古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十四「七将襲撃事件」とは何だったのか?③

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 前回の続きです。(前回のエントリーは、↓)

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3.「七将襲撃事件」の「襲撃対象者」は誰だったのか? 

「七将襲撃事件」というと、石田三成一人が「襲撃」の対象者だったようにとらわれがちですが、必ずしもそうとはいえません。

 

「日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状」【44号文書】 (『山口県史』史料編・中世3、光成本のD文書)を見ますと(前のエントリーで引用したものとは、別の書状です。)、

 

「(前略)a治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、b治少一人さほ山へいんきよ候て天下事無存知候様との儀候、是ニ可相澄候、c増右をもミな〱種々申候へとも、治少一人にて可澄と内意候、dさ候とも増右者其まゝにてハ被居 候ましく候条、可為同前候、是ほとニ澄候へ者可然候、(後略)」(白峰旬②、p142。(光成準治、p42~43にも同書の記載あり)

 

とあり、石田三成だけではなく増田長盛も「訴訟」の対象だったことが分かります。(増田長盛は、実際には何も処分は受けず石田三成一人の処分となります。

 

 また、「慶長四年閏三月九日付鍋島信房・石井生礼・鍋島生三宛鍋島勝茂書状によると、

 

「a仍御奉行中・御年寄衆御間御沙汰ニ付而、此此伏見・大坂さわかしく雑説申、b此五三日は石治少一人御迷惑之躰候つれ共、是も昨日相済、」(中略)「【史料11】」「(白峰、p61)

 

とあり、白峰氏は

「傍線aは、この頃の伏見、大阪での雑説の原因が、五奉行五大老の間における評議の問題に起因する、としている点は重要である。評議の問題が伏見、大坂での雑説の原因となったとしていることは、五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたと見なすことができる。その評議の具体的な内容は、上記の【史料11】には記されていないが、五大老の一人である前田利家の死去(閏三月四日)と関係しているのもかもしれない。とすれば、前田利家の後任の大老に関する問題であろうか。

 傍線bは、この数日、石田三成一人が「御迷惑」という状況であったとしているので、上述した五奉行五大老間での評議の問題についての確執に関して、石田三成一人が責任を取らされる形になった、という意味であろう。ただし、石田三成一人が責任を取らされれる形になった経緯は【史料11】には記されていない。」(白峰、p63)

としています。 

 しかし、白峰氏の「五大老の一人である前田利家の死去(閏三月四日)と関係しているのもかもしれない。とすれば、前田利家の後任の大老に関する問題であろうか。」という推測が正しければ、それに関する史料があるはずですが、特に前田利家死後の大老について何かもめたということに言及した史料はないかと思われますので、これが原因とはいえないでしょう。(後継の大老は息子の利長になりました。これは秀吉の遺言(『浅野家文書』)で決まっていたようです。)

(参考エントリー↓) 

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 いずれにせよ、「七将襲撃事件」の原因は、「五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたのが原因」であり、この確執は、本来石田三成一人の責任とされるものではありませんでした。「襲撃」あるいは「訴訟」の対象は石田三成だけではなく、(浅野長政を除く)「奉行衆」全体であったといえるでしょう。

 しかし、両者(「徳川派」と「徳川警戒派」)が「交渉」した結果、石田三成のみに責を負わせ、他の大老・奉行衆の責任は問わないことで結着したということになります。三成はスケープゴートにされたということです。

 

 ところで、「五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたのが原因」という事で普通に考えられるのが、つい数か月前の慶長四年一月~二月に起きた「私婚違約事件」でしょう。

 このときは四大老五奉行がそろって家康を糾弾し、二月五日に家康が四大老五奉行に血判の起請文を提出するとともに、五大老五奉行で誓詞を交わし、互いに遺恨なきことを誓っています。(中村孝也、p383~386)

 二月五日付の四大老五奉行宛の家康起請文には、「今度縁辺之儀付、御理之通承届候、」(中村孝也、p383)と書いてあり、この書状では家康は、四大老五奉行の糾弾を承諾して受け入れたことになっています。これにより「縁辺の儀」は一旦白紙に戻ったと考えられ、このような血判状を書かせられたことに対し家康は非常に屈辱を感じ、四大老五大老への遺恨が深まったと考えられます。

 この後、前田利家の健康状態が悪化し死期が迫る中、両者(家康派vs家康牽制派)の形勢は逆転します。家康牽制派(四大老五奉行)の中核を占める前田利家が死去する時期を見計らって、家康派は家康牽制派に対して反撃をしようと考えたのだと思われます。

 ところが、誓詞で「遺恨をいだかない」ことも誓っていますので、「家康派」は反撃するにあたって、この「私婚違約事件」を蒸し返す訳にはいきません。「騒動」を起こすには別の理由が必要となる訳です。その「別の理由」として使われたのが「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰事件」であったと考えられます。

 

 この家康派より仕掛けられた「政争」により、家康派は以下の目的を達しようとしたのだと考えられます。

① 家康が伏見城に入城することによって、天下の実権を握る。

②「徳川家康牽制派」の「奉行衆」を中央政界から排除する。

③「縁辺の儀」をなし崩し的に承認させる。

④「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の撤回及び裁定に関わった者の処罰

 

①~④は以下のような結果になりました。

① 閏三月十三日に家康は伏見城二の丸に入城し、『多聞院日記』に「天下殿」になったと記されるほどの権勢を示すことになります。(ただし、『多聞院日記』では家康が「本丸」に入ったと誤認していますが。)

②については、敵対する「奉行衆」全員の排除はできませんでしたが、石田三成の排除はできました。

③「私婚違約事件」で糾弾された縁組は、その後、なんら咎められることなく成立していますので、「七将襲撃事件」以降、なし崩し的に承認されたとみてよいでしょう。

④の処罰の撤回は「家康派」の要求通り認められることになります。

裁定に関わった者の処罰」についてですが、秀吉の裁定には、前田玄以増田長盛長束正家浅野長政が関わり、石田三成はその場の裁定には不在でした。しかし、戦況を報告した軍目付の福原長堯が三成の縁戚であったため、石田三成が責を問われる形にの結着となったことになります。

 これは、慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の裁定の責任を、報告した軍目付及びそれを監督すべき縁戚の石田三成の責任とすることで、裁定を下した豊臣秀吉(もちろん、その責を問える者は誰もいない訳ですが)及び裁定に関与した四奉行(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政)の責任を回避したということになります。

(参考エントリー↓)

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 以上のように、完全に目的を達成したとまではいえませんが、この「政争」の勝利により、家康派は、①~④までの目的をほぼ達成したといえます。

 

 奉行衆の中で特に三成が「襲撃」の対象になったのは、三成が大坂にいたからであり、つまり大坂城外の石田三成屋敷では「七将」の「襲撃」または「屋敷閉じ込め」に対するには安全ではなかったからでしょう。前述したとおり毛利元康宛毛利輝元書状によれば、大坂城の門の守備を務めていた片桐且元・小出秀政は「内府方」)であり、内府方の息のかかった武将が門の守備を任されている以上、大坂城は安全ではありませんし、大坂城に入城することもできなかったことになります。

 他の奉行衆についてですが、「七将」の中に息子の浅野幸長が入っている、浅野長政は元々「襲撃」の対象外となります。三成以外の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)は伏見城にいたのだと考えられますので、実質的に「七将」が「襲撃」する機会がなかったのだと考えられます。(大身の「四大老」を「襲撃」するのは、さすがにはじめから計画に入っていなかったと思われます。)

 

(付論)白峰旬氏の論文(白峰旬②)では、複数の「毛利元康宛毛利輝元書状」について解釈を示されています。前回及び上記エントリーでもいくつかコメントしましたが、コメントしきれなかった部分について以下に記します。

 

「【43号文書】(『山口県史』史料編・中世3、光成本のB文書) (「一」脱ヵ)a面むきあつかい之事、いまた不澄候、b増右・治少より被申分ニハ、景勝・我 等覚悟次第、何に分ニも可相定との儀候条、c景勝申談候而異見申候、可有分別哉と存 候、趣可申候、

一 d夕部禅高被越候而かたり被申候、内府入魂ハ非大かた候、e於其上も神文等とりかハ し候様ニとの被申事候、弥無異儀候、可御心安候、

 一 f下やしきへ罷下候と聞え候て、尤可然と被申たる由候間、弥可相尋と申事候、一段可 然被申様と聞え申候、只今之あれまハり候物、気ニ少もあい不申、又そこ用心ニ聞え候、 御賢慮之前候〱、趣追々可申候、

一 g御気分可然之由肝心候、尚以不可有御緩候、時分からにて候、h夕部もそとハさわき たる由候、禅高とはるかまてかたり候て不存候つる〱、早々しつまり申候様ニと申事、かしく、

 ※下線a~cの文の箇所は、冒頭の「一」が脱落している可能性が高い。」(白峰旬②、p141)(光成準治、p40~41に同書の掲載があります)

 

上記の文書を白峰氏は、慶長五年六月上旬に比定しています。一方で光成氏は慶長四年閏三月に比定しています。どちらが正しいのでしょうか。

私見を申し上げますと、この書状は慶長四年閏三月に比定されるべきものと思われます。

① 冒頭に、「増右・治少より被申分ニハ、」とあり、増田長盛石田三成が同じところにいて発言しているかのような記述ですが、この時点では石田三成佐和山城で隠居、増田長盛は現役で大坂(または伏見)にいますので、同じところにいるかのような記述は不自然といえます。

② 慶長五年六月では、既に会津征伐が具体化している段階であり(六月十六日に家康が総大将となり遠征軍を率いて大坂を出発します。(笠谷、p29)。そして、景勝は会津にいます。

 輝元は景勝と相談(景勝申談候而異見申候)して異見を述べたといっていますが、遠く離れた伏見(輝元)と会津(景勝)とで連絡をとって(書状の往復で約一ヵ月以上かかるのではないでしょうか)相談しているような書状には到底見えません。

 ①~②より、この書状は慶長五年六月上旬の書状とはいえず、慶長四年閏三月の書状だと考えられます。

 

「【44号文書】(『山口県史』史料編・中世3、光成本のD文書)

g昨日彼方と間如此相調候、

一 a治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、b治少

一人さほ山へいんきよ候て天下事無存知候様との儀候、是ニ可相澄候、c増右をもミな

〱種々申候へとも、治少一人にて可澄と内意候、dさ候とも増右者其まゝにてハ被居

候ましく候条、可為同前候、是ほとニ澄候へ者可然候、e治少ことのほかおれたる被申

事候、長老へふしを(か脱ヵ)ミなミたなかし候、f此一通事、家康よりも一段ミつ

〱候へとの事候、一人ニも御さた候ましく候、よく〱その御心へ候へく候、梅りん・

渡飛・児若其元へ被召寄候而、ミつ〱にて被仰聞可給候、召上せ申候へ者、こと〱しく候、少も口外候ましく候由、かたく可被仰候〱、かしく、」(白峰論文、p142)(光成準治、p43~43に同書の掲載があります。)

 

→白峰氏にはgの「彼方」への言及がありませんが、「彼方」とは、光成氏によると上杉景勝の可能性があるとしています。(光成準治、p44)

「内意」を白峰氏は、輝元自身の内意としていますが、「此一通事、家康よりも一段ミつ〱候へとの事候、」と指示した家康の「内意」とみた方がよいでしょう。

といいますか、この書状の内容は「七将襲撃事件」の「扱い」を誰かと「協議」した結果を、輝元が元康に知らせている書状ですので、「内意」を輝元自身の内意としてしまうと、輝元が一人問答で脳内協議をしていることになってしまい、おかしな書状になってしまいます。

 ちなみに、「長老へふし(筆者注(*):み?)を(か脱ヵ)ミなミたなかし候」を、光成氏は、「(三成から)安国寺恵瓊(筆者注:原文の「長老」)への書状を見て、(輝元も)涙を流しました。」光成準治、p43)と輝元が涙を流したことになっていますが、白峰氏は安国寺恵瓊(「長老」)に対して、三成は伏して拝み涙を流した」(白峰旬、p143)としています。

((*)光成氏(光成準治、p43)は「し」を「み」と呼んで「ふみ=文」としています。)

 どちらの訳が正しいかはよく分かりませんが、白峰氏の訳は「か」を補って訳していますので、この訳もちょっと強引かなと思われます。

 

 この事件の調停にあたったのは輝元だけではなく、上述のように上杉景勝も入っていますし、『言経卿記』によると、北政所も仲裁しています。ただし、彼らの調停の相手方は、「七将=内府方」の背後にいる徳川家康だったといえるでしょう。

 

次回に続きます。

※ 次回のエントリーです。↓

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 参考文献

白峰旬①『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

白峰旬②「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利 輝元書状(「厚狭毛利家文書」)の解釈について」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk02109

白峰旬③「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である : フィクションとしての豊臣七将襲撃事件」http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04810

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』、吉川弘文館、2017年

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』角川ソフィア文庫、2018年