古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

神屋宗湛と石田三成について

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 天正十五年正月、豊臣秀吉は博多の豪商、神屋宗湛(一五五一-一六三五)を茶会に招くことになります。この秀吉と宗湛の面会の設定は、博多商人との繋がりを重視する、(宗湛と親しい)堺商人津田(天王寺屋)宗及と石田三成のはたらきかけによるものでした。宗湛は、招きに応じてまず大阪の宗及を訪ねます。

 

 以下、武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年の記述を紹介します。(ページ数は、上記書籍の引用したページ数です。)

 

「早速宗湛は宗及を訪ねると、石田治部少輔(三成、一五六〇-一六〇〇)の所に居るというので、急ぎ治部少輔の元に参り、奥に呼び入れられた。そこには、三方の上に白梅一枝を添えて、肴盃が用意してあった。治部少輔は宗湛に対し、「明日は出来るだけ世話をやかねばならぬな」といった。宗湛は御礼の言葉を述べて、治部少輔邸を後にした。

 天王寺屋宗及は、織田信長、関白秀吉に仕え、商人として茶人として、また秀吉のブレーンとして、機を見るに敏で、頭脳はすこぶるさえていた。片や石田三成は、多くの武断派大名を向こうに回して頭脳で勝負する実務派でもあった。

この二人が練り上げた筋書き通りに、宗湛は唐津を出発、剃髪得度、堺の茶の修業の日々をこなせばよかった。宗久は叔父道叱に頼んで宗湛を待機させ、あらかじめその日のために買い整えておいた秀吉の献上品を持たせ、堺の石田三成邸の宿所で宗湛が来るのを今や遅しと待っていたのである。

とにかく、ここまでは三成と宗及の筋書き通りに事は運んだ。次は本番である。三成の、本番をそつなくやりとげるための武者震いを「明日随分馳走可被成御申候」(明日は随分馳走成らるべしと御申し候)という三成の言葉に、如実に読み取ることができるのだ。」(p105~106)

 

一五八七(天正十五)年正月三日に秀吉の大茶会が予定されており、宗湛はこの茶会に招かれたのでした。宗湛だけではなく、他の大名・商人たちも招かれています。

 

「宗湛はほかの人々といっしょに広間に広間に落ち着いた。奥から石田治部少輔が出てきて、宗湛一人を内に召連れ、茶の湯のお飾りを一通り見せてくれた。その後、再び元の広間に戻り、しばらくして持参の進物を差し上げた。その後に堺衆五人が続いた。関白秀吉が現れ、お飾りを拝見せよとの秀吉の言葉で、案内役の関白秀吉のあとから、みなぞろぞろと従い、各々拝見していた。その時である。

「筑紫の坊主はどこにいるか」

と、関白が尋ねた。すかさず、

「ここに居りまする」

と、宗及が宗湛に代って答えてくれた。関白はまたまた、

「残りの者どもはしりぞけて、筑紫の坊主一人によく見せよ」

と、声をかけてくれたので、堺の衆はみな縁に出て、宗湛は一人お飾りを拝見することができた。その後再び縁に出て、しばらくお飾りを拝見した。再び関白が言うには、

「多人数であるから四十石(葉茶壷の大名物)の茶のみでは足りないだろうから、その撫子(葉茶壷の大名物)と松花(葉茶壷の大名物)の茶を今ひかせて、みなにのませよ」」

 とのことで、松花のお壺を千宗易が、撫子のお壺を天王子屋宗及がそれぞれ床より下して、お茶を取出し、再び元の場所に形を整えて置いた。

 お膳が出始めたので、宗湛は次の広間に控えていたところ、関白がまた、

「筑紫の坊主に飯をくわせよ」

と声をかけてくれた。宗湛は、関白の前に出て、大名衆と同じように食事を賜った。座敷の最中に、関白の茶頭の一人、納屋(今井)宗久(一五二〇-九三)と宗湛が背中合わせに坐った。宗湛と宗久二人のほかは、京・堺の商人は一人も坐っていなかった。給仕人は多人数で、宗湛の前には石田治部少輔が自らお膳を持ってきてくれた。

 食事の後のお茶の時に、関白は立ったまま、こう言われた。

「多人数ゆえ一服を三人ずつで飲むように、されば、くじで組み合わせをよきように決めよ」

早速、内より長さ三寸、横一寸くらいの板に名前を書いて、小姓衆が関白の前に持ってきた。大名衆はこの札を手早く取って、各自の場所を決めた。お茶を頂くはじめに、関白は

「その筑紫の坊主には、四十石の茶をゆっくり飲ませよ」

 との御諚を与えた。そこで宗湛は宗易のお手前で一服頂くことができた。井戸茶碗(高麗茶碗の一種で、濁白色の土に淡い卵色のうわぐすり(釉薬)がかかっている。室町期以後、茶人が愛用)でぬるくたてられていた。

「新田肩衝(にったかたつき)(唐物肩衝茶入の大名物)を手にとってみせよ」

との関白の指示で、宗湛は一人でゆっくり拝見することができた。

 

宗湛、面目を施す

 

 一度ならず、二度、三度と、満座の中で、宗湛は「筑紫の坊主」の愛称で呼ばれ、お飾りの拝見では一人ゆっくり手にとって拝見することを許された。それのみならず、大名衆といっしょに関白の前で食事を賜り、給仕は石田治部自身がしてくれた。この頃の最大級のもてなしは、主人みずから客人の前にお膳を運ぶことであるが、秀吉のブレーンである三成の給仕は、最大級のもてなしだったと考えてよいだろう。しかもこの食事を賜ったのは、大名、武士以外では今井宗及と宗湛二人だけだったようだ。淡淡とした筆致の中に、面目を施した宗湛の無上の喜びがにじみ出て『宗湛日記』の中でも、とりわけ圧巻の部分である。」(p107~111)

 

関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com