古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について④

 

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 今回は、石田三成家臣団により行われた島津領の太閤検地について検討します。 

 

1.太閤検地はじまる 

 島津領の検地については、文録三(1594)年初から京都で三成と伊集院幸侃、義久の家老長寿院盛敦の三人で談合が重ねられました。(*1)

 

 一方、「さて、婚礼の祝儀をすませた忠恒は、八月二十五日、名護屋へ到着した。肥前唐津城主で長崎奉行をつとめ、釜山と名護屋を船でむすぶ連絡役でもあった寺沢広高が、忠恒のために「中途まで御着船のお祝い」の使者を派遣し、翌日には祝儀の品として樽五荷・昆布五十本、生鮑五十立(りゅう)・するめ二十五連をよこしてくれた。

 この寺沢および小西行長は、石田三成の人脈につならる武将であり、三成は忠恒の後見人として行動している。文禄四(1595)年五月二十四日の忠恒宛三成書状には、次のように助言されている。

「そちらでの御陣替えなどについて、御談合なさりたいことがあれば、小西行長寺沢広高の両人に諸事御相談されたい。この両人は、私がとくに親しくしている者で、信頼してよいかと思います。貴所の面倒をみるようにと、こちらからも頼んでおきました」

 三成は、このふたりが自分ととりわけ親しい人間であることを告げ、自分からもふたりに忠恒に「御馳走(厚意を示すこと)」するよう依頼している。この寺沢との関係は、のちに島津家にとって大きな意味を持つことになる。」(*2)

 

 文録三(1594)年十一月に、義弘が三成に在陣の人数を報告した書状案(控え)があり、これによると島津勢の総計は三千三十人でした。元々島津氏に課された軍役は一万人(二十石に一人の割合)でしたが、戦いがひと段落した現在は、三成の内意を得て五千人(四十石に一人の割合)まで減らされていましたが、これでも課された軍役から約二千人不足していたことになります。(*3)

 

 この書状案について、山本博文氏は以下のように説明しています。

「この書状案の末尾には、三成にたいして次のような興味深いメッセージが入れられている。

 

 遮って龍伯へ仰せ聞けられ、国元へも仰せ下され候て、人数・兵糧下され、つづき候様に御入魂頼み存じ候。申すに及ばず候へども、この状一覧候て火にくべらるべく候。

-真っ先に義久へ申し入れいただいたうえ、国元へも命じて、軍勢や兵糧が補充されるようによろしくお口添えお願いいたします。申すまでもないことですが、この書状を読んだあとは火にくべてください。

 

 義弘は、島津勢の軍役人数不足という危険な情報を率直に打ちあけ、三成の力を借りて国元から軍勢などの補充を実現し、島津氏の立場を固めようと必死だったのである。ここに、深刻な島津領国の事情をかかえた義弘のジレンマがかいまみえるが、いっぽうで三成の役割にも示唆を与えてくれる。

 三成は、豊臣政権の有力な年寄(奉行)として、諸大名を監督する立場にあった。よって、知り得た情報は、即座に秀吉に伝えられ、その指示を仰ぐと思われがちである。しかし、かれの役割はそんな単純なものではなかった。このように、大名から信頼され、その大名が首尾よく軍役を務められるように、指導・助言する立場にあったのだ。

 最後に義弘が、状を読んだあとは火にくべてくれといっているように、これは秀吉はもちろん、他のどのような者へも漏らせない情報であった。しかし、それにしても、三成に頼るしかないという義弘の心情をよくしめしている文面である。のちに述べる、三成による島津領の太閤検地も、このような視点から理解していくことが重要である。」(*4)

 軍役・役務の不履行による改易は脅しではなく実際にありました。伊勢安濃津城主、織田信包織田信長の弟)が「役儀一円無沙汰(役務を粗略している)」の理由により改易されています。

 また、豊後の大友義統文禄の役の時に小西行長平壌から撤退する際に、つなぎの城にいたのですが、軍勢が少ないため城を捨てて逃亡、この行動に激怒した秀吉により改易となります。これは、義統が家臣団の統制に失敗し、十分な軍勢を集められなかったことが原因とされます。

 島津一族の島津忠辰も釜山浦まで出陣したが、病と称して進まなかったことをとがめられ改易されます。

 このように、軍役・役務の不履行による改易処分が下される可能性は現実の問題として各大名に立ちはだかっており、大名が家中を統制し、課された軍役・役務を全うするためには、検地により大名権力・経済の基盤を強化することが必須だったのです。(*5)

 そして、義弘が長らく望んでいた石田三成家臣による島津領の太閤検地が、文禄三(1594)年九月から翌年二月までの間にかけて行われることになりました。(*6)

 文録三年十一月推定とされる義弘の書状案文(控え)には以下のように書かれています。

「国元検地の儀仰せ付けられ候由、累年の本望この事に候。然らば、幽斎御人数御下りなく候哉、その意を得しめ候。貴老様御手の人数、御書中のごとく、関東以来方々御苦労の上、今度薩まで差し下され候。御芳志申す事なく候。検地の儀は、連々(つれづれ)申し入れ候様に、あはれ〱御一手の人衆にて仰せ付けられ候へかしと存じ居り候処、我等望みの様に罷りなり候。安堵までにて候。

-国元の検地を命じられたとのこと、累年の本望とはこのことでございます。幽斎の御人数は加わっていないでしょうか。聞きたいところです。貴老(三成)の御家臣は、御書中で述べられていたように、関東(北条氏攻め)いらい方々に出張してご苦労のうえ、こんどは薩摩まで差し下されること、その御芳志にいうべき言葉もございません。どうかどうか三成殿の御家臣にて検地を仰せつけられてほしいと存じておりましたところ、私の望みのようになり、安堵しております。」(*7)

 

 三成家臣らによる検地自体は特に何事もなく無事終了しましたが、検地の結果についてはかねてから予想されたように家臣団の強い反発が巻き起こりました。元々義久は検地に反発していましたので、不満を持つ家臣団のわがままを黙認のまま放置しています。事態を打開するには義弘の力が必要であり、このため、三成は秀吉に朝鮮に在陣している義弘の帰国を申請します。これにより秀吉から急ぎ「羽兵(島津義弘)帰朝あるべき」旨の朱印状が発給されます。(*8)

 文禄四(1595)年五月十日に義弘は朝鮮を出発し、六月五日付で大坂に到着します。(*9)

 

2.島津領太閤検地の内容 

 島津領を検地した結果は以下のようになりました。 

 

① 22万5千石たらずであった島津家の領知が55万9533石に倍増した。

② 朱印状の宛名が義弘になった。(豊臣政権が公認した島津領国の主が当主の義久をさしおいて義弘とされた。)

③ 領国の中に秀吉の蔵入地1万石、検地にあたった三成に6千2百石、以前仕置にあたった幽斎に3千石の知行が与えられた。

 本宗家の義久・義弘兄弟に各10万石ずつ無役(軍役がかけられない)で与えられた。(それぞれ7万3千石、8万8千石の加増)

⑤ 伊集院幸侃に5万9千石加増して、8万石の知行を与えれた。(1万石は無役)

⑥ 給人(家臣)本知分総計として14万1225石が与えらた。

⑦「給人加増分」として、12万5308石が設定された。

「給人加増分」については、予備分として義久・義弘の判断で、家臣に加増してもよいし、新参の侍を召し抱えてもよいものとなった。(*10)

 

 検地によって石高は増加します。増加分の石高は、大名の蔵入地に加算されることにことになり、大名蔵入地は飛躍的に増加します。これにより、宗家の義久・義弘に無役の10万石の領知を与え大名家の基盤を固めさせ、更に「給人加増分」を家臣団に振り分ける権限を義久・義弘に与えることで、家臣統制の権力基盤を固めさせることが、太閤検地の主眼といってよいでしょう。

 一方、太閤検地にあたって島津家の家臣団のほとんどの者は知行地を移されることになりました。先祖代々の土地から家臣を引きはがし、家臣が長年つちかった土着の権力を奪うのも太閤検地の目的でした。

 しかし、この「給人加増分」の配当をめぐり、島津家中では不満と訴訟が続出し、島津家中では混乱が続くことになります。 

 特に、島津家家臣の中で検地の中心的な役割を行い、8万石の知行を与えられた伊集院幸侃に島津家中の憎悪が集まり、これが後の忠恒による幸侃誅殺と、庄内の乱に繋がっていくことになります。

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 注

(*1)山本博文 2001年、p121

(*2)山本博文 2001年、p121~122

(*3)山本博文 2001年、p126~128

(*4)山本博文 2001年、p128~129

(*5)山本博文 2001年、p130~132

(*6)山本博文 2001年、p138

(*7)山本博文 2001年、p135~136

(*8)山本博文 2001年、p142

(*9)山本博文 2001年、p142

(*10)山本博文 2001年、p144~148

 

 参考文献

山本博文島津義弘』中公文庫、2001年(1997年初出)