古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について③

 

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※ 前回のエントリーの続きです。↓

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 今回は細川幽斎の「薩隅仕置」と、島津久保の死去・島津忠恒(ただつね)の継嗣について検討します。

 

1.細川幽斎の「薩隅仕置」 

天正二十(1592)年、秀吉は三か条の朱印状を島津義久細川幽斎に発給します。この三か条の内容は、以下のようなものでした。

「①島津義久と義弘の蔵入地で、近年売却した田畠は、ことごとく堪落(かんらく)(取り戻すこと)し、元のように蔵入地とすること。

 ②社領の堪落分を検地し、今年の庶務(年貢)から義久の蔵入地にすること。

 ③島津家中の代官の算用を改めること。 」(*1)

  この三か条について、山本博文氏は以下のように説明しています

「以上でわかるように、島津大名権力の経済基盤の強化が目的であった。

 のちに詳しく考察するが、戦国大名の蔵入地はおおむね弱体なもので、その程度の規模ではとても長期の遠征などは行えない。島津氏の九州統一戦争にしても、現地での兵糧略奪を前提としたものだった。他方、秀吉の戦争は、兵士たちが現地での略奪をおこなわなくてもよいように、多くの直轄地と潤沢な金銀をもつ秀吉が兵糧を支給する体制になっていた。島津義弘がわずか二、三年の在京生活で音をあげたように、貨幣収入にいたってはとるに足らないものであった。

 ①で指摘されているように、それらの戦費をまかなうため島津氏の蔵入地は売却され、さらに弱体化していた。これを、豊臣政権の後押しで取りもどそうというのである。

 これらの「仕置」は、大名権力としては申し分のないものであるが。とうぜん国元の家臣たちの利害とは相反し、つよい反発をうける。また、寺社領からも一定部分を上地(あげち)(没収)し、蔵入地に編入した。また、蔵入地支配にあたる代官の算用も不正が多く、綱紀粛正をはかっている。」(*2)

 

 しかし、幽斎の行った「仕置」は、混乱を避けるために国元の家臣団達に妥協的な対処を行ったものでした。このため、国元に残っている義久とその家臣団に有利で、朝鮮に在陣した家臣達に不利な処遇がされ、不公平な仕置となりました。本来、義弘に編入される大隅の蔵入地が義久の蔵入地になり、堪落した大隅の残りの土地もまた国元の義久の家臣に与えられてしまったのです。その上、朝鮮で久保が召しつかっている者たちの知行まで収公されます。この不当な処遇は、朝鮮在陣の島津義弘・久保とその家臣団の憤激を買うことになります。(*3)

 また、堪落した土地が国元の義久の家臣団に分け与えられたため、「仕置」本来の目的であった島津家の経済基盤の強化も十分に達成できませんでした。

 こうして「幽斎仕置」が失敗した状況を打開するために、義弘は、石田三成による太閤検地を切望するようになります。

 文録二(1593)年七月八日、義弘は、義久にたいして以下のような書状を送ります。

「「爰元(ここもと)の風説では、薩摩・大隅に検地が行われるといいます。もし本当ならば困ったことです。なぜなら、家臣たちの多くが留守で、検地奉行衆への対応などとてもできないでしょう。検地奉行衆の機嫌をそこなえば、国もためになりません。諸大名とも石田三成殿を頼んで検地してもらおうと申し合わせています。当国においてもたびたび御内談申しております。ですから、石田殿が御帰朝した折りに、そのように頼むつもりです。そのお心得をなさってください。石田殿の御帰朝も近々でしょうから、さして間をおくことはございません」

 義弘は、取次である石田三成に検地をしてもらうことによって経済基盤を強化し、この窮地を乗り切ることを決意しているのである。家臣団統制がルーズで、経済基盤が弱体な島津氏にとって、豊臣政権の実力者である三成の保護がどうしても必要であった。大名権力の強化統制を使命とする三成に積極的につながることによって、島津氏の存続をはかろうとする策である。」(*4)

 この義弘の書状に対して、義久は消極的な反応しか示しませんでした。領国内の検地は家中の強い反発が予想されて気が進まない事と、義久自身が豊臣政権の統制を嫌い変化を好まない意向があったためです。

 

2.久保の死と忠恒の継嗣

 文録二(1593)年九月八日、八月中旬から患いがちであった、島津義弘の次男、久保が二十一歳の若さで、朝鮮巨済島死において死去します。義弘は慟哭します。

 久保死去の報は、九月二十三日に名護屋につき、それより京都に帰った石田三成から秀吉に言上されました。(*5)

 島津家の取次である三成は、当面の在所の指示について朝鮮在陣の島津家一族・老中・有力家臣らに宛てて書状を送るとともに、宛所不明の九月二十五日付の以下の書状を発出しています。(現代語訳のみ引用します。)

「-そのほうは、大変であろうが京都にのぼり、義久の意見にしたがい(跡目の事を)太閤様へ御披露し、その決定を義弘にきちんと報告せよ。いまは義弘は取り乱しているだろう。(しかし)現在が島津殿の御家の浮沈が決まるときであるから、油断してはならない。ことに、このまえ熊川で話したように、御家の御仕置(検地をさす)も決定された。詳しくはそのほうへ指示せよと上意があったので、このこともあって上洛することが必要である。詳しくは使者に申し含めた。」(*6)

 山本博文氏は、この宛所不明の宛先武将は島津家有力家臣の伊集院幸侃(こうかん)だとしています。(*7)

 ここで、石田三成の書状に、「御家の御仕置(検地をさす)」が記され、かねてより義弘が懇請していた石田三成太閤検地が、秀吉の御諚により決定されたことがこの書状から分かります。

 

 久保は、義久の娘婿であり島津家当主の後継者とされていました。しかし、久保の死去により島津家の後継問題が浮上します。義久の次女は、島津一族の島津彰久に嫁しており、義久を中心に、義久の次女婿である彰久を後継に推す動きが生じていました。

 三成としては、豊臣公議に非協力で距離を置こうとしている義久の影響下にある彰久が後継となると島津家が政権の統制から外れてしまう事を危惧せざるをえません。このため、この彰久推戴の動きを早急に封じ、親豊臣色の強い義弘系の人物を継嗣に据える必要がありました。

 このため、三成は、朝鮮で在番する義弘との協議をふまえ、久保に代わる島津家継嗣として、義弘の三男忠恒を推すことに決します。三成は、忠恒の島津家継嗣という立場を確固のものとするため、上記の書状で伊集院幸侃に忠恒を速やかに上洛させ秀吉へ拝謁させるように促します。(*8)

  

 忠恒は、文禄二(1593)年十二月、薩摩から海路で京都へ向かい、十三日に大坂に到着します。この時、忠恒十八歳。「十五日には石田三成と会い、その指示にしたがって堺で越年する。三成は、忠恒に非常に親切な態度で、忠恒も信頼している。」

 翌三(1594)年二月に忠恒は疱瘡をわずらい心配されますが、ほどなく軽快し、三月二十日に、伏見城において秀吉に謁見します。これで、忠恒は正式に島津家の後継ぎとして認められたことになります。

 忠恒は秀吉に拝謁すると、すぐ朝鮮へ渡海するよう命じられます。その際に、三成から重要な指示があったと義弘は伊集院幸侃からの書状で伝えられています。(*9)

 三成の指示とは、「鎌田泉守政近・伊集院抱節(久治)・比志島紀伊守国貞ら重臣たちも、忠恒の供をして渡海するよう、薩摩へ命じてくれるという」(*10)ものでした。

 以前に国元から船も兵も来ず、「日本一の遅陣」の不面目を味わった義弘は、この三成の心遣いに感謝します。

「義弘は、

 「これも三成様の好意だとのこと、忝(かたじけな)いことである。それなら、弱輩の身での在陣も心配がないだろう。いよいよ良きように才覚することが大切である。(是又治少様御念を入れられ、忝き次第に候。左様に候はば若輩の在陣も気遣ひあるまじく候。弥(いよいよ)然るべき様に才覚候て肝要に候)」

 と幸侃へ申し送って」(*11)います。

 

 しかし、山本博文氏によると、この三成のはからいも、忠恒が軍勢もつれずに朝鮮に渡るような事態にならないようにするための気遣いというだけではなく、別の思惑もあったとのことです。

「鎌田政近・伊集院久治・比志島国貞は、いずれも義久の信任厚い「鹿児島衆」であった。かれらを国元から遠ざけることによって、来るべき島津領の検地をスムーズに実施しようという意図があったのではなかったか。。」(*12)としています。

 

 この後、忠恒は義久の娘亀寿(久保の未亡人)と祝言をあげます。

「忠恒はすぐに出発するはずであったが、三成がまたまた念のいった配慮をみせた。ほどなく義久が上洛するので、それを待ち、義久の娘亀寿(久保の未亡人)との縁組みを決め、祝言をあげてから渡海するようにとのことであった。

 義久には男子はなく三女があり、長女の婿は薩州家島津義虎(忠辰の父)、次女の婿は島津彰久(垂水家島津以久(もちひさ)の長男)、三女の婿が久保であった。そのようなこともあり、久保死後の島津宗家の後継者をめぐる忠恒の地位は微妙だったともいわれている。そのため忠恒は、ぜひとも亀寿と結婚せざるをえなかった。」(*13)と山本氏は記しています。

 

 次回は、石田三成により行われた島津領の太閤検地について検討します。

 

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  注

(*1)山本博文 2001年、p91

(*2)山本博文 2001年、p91~92

(*3)山本博文 2001年、p92~96

(*4)山本博文 2001年、p97~98

(*5)山本博文 2001年、p97~98

(*6)山本博文 2001年、p116

(*7)山本博文 2001年、p117

(*8)中野等  2017年、p214~218

(*9)山本博文 2001年、p118

(*10)山本博文 2001年、p118

(*11)山本博文 2001年、p118

(*12)山本博文 2001年、p119

(*13)山本博文 2001年、p119

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山本博文島津義弘』中公文庫、2001年(1997年初出)