考察・関ヶ原の合戦 其の三十七「五大老」について~1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵①
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慶長三(1598)年八月五日の秀吉の遺言によって、秀吉死後の秀頼後見・補佐体制として、五大老・五奉行制が整えられることになります。
(参考エントリー1)
(参考エントリー2)
渡邊大門氏は、「五大老」の職掌として、以下の3つをあげています。
1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵
2.謀反や反乱の対処(庄内の乱)
3.領地の給与
渡邊氏は、1、2の職務はあくまで臨時のものであり、恒常的な五大老の職務ではなかったと指摘されているとし、重要なのは3.の領地の給与だったとしています。(*1)
このうち、まず1.について見て見ましょう。
1.文禄・慶長役後の朝鮮半島からの撤兵
秀吉死後の朝鮮半島からの撤兵の動きについて見ていきます。
慶長三年八月十八日に、秀吉が死去します。その後、八月二十五日に朝鮮在陣諸大名宛秀吉朱印状が発出されます。この朱印状は、書状に書かれているように朝鮮に派遣された徳永寿昌と宮本豊盛から朝鮮在陣の大名に渡されます。十八日に秀吉は死去している訳ですが、その死は秘密とされていますので、秀吉が朱印状を発出したという形式になっている訳です。ここでは、島津義弘宛のものを引用します。
この書状とともに、五奉行連署による「内儀の覚」と「進公覚」が徳永寿昌と宮本豊盛に渡されます。
以下、中野等氏の『秀吉の軍令と大陸侵攻』より引用します。
「其の表、見廻いとして、徳永式部卿法印(筆者注:徳永寿昌)・宮木長次(筆者注:宮木豊盛)両人差し越され候、長々在番、辛労の至りに候、仍って道服・袷、これを遣わし候、猶奉行衆・年寄どもかたより申すべく候なり、
八月廿五日(秀吉朱印)
羽柴薩摩侍従とのへ
徳永寿昌・宮木豊盛の両使は、右の朱印状を帯びて朝鮮の各陣営に赴くことになるが、同時に彼らは朝鮮側に提示すべき和平案を支持されていた。その具体的内容がうかがえる史料二点をつぎに見ておこう。
内儀の覚
一、王子出で候はば、諸城残らず引き取るべき事、
一、御調物に究まり候はば、朝鮮官人一所務の間、対馬まで渡し置くべく候に付いては、是又、諸城引き取るべき事、
一、右官人相越し候ならず候はば、一所務の間、釜山浦一城残し置くべき事、
右の外、慥かの究めこれ在るに於いては、其の扱い人の覚悟にて、これを相究められるべく候なり、
八月廿五日 長大(筆者注:長束大蔵大輔) 正家
石治(筆者注:石田治部少輔) 三成
増右(筆者注:増田右衛門尉) 長盛
徳永式部卿法印 浅弾(筆者注:浅野弾正少弼) 長政
宮木長次殿 徳善(筆者注:徳善院) 玄以
進公覚
一、八木
一、虎皮
一、豹皮
一、薬種
一、清蚕
一、王子の事
八月廿五日 長大(筆者注:長束大蔵大輔) 正家
石治(筆者注:石田治部少輔) 三成
増右(筆者注:増田右衛門尉) 長盛
徳永式部卿法印 浅弾(筆者注:浅野弾正少弼) 長政
宮木長次殿 徳善(筆者注:徳善院) 玄以
まず、「内儀の覚」から見ていこう。ここから明確なように、戦争終結の条件はまず朝鮮王子の来日にあった。秀吉が没したとはいえ、ここにいたってなお、豊臣政権としてはあくまで戦争の名分を立て通さなければならなかったのである。王子の来日が果たされないなら、「朝貢」をもってこれにかえるという案も存在した。「王子の事」なる規定も含まれるが、後掲する「進公覚」が「朝貢」の具体的内容に関する表示であろう。この場合、朝鮮王朝の大官がしばらく対馬にとどまるならば、王子来日の場合と同様に、朝鮮にある日本側の城塞をことごとく破却してもかまわないが、朝貢がなされても大官の来日がかなわない場合には、釜山城のみしばらく残すことになっている。ちなみに、釜山在番の諸将の番組も作成されてる。(後略)」(*2)
このように、八月二十五日付の文書では、なんらかの形で朝鮮王朝が日本への服従を条件としていますが、朝鮮側がこのような和平案を受け入れる余地はないのが現状でした。
この朱印状と覚が発出された三日後の、八月二十八日に四大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元、上杉景勝はまだ上方にいない)の連署状が発出され、毛利秀元・浅野長政・石田三成の博多下向が告げられます。
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注
(*1)渡邊大門 2019年、p35~36
(*2)中野等 2006年、p350~352
参考文献
中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年
渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』PHP新書、2019年