古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十三 徳川家康の森忠政独断加増事件-北信濃を巡る関ヶ原前哨戦

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~39を参照しました。)

 

 慶長三(1598)年正月十日、豊臣秀吉は越後一国と北信濃四郡(更科・埴科・水内・高井)を支配する上杉景勝に対し、会津若松城を本城とする陸奥・出羽120万石への国替を命じます。

 

 上杉重臣直江兼続と共同してこの国替作業に携わったのが石田三成でした。三成は、上杉の旧領すべてを一旦自らの管轄下に置き、配下の奉行衆を派遣して、領知替え万端を監督します。

 

 越後国には堀秀治が入封し、北信濃四郡十三万九〇〇〇石のうち、関一政・田丸直昌領、寺社領、代官扶持領を除いた、五万五二六五石が豊臣家の直轄蔵入地に編入されました。

 

 この蔵入地は、「家康の西上に備える兵站基地にしようとした企みが見え隠れする。」(*1)と高橋敏氏は指摘しています。

 三成の縁戚・盟友といえる信濃国上田の真田昌幸と、豊臣恩顧大名である関一政・田丸直昌領、そして五万五二六五石の蔵入地をもって、関東の家康が万が一豊臣家に刃向かい、信濃を経由して西上を図った場合、これを阻止するための基盤を北信濃に確保した訳です。

 

 しかし、秀吉が慶長三(1598)年八月一八日に死去し、翌年閏三月に起こった七将襲撃事件によって三成が隠居に追い込まれた後、家康の反撃が始まります。

 

 慶長五(1600)年二月一日、徳川家康は田丸直昌を川中島から美濃国内四万石、関一政を飯山から美濃国内三万石に移封します。五大老連署の決まりを破った家康単独署名の領知状でした。

 同日、家康に近い森忠政が美濃兼山城から海津城に移され、忠政は七万石から一三万石七五〇〇石の大幅加増となります。豊臣家の蔵入地五万五二六五石の蔵入地は、家康の勝手な判断で没収され、徳川方に押さえられることになりました。

 家康から私恩を受けた森忠政は、関ヶ原の戦いで徳川方に付くことになります。

 

 こうして、北信濃に築かれた家康防波堤は、家康によって破壊されることになりました。これにより、徳川軍の中山道西上を阻止するのは、上田の真田昌幸のみということになり、北信濃で徳川軍の西上を阻止するのが困難になったといえます。家康の先の戦いを読んだ蔵入地没収と、森忠政への独断加増といえます。

 しかし、天下分け目の戦いが起こった時に、中山道を西上した(徳川本隊といえる)徳川秀忠軍が結局関ヶ原の戦いには間に合わずに終わったのは、また歴史の皮肉といえるでしょう。 

 

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 注

高橋敏 2017年、p32

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年