古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成の次女 小石殿とその子孫②~石田三成の曾孫(於振の方)、徳川家光の側室となる

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 石田三成の次女 小石殿とその子孫について、高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』洋泉社(歴史新書y)2012年より引用します。

 

「小石殿は岡重政との間に岡吉右衛門という男子をもうけており、吉右衛門の妻は町田幸和の娘於伊屋で、その間には石田三成の曾孫となる於多阿、於振という女児と町野庄左衛門が生まれている。(血脈図 石田三成③参照)(※筆者注:省略します)

 そしてこの三子のうち、次女於振は三成の三成の地が再び大きな舞台に立つ立役者となった。於振の外祖父となる町野幸和の妻は祖心尼といい、徳川家大奥で絶大な力を持っていた春日局の義理の姪であったことから、町野幸和は旗本に取り立てられることになる。また於振は春日局の養女として大奥に入り、三代将軍徳川家光の側室於振の方となるのである。

 於振の方は寛永十四年(一六三七)、家光の最初の子となる千代姫(霊仙院)を生んだ。関ヶ原の戦いの三十七年後に石田家と徳川家の血が結合して生まれた子供であった。

 徳川家にとっては旧敵である石田三成の血を引いた於振の方は、御台所とまではいかないが、将軍の子を生むという当時の女性が望める最も高い地位の女性となったのである。

 しかし於振の方はその後体調を崩し、三年後の寛永十七(一六四〇)八月二十一日に若くして死去してしまう。法名は自証院殿光山暁桂大師である。

(中略)

 於振の方の娘千代姫は尾張藩第二代藩主徳川光友正室となり、三代藩主綱誠、高須藩主松平義行らを生んでいる。その後、三成の血統は尾張徳川家から絶えるが、女系では四代藩主徳川吉通を通して九条家二条家へその血が繋がってゆくことになる。」(p126~129)

 

メモ:

 上記のように、石田三成の曾孫於振の方が徳川三代将軍徳川家光の側室となり、その娘千代姫は尾張藩第二代藩主徳川光友正室となって三代藩主綱誠に続くことになります。かつて関ヶ原で仇敵として戦った石田家と徳川家の血が交じり、受け継がれていくという史実には驚かされます。

 

 参考文献

高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』洋泉社(歴史新書y)2012年