古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について⑤

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 今回は、桐山浩一氏の「島津氏の財政構造と豊臣政権」の論考を紹介し、太閤検地後に石田三成がいかにして島津家の財政の立て直しをはかろうとしたかを見ていきたいと思います。

 

 太閤検地により、島津家の蔵入地は増加しましたが、島津家の財政状況は好転しませんでした。これは、島津家の代官支配や畿内への貢納物の廻送、売却、管理のシステムの未整備等、島津氏の財政機構の未整備が原因であったことが推定されます。

 このため、慶長三(1598)年五月、蔵入地の代官たちを統括する「算用聞」が設けられます。慶長三年五月二十日付石田三成島津義久連署状に蔵入地の代官たちの職務内容をチェックする算用所という機関が設置され、四人の「算用聞」が配置されたことが示されています。

 この算用聞の具体的な職務について、三成と義久が連署の覚書で、畿内での収支に関する「上方之覚」、島津氏の生活の収支に関する「台所方入用之覚」それぞれについての指示を与えています。(*1)

 覚書の内容について、桐山浩一氏は以下のように説明しています。

「この算用聞の職務は、1.代官の監視、2.市場の把握、3.島津家の経理全般の把握の三点にまとめることができるだろう。

 1代官の監視としては、蔵入地や在京賄料からの年貢収奪の徹底、不正の撤廃を図るものといえよう。これは、領国の算用聞にとってより重要な職務であったと考えられる。一方で、上方算用聞にとっての主要な職務は、2市場の把握であった。領国から輸送された米を換金し、管理をする。その際に切手を発行し、不正の撤廃を図っている。また、銀によって絹織物である呉服を購入したり、作事に支出したりする際は、入念な市場調査を求められている。豊臣大名として生き抜くために、贈答儀礼や豊臣政権内での交流に使用する呉服を調達し、豊臣政権から課せられる天下普請を遂行していく必要があったことが読み取れる。

 ところで史料七の「台所方入用之覚」の第四条には、「縦拙者隙入不見届候共、直(置)目之上者如此仕立、何時も見可申との時、無相違可上候」とある。算用聞は義久のみならず三成によってもチェックされる立場であったのである。

 史料六、史料七で、島津氏当主の義久と三成が連署している点に、島津氏財政機構やその具体的運用に対する、三成の深い介入がうかがえる。三成の監視下において、島津氏は代官や出納関係の諸業務に対するチェック機関を整備することができたといえよう。」(*2)

 

 しかし、参用所を設置しても、島津氏の財政は相変わらず好転しませんでした。これは、蔵入地の代官たちが、算用所・算用聞の制度に反発し、算用に応じないためでした。

 この状況に鑑み、石田三成は慶長三(1598)年十一月二十三日、島津氏家臣団に二〇ヶ条からなる覚書を出しています。

 その内容について、桐山浩一氏は以下のように述べています。

「第一〇条では、三殿(義久・義弘・忠恒)の蔵入地の代官たちが算用に応じていないことがうかがえる。新たに設置した算用所・算用聞の制度に対して、領国の代官たちは反発していたと推定されよう。三成は、このような状況を打破するべく、島津氏の「役人」たちが代官たちを説得するように働きかけることを命じている。

 島津氏の多額の負債への対応として、第一一条がある。ここで、福崎能安(筆者注:島津家が秀吉から在京賄料として拝領した摂津国能勢郡の代官。経理に長けており、三成とも親しかった。)が京都商人を連れて下国し、代官たちに未納分を返済させ、残りを本年度の年貢から捻出することを許可している、ここで、三成は、京都商人たちや借用を担当した上方の家臣たちが不正を行っている可能性を指摘し、対応方法を指示している。

 また、島津氏の蔵入地からの収入の使用方法について、第十七条で、債務の返済とし島津氏の必要経費を除いて、蔵に入れ、三成と義久の判付きの許可証がない限り使用してはいけない、と述べている。島津氏の財政は、三成によって統制されているかのようである。 

 以上から、算用所・算用聞の制度は、領国の家臣たちには容易には受け入れられず、豊臣蔵入地の収納もままならない状況であったことがわかる。一方で、豊臣蔵入地の未納問題は、石田三成からの干渉を受けるきっかけとなった。三成は、年貢の収納を担当する代官たちへの対応を指示する一方で、島津氏の蔵米の使用を統制した。ただ、三成は、第一一条で見たように、債務への対応の仕方を助言したり、畿内での大豆相場を教える(第一八条)など島津氏にとって有益な情報を伝える存在でもあったのである。」(*3)

 

 このように、太閤検地による島津の新体制は、島津家臣団からすぐに受容されることはなく、三成は島津家の財政基盤を立て直すために、島津財政への干渉を強めることになります。しかし、「島津氏は、一方的に干渉を受けていただけではなかった。畿内の経済状況に詳しい三成から、「算用聞」設置のアドバイスを受けたり、大豆など雑穀等の相場情報を得たりしていた。島津氏が豊臣政権下で生きていくためには、三成からの情報は必要不可欠であった。

 島津氏の経済は、戦国時代まではおおむね領国内で完結していた。しかし、文録・慶長初期には、先進的な経済地域であった畿内と密接な関係を結ばざるをえなくなり、財政窮乏を招いた。そこで三成の指導のもと、算用所・算用聞を設置して対処をはかった。これが、個々の担当者の裁量に依存する中世的なあり方ではなく、近世的な官僚機構の整備へと脱皮する契機となった。」(*4)としています。

 

 次回に続きます。

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 注

(*1)桐山浩一 2018年、p178~190

(*2)桐山浩一 2018年、p190

(*3)桐山浩一 2018年、p194

(*4)桐山浩一 2018年、p196

 

 参考文献

桐山浩一「島津氏の財政構造と豊臣政権」(2014年初出)((谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成戎光祥出版、2018年所収)