて、論理的ではないものになってしまう危険性があります。

 例えば、前述したように、戦国大名が戦に負けたとして、「それは彼が『戦下手』だったからだ」という結論に一足飛びに飛びついてしまうのは、まさに「誤った結果論」と呼ぶべきであり、なぜその大名が戦に負けたのかは、個別に詳細に因果関係を具体的に分析していくしかないのです。

 

 そうしないと、敗将を否定的に評価している人物の言っていることが、その敗将のやった事より更に深刻な失敗を引き起こすような発言である事すらあるのです。

 

 これに対して、なんでも「それは、結果論にすぎない(から誤りだ)」と決めつけるのも間違いです。

 

 例えば、徳川家康は、豊臣秀吉の死後、一貫して継続的な意思として、豊臣公議の簒奪のために、自勢力の強化及び妨害が予想される政敵の排除に動いています。これを「それは、偶然だ。結果論に過ぎない」という方は、人間というものには継続的な「意思」があるという事を忘れているのです。

 ある人物が継続して一貫性のある行動をしている場合、それは、その人物は継続した一貫性のある意思を持って行動している事が、その人物の行動の「結果」から分かる訳です。

 

 ある歴史上の人物の「意思」を認めず、まるで「物」や「自然現象」のように見る歴史観は、今後は廃されなければなりません。