古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

春屋宗園・沢庵宗彭と石田三成について

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 大徳寺の住持、春屋宗園と石田三成とのかかわりについて、白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年より、引用します。

 

「(前略)三成は、春屋宗園に深く帰依し、師のもとにたびたび参禅している。

 大徳寺の三玄院は春屋宗園の塔所として、三成が浅野幸長森忠政とともに建立したものであり、文禄三年九月には、その母・瑞岳院の葬儀を三玄院で営んでいる。続いて慶長四年、佐和山隠棲中の三成はこの亡母のために瑞岳寺を建立し、春屋宗園に請うて開基としている。その時、董甫紹仲、江月宗玩、沢庵宗彭佐和山に赴いている。

 三成が被誅されたのち、その遺骸を収めたのは春屋宗園であり、石田一族のために墓塔を建立し丁重なる供養を続けられた。特に春屋宗園の法弟・江月宗玩・沢庵宗彭等は、三成に対する追慕の念が深かったようである。

 三成の嫡子隼人正重家が関ヶ原戦後、妙心寺寿聖院に伯蒲恵稜を頼って助命され、その後、雲屋祖泰のもとで修行し、やがて大悟を果たし、済院宗享大禅師となって寿聖院三世を継承するが、筆者の自宅からほど近い、与野市の鈴木利知氏所蔵の「宗享画像」の賛によると、春屋宗園のもとに参禅をして大悟を果たした旨、記載されている。

 しかし、現実に大悟の印可状は、妙心寺第百七世で寿聖院二世の雲屋祖泰によって発せられていることから、それを鵜呑みにすることは出来ないが、春屋宗園の指導をも併せて受けたことは間違いないであろう。」(p287)

 

※1 春屋宗園とその法弟らが、処刑された石田三成の遺骸を引き取り、大徳寺三玄院に埋葬しました。石田三成墓所大徳寺三玄院にあります。

※2 白川氏は後述するように、後に三玄院の建立者の中に浅野幸長が入っているのは幸長の年齢的におかしいと、疑問を呈しています。

 

 また、春屋宗園の法弟、沢庵宗彭石田三成との関係について、白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年より引用します。

石田三成浅野幸長森忠政とともに、大徳寺の春屋宗園の塔所として天正十四年(一五八六)建立したのが三玄院とされている。

 石田三成は二十七歳のときであるが、浅野幸長はまだ九歳のときであり不自然である。恐らく浅野長政が建立したのを、後年、石田三成との対立関係を強調するため浅野幸長としたものであろう。

 沢庵宗彭は春屋宗園の法弟であり、慶長四年(一五九九)八月、春屋宗園、董甫紹仲、江月宗玩、沢庵宗彭石田三成が亡母のために佐和山に瑞嶽寺を建立したとき、落慶供養に赴いている。

 落慶供養が終わった後、春屋宗園、江月宗玩は大徳寺に帰るが、董甫紹仲は瑞嶽寺の住職として残り、沢庵宗彭佐和山に残っている。

 瑞嶽寺はその翌・慶長五年九月十七日、佐和山落城のとき焼失したため、沢庵の瑞嶽寺での生活は僅か一年に過ぎなかったが、沢庵にとっては生涯忘れられない一年間だったようで、沢庵を石田三成ファンにしてしまったようである。三玄院に帰った沢庵には極貧の生活が待っていた。

 慶長十六年(一六一一)二月、豊臣秀頼が沢庵の道誉を聞き、大坂城に招いたが、沢庵はそれを断っている。石田三成の誠意も理解できず、見殺しにした秀頼に、「何を今更」との感を抱いたものであろう。

 同年八月、豊前小倉城細川忠興が、父(細川幽斎)のため、一寺を建立、その開堂供養を沢庵に依頼してきたが沢庵は断っている。

 細川忠興は尚も諦めきれず、叔父の玉甫紹琮を介して再び依頼してきた、それでも沢庵は断るのである。細川忠興の叔父の玉甫紹琮は二年前に沢庵宗彭を、大徳寺百五十三世住職(管長)に推挙した恩人である。

 その翌十七年五月、南紀の領主浅野幸長が堺の南宗寺に沢庵を訪ねるが、沢庵は裏口から抜け出して大安寺に逃れ、浅野幸長を避けている。

 元和三年(一六一七)二月、筑前の領主・黒田長政大宰府にあった崇福寺を博多に移し、沢庵に住職になるよう依頼したが、沢庵はそれも断っている。沢庵宗彭には自らの保身のため、石田三成を死に追いやった人々をどうしても許せなかったようである。」(p155~157)

 

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