古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

書評③ 高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』~第二部 慶長三年三月~八月②

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 前回のエントリーの続きです。

(※前回のエントリーは、以下参照↓)

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19.「慶長三年七月一五日、毛利輝元と島津龍伯は徳川家康前田利家ら二人の年寄に起請文を提出した。」(高橋陽介、p81)

→(上記の起請文については、下記のエントリーに記載しています。↓1.慶長三(1598)年七月十五日の徳川家康前田利家毛利輝元起請文前書案がその内容です。 

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五奉行が自らを「年寄」と「公称(公式文書で自らを年寄と呼んでいる)」した当時の文書は複数ありますが、五大老を自称・他称を含め「年寄」とした当時の文書はなかったかと思われます。(私が知らないだけで、「こんな文書があるよ」という方がいましたらお知らせ願います。)

 

20.「これら二通はまったく同じ内容であり、毛利輝元と島津龍伯は奉行衆の起草した起請文に署名し、徳川家康前田利家ら二人の年寄にたいして豊臣政権への忠節を誓ったものであることがわかる。」(高橋陽介、p83)

→「奉行衆の起草した起請文」という根拠が不明です。

 

21.フランシスコ・パシオの報告書によると、輝元・龍伯らに起請文を差し出すように命じたのは豊臣秀吉である。」(高橋陽介、p83)

 

(→『イエズス会年報』にある、フランシスコ・パシオの報告書の記載については、以下のエントリーを参照願います。↓)

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 高橋氏は19.七月十五日に徳川家康前田利家宛に毛利輝元が提出した起請文は、パシオの報告書に書かれている「秀吉の眼前で家康宛てに出された起請文(というか、後述するようにパシオの報告書に書かれている起請文は秀吉宛に出されたもので、家康宛てに出されたものなどパシオの報告書上も存在しません)」と勘違いしているようですが、明らかな誤りです。パシオの報告書にはそんな事は書かれていません。

① まず日にちが違います。パシオの報告書によりますと、秀吉が起請文を出させたのは、西暦1598年8月5日(邦暦慶長三年七月四日)になります。一方、毛利輝元と島津龍伯が徳川家康前田利家に起請文を提出した日付は慶長三年七月十五日になります。

② パシオの報告書は「それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、」とありこれは家康と他の諸侯も同様に秀吉に誓詞を差し出すことを要求されたと考えるのが自然でしょう。家康・利家に誓詞を出せとは書いていません。

③ パシオの報告書には、もう一人の起請文の宛先にあるはずの前田利家について一切記述がありません。だから、少なくとも七月十五日の家康・利家宛輝元起請文と『年報』に書かれている起請文は、全く無関係といえます。

④ 元々イエズス会年報は外国人の書いた『伝聞史料』であり、この記載をそのまま鵜呑みにするのは危険です。これについては、後述します。

 

2.「慶長三年七月一四日(ユリウス暦一五九八年八月五日)、自らの死期を悟った秀吉は、最大の実力者である徳川家康に後事を託し、政権をゆだねた。また、秀頼が成人したあかつきには政権を返還するよう、家康に依頼した。」(高橋陽介、p83)

→(ユリウス暦一五九八年八月五日は、慶長三年七月四日です。)

(※『フランシスコ・パシオの報告書(イエズス会年報)』の内容については、以下のエントリー参照。↓)

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 高橋氏の著作のタイトル『秀吉は「家康政権」を遺言していた』のとおり、上記の論点が本著作の最大の論点でしょう。

 上記の「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説の根拠として、『フランシスコ・パシオの報告書(イエズス会年報)』と姜沆の『看羊録』があげられています。

(令和4年2月20日追記)

 姜沆の『看羊録』(朴鐘鳴訳、平凡社、2008年)には、「家康には、秀頼の母〔淀殿〕を室として政事を後見し、〔秀頼の〕成人を待ってのち、政権を返すようにさせた。」(p164)という記述があります。姜沆は朝鮮の虜囚であり、日本では親家康派の藤堂高虎の屋敷に捕らえられており、その記述は全て伝聞情報で、ここに書かれた家康が淀殿を室にしたというのも誤情報であるため、信用できる情報ではないことになります。

 

 これは、いずれも同時代史料とはいえ、外国人の伝聞史料であることに注意が必要です。

 仮に「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説が真とするならば、同時代の日本側の一次史料にもそのような記載があって当然かと思われますが、こうした史料はありません。 後世の勝者である徳川家・親徳川方の大名がこのような史料をすべて亡失したとも考えられず、このような史料が一切残されていないというのは、そもそもこのような史実はなかったのだと考えた方が自然です。

 

 イエズス会年報は、日本に在住するイエズス会修道士がローマに報告している年報です。当時イエズス会伴天連追放令によって豊臣公儀から弾圧される立場にあったことを考慮する必要があります。このため、彼らが直接見た事物についてはある程度信頼できるものの、伝聞史料については信頼できるか注意すべきです。そして、この秀吉の遺言の部分はあくまで「伝聞史料」です。

 姜沆は、朝鮮の役で日本軍に捕まった虜囚の儒者の記録であり、姜沆は伏見の藤堂高虎屋敷に抑留され続けていますので、彼の書いた記録は全て伝聞記録ということになります。

 一方、「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説によって、否定されることになる「秀吉は「五大老五奉行体制」を遺言していた」説は、秀吉の遺言や起請文などの日本側の一次史料によって裏付けられているものです。

(※当時の起請文の内容については、以下を参照願います。↓)

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(※秀吉の遺言の内容については、以下を参照願います。↓)

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 当事者である日本の一次史料には「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説は一切なく、外国人の伝聞史料にのみ「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説があるとは、なんとも奇怪な話で、この「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説というのが疑わしい、怪しげなうさんくさい話であることをむしろ証明しています。

 これが関ヶ原の戦いで負けて滅亡したのが徳川家であれば、つじつまが合うのですね。IF世界の勝者、西軍諸将にとっては「「秀吉は「家康政権」を遺言していた」なんてものが事実だったら、自らの正当性がゆらぎますので、必死になってそうした文書は破棄・消去する。結果、日本側の一次史料は残らない。しかし、日本側(勝者西軍側の)都合のなど考慮しない外国人の史料には残ってしまった、ということであれば話は分かる。

 しかし、現実の勝者は徳川方な訳で、徳川が自らの正当性を証明する文書を破棄する必要性がないので、実際にそうした文書があるならば、大手を振ってその文書を持って証明すればいいだけの話です。

 

 つまり、当事者である日本の一次史料には「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説を証明するものは一切なく、外国人の「伝聞史料」にのみ「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説があるというのは極めておかしな話であり、当時誰かが家康にとって都合のよい「怪情報」を流したのではないかと疑われる、という新たな「疑惑」が浮かんでくる訳です。

 パシオの報告書における「秀吉の遺言」シーンは、パシオ本人が見ている訳ではありません。しかし、妙に詳しく書かれていますので、情報提供者(伏見城内に入れる立場にある大名家の家臣(おそらくキリシタン))がいたのだと考えられます。パシオは、その情報提供者の提供する情報を頼りに報告をまとめていますが、情報提供者の名は明らかにされていません。情報提供者の名も明らかにされていない以上、この情報がどこまで信頼できる情報か分からない訳です。特に上記で書いた、「当時誰かが家康にとって都合のよい「怪情報」を意図的に流したのではないか」という疑惑がある以上はなおさらです。この上記の情報提供者そのものが「怪情報」の発信源である可能性が高い訳です。

 また、この「パシオの報告書」における「秀吉の遺言」が極めて怪しいのは、前田利家への言及が一切ないことです。

 高橋氏は、慶長三年七月一五日付徳川家康前田利家毛利輝元起請文、徳川家康前田利家宛島津龍伯起請文と「パシオの報告書」を紐づけて考えていますし、時期的に近いことを考えればその発想は自然なものですが、関連があるとするとかえっておかしな話になります。起請文の宛所として徳川家康前田利家の二名が並び立つ存在であるはずなのに、「パシオの報告書」には、その並び立つ存在であるはずの前田利家に対する遺言が一切ありません。

 ということで、「パシオの報告書」における「秀吉の遺言」には、仮にすべてが嘘ではなかったとしても、「重大で意図的な欠落」があるのだと考えられます。少なくとも前田利家に対する遺言は完全に消されている。すなわち、「徳川家康に後事を託し、秀頼が成人するまで政権をゆだねる」ようなことを秀吉は言ったかもしれないが、「『家康一人だけに』後事を託し、政権をゆだね」たわけではないし、そんなことは言っていない。だから、そのような印象操作をしている「パシオの報告書」が伝える「秀吉の遺言」は意図的に誤った情報を流しているものになる訳です。

 少なくとも、七月十五日の起請文を見る限り、七月の時点でも前田利家は、「後事を託し、政権をゆだね」られたメンバーの中に入っているし、遺言は未だ確定しておらず、その「後事を託される」メンバーはこれから増える可能性もあった。そして、実際他のメンバーが入り、八月五日の秀吉の自筆遺言をもって「五大老五奉行制」が「秀吉の遺言体制」として確定したということでしょう。

 それにしても秀吉の生前から、こうした「怪情報」を意図的に徳川方が流していたというのであれば、秀吉の死去の直前から他の四大老五奉行が家康を警戒し、秀吉の死去とともに何か行動を起こすのではないかと、敵視したのもある意味当然のことでしょう。絶対的権力者が死去するその時こそが、一番クーデターを警戒しなければならない時な訳です。

 

 参考文献

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年