古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

上杉景勝と石田三成と鷹狩について

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 石田三成は鷹狩を趣味としていたといわれています。以下、中野等氏の『石田三成』から、鷹狩に関連して石田三成が「中納言様」に宛てた手紙を紹介します。(以下、現代語訳部分のみ引用します。)

 

「◇内々進上しようと存じ、昨日御目にかけた塒(とや)鷹ですが、(残念ながら)昨日ご覧に入れたところでは何の獲物もありませんでした。心残りは今日になっても深くありますが、鷹師を使って狩らせたところ、この雁一羽をとることができましたので、塒鷹にこの雁を添えて進上致します。内々申しましたように、私の秘蔵の鷹でございます。青鷺を捕獲する鷹ということで他所からいただいたものですが、雁にばかり興味を持ち、私の手許で青鷺をとることはありませんでした。当春、私のところでは菱喰を加えて雁を二十羽ほどとりました。この鷹の技量については、今度の道中で山城守殿(城州)が御覧になっているので、(詳しくは山城守殿に)御尋ねください。肉色当て(ししあて)以下細かなことは此の鷹師が承知しておりますので、そちらの御鷹師から御尋ね頂ければ結構かと存じます。もしかすると大崎の所へお預けになるかもしれないかと存じ、さきほど大崎の所から人を呼んで経緯を説明しております。当春は最早、雁も居ないと思いますが、来秋鳥家出し時の御楽しみには、少々の若鷹よりは期待が持てると存じます。又昨日、お自ら羽合わせになった若鷹は、私が行って、雁を二羽、鷹師は雁を七羽とらえておりますし、大崎方では青鷺を二羽とっております。この鷹は確実に来秋靏(つる)をとるものと存じます。大崎のところにこの鷹を残してきておりますので、夏の間青鷺雁を御楽しみください。(秋になって)靏を捕獲した後にお返しいただければと存じます。誠に興味がつきません。

   二十六日       三成(花押)」(*1)(下線部筆者)

 充所の「中納言様」について、中野氏は「織田秀信とする向きもあるが、ここでは上杉景勝とし、「城州」をその老臣直江山城守兼続に措定しておく。」(*2)としています。

 

 この書状について、谷徹也氏の『石田三成』では、年月は慶長三年三月の可能性が高く、宛名については、「結論から言えば、文中の「大崎方」は大崎氏の関係者を指すものと思われ、宛名は上杉景勝で「城州」は直江兼続とする中野氏の理解が適切であろう。というのも、三成は大名の復帰を目指して在京していた大崎義隆の援助を行い、正澄(筆者注:三成の兄)に宿所を手配させていた。よって、大崎氏関係者の鷹師が三成と交流していたであろうことは推測に難くない。また文中で宛名の人物と居所が近いことに加え、「当春」は雁もいないとする表現から、三成が奥州に下っており、帰鷹の時期である慶長三年三月二十六日が発給日として妥当と思われるのである。」(*3)としています。

 

 以前のエントリーで詳述しましたが、三成は古くから上杉家の取次を務め、親交を深めています。慶長三年の三成の奥州下向も、上杉家の会津転封作業に携わるためです。

 上杉景勝石田三成の鷹狩を通じた交流が伺われる書状です。

 

関連エントリー

☆考察・関ヶ原の合戦

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 注

(*1)中野等 2017年、p4~5 

(*2)中野等 2017年、p5

(*3)谷徹也 2018年、p30~31

 

 参考文献

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年