古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

佐竹義宣と石田三成について④~関ヶ原合戦、秋田にある石田三成の墓

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佐竹義宣と石田三成について① 

佐竹義宣と石田三成について②~宇都宮国綱改易事件 

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

 

1.佐竹氏と関ヶ原合戦

 

(以下の文章は、森木悠介氏の「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収)を参照しています。)

 

 慶長五(1600)年六月、徳川家康は、会津上杉景勝に謀反の疑いをかけ、豊臣秀頼の名のもとに上杉征討軍を率いて東征の途につきます。

 家康不在となった上方で、三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)は、七月十七日「内府違いの条々」を発出し家康を弾劾して、家康を討つべく西軍が挙兵します。

 

 佐竹義宣は、七月十五日に軍法を発し、当初の秀頼の命令に従い出陣したものの、同二十三日、三成からの連絡があったのか、三成へ飛脚を派遣し、進軍を停止します。

 家康は、佐竹氏に人質の提出を求めますが、義宣はこれを拒絶、上杉氏に援兵を求めます。八月中旬には上杉氏と何らかの軍事協定を結びます。

 しかし、上杉氏の関東乱入も行われない中、単独で佐竹氏は動きようもなく、また内部にも親徳川勢力もあり足並みも乱れ、軍事行動を取ることができませんでした。

 結局佐竹氏は、西軍としても、東軍としても戦うことのないまま、慶長五年の天下分け目の戦いは九月十五日の関ヶ原の戦いで、東軍の勝利で終わることとなります。

 慶長七(1602)年五月、義宣は家康から出羽国への減転封を命じられます。これは、慶長五年戦役時の徳川軍への非協力的態度を咎められたことによります。

 義宣は、新領地秋田へ向かい、新領国の整備に努め、近世大名秋田藩佐竹氏・約二十万五八〇〇石の礎を築くことになります。佐竹氏は秋田藩の大名として明治維新まで続きました。

 

2.秋田にある石田三成の墓

 

(以下の文章は、佐藤誠氏の「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)を参照しています。)

 秋田県石田三成のものと伝わる墓が現存しているといいます。秋田県秋田市八橋(やばせ)にある帰命寺の本堂の近くにある紡錘形の墓碑がそれとされます。

 

 佐藤氏によりますと、この墓の由来については明治中期に近藤源八によって書かれた『羽陰温故誌』に以下のように記載されているとのことです。

 

「寺僧ノ曰、三成関ヶ原一戦二負ケ生捕リトナリ刑ニ処セラレシト雖左ニアラス。刑場ヲ脱シテ佐竹家ニ潜伏ス。後剃髪シテ念仏ノ行者トナリ、生キナカラ穴ニ入リ、鉦鈷ノ音絶ヘナハ我死セリト思ヘト、終ニ往生ノ素懐ヲ遂ケタリト。故二土俗称シテ穴入リ開山ト云々。」(*1)

 

 また、『羽陰温故誌』には、三成が出羽に落ち延びる際に、秋田藩佐竹義宣の関与があったことを暗に示唆する以下の記述があります。

「藩祖義宣公雄略義胆ノ名将如何ナル智謀ヲ以テ彼ノ末路ヲ全フセシメルヤモ知ル可カラス。」(*2)

 

 もっとも、帰命寺の開祖である長音上人は、供養塔の記載によると、延宝六(1679)年に79歳(又は77歳)で死去したとあり、石田三成が延宝六年まで生きていたとすると、百二十歳ということになり、とても常識では考えられないとのことです。

 三成研究で著名な白川亨氏もまた、長音上人の生きた時代と三成生存説とでは年代が合わないとし、無理を承知で関連づけるならば、年代的には三成の弟の子とでも位置づけられるのではないかとも述べています。(*3)

 

 上記の話からは外れますが、佐竹義宣の築いた久保田城跡は、現在千秋公園となっており、その一角に宣庵という茶室があります。その宣庵の庭に、三成ゆかりの舟型の手水鉢が残されています。この手水鉢は朝鮮の役の時に加藤清正の家臣が朝鮮から持ち帰り秀吉に献上したもので、その後いかなる故あってか三成の計らいで佐竹家にもたらされたものと伝わっています。(*4)

 

 秋田の三成の墓は「伝説」の類と思われますが、佐竹義宣石田三成の親交を偲ばせる「伝説」といえるでしょう。

 

 注

(*1)佐藤誠 2016年、p91

(*2)佐藤誠 2016年、p93

(*3)佐藤誠 2016年、p94~95

(*4)佐藤誠 2016年、p96

 

 参考文献

・森木悠介「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収

佐藤誠「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)