古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

『徳川実紀』にみる、「『秀吉は家康に政権を禅譲した』説の否定」

 ☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

徳川実紀』という歴史書があります。徳川実紀は、19世紀前半に編纂された江戸幕府公式史書で、編集の中心人物は林述斎成島司直であり、起稿から35年近い事業の末、天保14年12月(1844年1月から2月)に完成したとされます。

ただ、これは史料というより徳川政権を正当化するための歴史を編纂した政治文書の類とみるべきであり、特に、関ヶ原近辺のことについては、関ヶ原の戦いから200年以上たった後の史書ですので、史料的価値は低いといえるでしょう。)

 その『徳川実紀』の「東照宮実紀」に、「秀吉は家康に政権を禅譲した」説が触れられています。以下に引用します。

 

「初秋のころは其病いささかひまありとて君を病の牀にまねかれ。秀吉が命も今は旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に亂れぬべ し。是を押しづめ給はむ人は。內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事ことごとく內府にゆづり進すべし。我子秀賴成長の後天下兵馬の 權をも執るべくは。いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに。

 君も御落淚ましまして。我淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲 の後も秀賴君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の爲に遺教をほどこさるべし。我に於ては决して此重任にあたりがたしと。再三辭退ましまし退き給へば。太閤ハいよいよ心を安ぜず。石田。增田。長束などいへる腹心の近臣 に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に讓られしは。堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣 子劉禪を諸葛亮に託して。輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ。天下の兵權をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田增田が詞にまどひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりと さる人の申置しが。今案ずるに此說是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はことごとく詐謀詭計ならざるはな し。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說にまよひ前心をひるがへしたるにはあらず。

 烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が沒期の詐謀に陷り給ハざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且 元に密諭せしは。我家亡びざらん樣にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたゝかひ。我かの兩國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十万の軍勢。一人も生て歸らん事思ひもよらず。もし希有にして歸る事を得たり共。彼國より此年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後誰有てか本朝の動きなからん樣にはかる 者のあるべき。此事をよくはからんは。江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人彌本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ聖主も其 勳を賞し給ひ。萬民も其德になづき其威におそれ。天下はをのづからかの家に歸しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀賴を輔佐して天下をと らんとはかり。此人と合戰を結ばゞ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絕ざらん事を思はば。相かまへて此人によくしたがひつか へて。秀賴が事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我家の絕ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふに これも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し所にて。その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などには此沙汰なく。小臣の兩人に申置れたると見ゆるなり。)太閤兵馬の權をゆづり進らせむとありしをかたく辭し給ふにより。しからば秀賴幼稚のほどは。天下大小の政務 は君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀賴保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主 はたゞ此君なりと四民なびきしたがふ。石田三成始大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず。いかにもしてかたぶけ奉ん事を。內々をのがじゝはからひける。」

 

 色々書いていますが、つまりは、はじめ秀吉は、蜀の皇帝劉備重臣諸葛亮に政権を委ねたのにならって、家康に政権を委ねようとしたのだが、奸臣である石田・長束・増田に惑わされたのかどうか知らないが、その前言を撤回したという話です。(補足で、それは秀吉自身の本性は「其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし」なので、別に石田等に惑わされたわけではなく、それが秀吉の本心だとしています。また、なんか小出・片桐に密かに別の遺言したような話が伝わっているが、これも秀吉が本気ならこんな小臣(片桐・小出のことです。さりげなく、『徳川実紀』片桐・小出をディスっています)にだけ(他の家臣に伝えず)密かに遺言するなんてありえないだろ、というある意味当然のツッコミをいれています。結局、家康は兵馬の権を譲られるのは固辞したので、政務は伏見の家康・秀頼の保傅は利家という体制となったという話になっています。)

 

 元々、関ヶ原から200年以上たった、徳川家の政治文書である『徳川実紀』の話については、なんの信用性もない訳ですが、当時の徳川幕府の「公式見解」は知ることができる訳です。

 つまりは、徳川政権の公式史書である『徳川実紀』においても、「秀吉は家康に政権を禅譲した」説というのは、秀吉による(「其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし」)虚言としており、最終的にこれが秀吉の公式な遺言になったことなどない、と徳川サイドも認めている話な訳です。(当時の徳川方の一次史料にもありません。)

 

 まあ、結局徳川家康は、豊臣政権を簒奪し、秀吉の子秀頼を死に追い込み、豊臣家を滅ぼした訳ですから、秀吉が家康に政権を委ねるようなことが、秀吉遺言の最終決定としたら、それはとてつもない愚行であると、未来の人間には分かり切った話です。晩年耄碌したとされる秀吉も、そこまでは愚かではなかったということでしょう。