古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十七 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況②

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 豊臣秀吉死去前後の状況について、イエズス会が日本年報で報告しています。

 本エントリーは、前回の続きです。

 ※前回のエントリー↓

 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 家入敏光訳「一五九八年十月三日(※筆者注:(日)慶長三年九月三日)付、長崎発信、フランスシスコ・パシオのイエズス会総長宛、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p108~109)より、ロドゥリーゲス師が秀吉に謁見した記載について、以下抜粋・引用します。

 ロドゥリーゲス師は通辞等として、以前より秀吉と親しく、このため謁見を許されたといえます。

 

 

「こうしたこと(筆者注:前エントリーで記述された出来事)が進行していた折、ジョアン・ロドゥリーゲス師と数名のポルトガル人は、最近(長崎に)入港した(ポルトガル船の)司令官の名をもって、国王(太閤様)に贈物を献上するために、伏見を訪問した、(ポルトガル)船が日本の港に付くと、早い機会にいつもそうする習わしなのである。太閤様は彼らが来訪したことを聞くと、奉行の一人に命じて、一行の航海が無事であったことに祝意を表させるとともに、ロドゥリーゲス師に対してのみ謁見を許し、他の人々は引見したくないと伝えさせた。司祭は国王に見(まみ)えるまでに非常に多くの庭や広場、住居や部屋を通過せねばならなかったので、帰りには案内者なしに出口を見つけることは困難(だと思われ)た。ロドゥリーゲス師がついに宮廷内の寝所に達したところ、太閤様は純絹の蒲団の間で、枕(に頭をのせて)横臥し、もはや人間とは思えぬばかり全身痩せ衰えていた。太閤様はロドゥリーゲス師に、もっと近寄るように命じた上、「予は貴師に接して少なからず心がなごむ。余命幾ばくもなく、ふたたび見えることはあるまい」と語った。そして太閤様は、司祭が今回のみならず、過ぐる年、(幾度も)来訪した労苦に対して感謝した。それから太閤様は、ロドゥリーゲス師に米二百俵、日本の衣装一重ね、ならびに(九州へ帰るのに)適当な乗船一隻を与え、司祭に伴ってきたポルトガル人たちにも幾重ねかの衣服を、そして上記の司令官の二組の帆船に米俵二百俵を、さらに同数の(米)を(司令官の定航)船に与えた。太閤様はまた、国王(秀頼)が(ロドゥリーゲス)師の訪問を受けることを望み、これより先、家臣を通じて、(秀頼に対して)司祭ならびにその同僚のポルトガル人は異国人ゆえ、彼らを鄭重にもてなすようにと命じていた。かくて息子(秀頼)は、そのように実行し、父王が行ったようにおのおのに対して絹衣を授けた。

 その翌日、既述の五奉行の息子や娘たちの間で婚姻が行われることになっていた①ので、太閤様はその荘厳な結婚式に、ロドゥリーゲス師が列席することを望んだ。最後にロドゥリーゲス師は太閤様に対して、(今後)ポルトガル人たちを厚遇してもらいたいと大いに彼らのことを推挙したところ、太閤様は司祭に対して多くを語り、大いに好意を示した上、司祭を退出させた。(ロドゥリーゲス)師は非常に心苦しい思いで、太閤様のもとを辞去した。それというのも、司祭には太閤様が不憫に思えたからで、太閤様は、他のすべての点では大いに先見の明があり聡明でもあったのに、己が霊魂の救いという重大事についてはひどく頑固に目を閉じて、司祭がしきりに救霊のことについて話そうと望んでも、それについては一言も耳をかそうとはしなかったからであった。」(下線・番号、筆者)

 

 

メモ:

1.ロドゥリーゲス師が秀吉に謁見した記載は、伝聞ではなく直接見聞きした記録ですので本来は重要な記載なのですが、あまり秀吉の遺言関係等で、重要な記載はありません。(異国人ですので、ある意味当然ですが。)

2.「その翌日、既述の五奉行の息子や娘たちの間で婚姻が行われることになっていた。①」というのは気になる記載です。五奉行同士家の間で婚姻を行うようにというのは、秀吉の遺言でもあったかと思われますが、実際には行われてはいません。とすると、この「その翌日」に行われたのは何だったのか。婚約式のようなものでしょうか。具体的な縁組が記載されていないため、気になるところです。

 結局、実際には秀吉の遺言通りには五大老家同士の婚姻も、五奉行家同士の婚姻も進みませんでした。

 

 ③に続きます。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の二十八 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況③