古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島井宗室と石田三成について

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 島井宗室(天文八(1539)年~元和元(1615))は、戦後時代後期から徳川初期にかけて活躍した博多の豪商です。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれます。

 織田信長の死後、島井宗室は豊臣秀吉の保護を得て、畿内-博多-南蛮・朝鮮の交易路を築き、貿易品の取引で巨万の富を得ます。

 

 秀吉が朝鮮出兵を企図すると、宗室はこれを阻止するため、同じく出兵反対派である(対馬の大名)宗義智小西行長石田三成と協力して、渡海して朝鮮との交渉にあたり戦争の回避を図るよう折衝を行いましたが、結局この交渉は秀吉の容れるところとはならず、秀吉は諸大名に朝鮮へ出兵を号令し文録元(1592)年、文禄の役がはじまることになります。

 

 この頃の宗室の逸話について、田中健夫氏の『島井宗室』より引用します。

 

「ここで、余談にわたるが、朝鮮役の勃発にあたって宗室が示した態度に関する逸話を紹介しておこう。享保年間鶴田自反の撰した『博多記』に見える次のような話である。

 秀吉公が大坂の城から島井宗室をおよびになられたので、夜を日についでのぼったところ、大坂の淀川口で石田三成が出迎えた。三成が宗室に言うには、「今度そなたをおよびになられたのは、朝鮮出兵の思召しによるもので、其方は朝鮮にも毎度渡海しているので、くわしい様子をお尋ねになられるだろう。そのときはこのように申し上げよ。」といちいち言いふくめられた。秀吉公に御対面したところ、「朝鮮出兵を思い立ったので其方を呼んだ、知っている通りを述べよ。」という御言葉であった。宗室は、「朝鮮は韃靼(満洲)につづき、要害の地であって、日本とは大変様子が違っている。出兵のことは断念した方がよいでしょう。」と三成が教えた通りを申し上げた。秀吉公は大変機嫌を悪くして、「自分が思い立てば唐土四百余州を攻め潰すことも掌(たなごころ)を反すように簡単なことである。其方は商人故それがわからないのだ。」と仰せられ、奥に入られてしまった。このことがあってのち宗室は秀吉公からうとんぜられるようになってしまった。」(*1)とあります。

 

 石田三成と島井宗室は仲が親しく、三成が博多を訪れた時は宗室の屋敷を居所としていました。また、後に三成が筑前の代官を務めた時は、宗室は蔵入地の百姓等と代官三成の中間に立って大いに奔走するところがあったとされます。(*2)

 

 注

(*1)田中健夫 1961年、p158~159

(*2)田中健夫 1961年、p177~182

 

 参考文献

田中健夫『島井宗室』吉川弘文館、1961年