古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原への百日②~慶長五年七月

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 (このページは、関ヶ原への百日①~慶長五年七月 です。)

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

慶長5(1600)年7月

 

7月1日 細川忠興、水路琵琶湖を経て朝妻に上陸し美濃国に入る。(中野等、p413)

7月2日 徳川家康、江戸着(『当代』)。(『居所集成』、p118)

7月12日 北政所、煩う(在京都新城)(『時慶』)。(『居所集成』、p430)

7月12日 政宗、北目城到着(『治家記録』)。(6月16日に伏見発)(『居所集成』p285)

 

7月12日 七月十二日付永井右近大夫(徳川家臣)宛増田長盛書状(「一筆申入候、今度於樽井大刑少両日相煩、石治少出陣之申分、爰許雑説申候、猶追々可申入候、恐々謹言、(慶長五年)七月十二日 増田右衛門尉長盛 永井右近大夫殿

◇一筆申し入れます。美濃の垂井(樽井)において大谷吉継(大刑少)が罹病、石田三成(石治少)の出陣に対し、こちらでいろいろ取沙汰されています。今後のことについてはまた連絡します。」(中野等、p414)

→この書状は、家康の侍医として仕えていた板坂卜斎の記録(『慶長年中卜斎記』)に残されたもので、原本はありません。(このため、この書状を偽文書とみる研究者もいますが、ここでは真書であることを前提として考えてみます。) 

 

7月12日 七月十二日付毛利輝元宛三奉行書状

「大坂仕置儀付而、可得御意候間、早々可被成御上候、於様子者、自安国寺可被申入候、長老為御迎可被罷下之由候得共、其間も此地之儀申談候付而、無其儀御座候、猶早々奉待存候、恐煌謹言、 (慶長五年)七月十二日  長大 増右 徳善  輝元様 人々御中」

(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』二)

◇大阪の御仕置について、ご相談がありますので、早々に御上がりください。詳細は、安国寺恵瓊から申し入れます。(本来なら)安国寺恵瓊長老を御迎として指し下すべきですが、現在恵瓊も多忙でそれも叶いません。早々の(御上坂)をお待ちしています。)(中野等、p415)

 

上記の、これらの書状が書かれた意図については、以下のエントリーで考察しました。 ↓ 

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7月12日 石田正澄(三成の兄)、近江愛知川に関を設けて、(会津征伐のために)東下する大名を阻止する。(『勝茂公譜孝補』)(水野伍貴、p111)

(下記の7月13日付『時慶記』の記述も参照のこと。『勝茂公譜孝補』には「七月初旬」としか書いていませんが、『時慶記』の記述から7月12日としました。)

 

7月13日 「大坂に雑説がある、とのことを申し来る。」(北野社(『北野社家日記』)5−275頁)(白峰旬、p79)

7月13日 「大坂に雑説がある、ということである。よって、伏見より荷物を京 へ運ぶ(者がいる)、ということである。(これは)家康が(上杉討 伐のために下国して伏見城が)留守になっているからである。何事 があるのか。(その)子細は(義演は)知らない。

 ※別々の2つの史料が同じ日(7月13日)に大坂での雑説を報じている、というのは、具体的に大坂で何かおこったのかも知れない。」(義演准(『義演准后記』)2−200頁)(白峰旬、p79)

7月13日 「昨夜(筆者注:7月12日)より伏見・大坂において風評・騒動(がある)と(いうので) これを尋ねるつもりである。(上杉討伐のために出陣した)陣立の 衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのことであり、(このことは) 不審である。このあたりの惣門3ケ所を2、3日以前より閉めている。(そして)潜り戸だけ(開けている)。

 ※7月13日の時点で、上杉討伐に向った(つまり東下した)諸将の中で、少数の部将は帰ってきていた、としている点は注目される。 このことについて西洞院時慶が不審である、と率直に感想を書いているのは興味深い。西洞院時慶は戦争の予感というかきな臭い雰囲 気を感じ取っていたのかも知れない。」(時慶記(『時慶記』)2−83頁)(白峰旬、p78)

 

7月14日 安国寺恵瓊の使者が、毛利輝元のいる広島城に到着。急遽輝元の上坂を乞うた。(『居所集成』p233)

7月14日 「大坂において「乱劇」が勃発する。大坂にあった諸大名の屋敷が、軍事的に制圧されることとなったのである。これは、在坂「三奉行」によるある種の「クーデター」と言えよう。一定規模の軍事力が裏づけとして必要となることから、毛利家につながる安国寺恵瓊の事前了承が前提となる。」(中野等、p416)

→ここから、「三奉行」は、事前より「西軍決起」の首謀者の中核であり、「毛利輝元の上坂によって「巻き込まれた同調者」ではないということが分かります。この時期の石田三成大谷吉継は上坂しておらず、三奉行の独自の判断でこのような「クーデター」を実施している訳です。

7月15日 輝元はこれに応じて、「俄に大坂上国」(『広島古代中世Ⅱ』「厳島野坂文書」)。

→あらかじめ計画的に準備されていなければ、大軍を率いて上坂するために準備がこれほど早くできるとは考えられず、この時点での輝元が相当前から他の西軍首謀者と謀ってこの上坂計画を周到に準備していたことは、ほぼ間違いないと考えられます。

7月15日 七月十五日付加藤清正毛利輝元書状。

「急度申候、従、両三人、如此之書状到来候条、不及是非、今日十五日出舟候、兎角秀頼様へ可遂忠節之由言上候、各御指図次第候、早々御上洛待存候、恐々謹言、  (慶長五年)七月十五日 芸中  加主  御宿所

◇確実を期して申し入れます。(大坂の)両三人から、このような書状が到来しました。やむを得ないので、今日十五日出舟します。とにかく秀頼様へ忠節をとげるべく言上します。各対応は(秀頼の)御指図次第となりますが、すみやかな御上洛をお待ちします。」(中野等、p416)

→この時点では、輝元らは加藤清正が西軍決起に参加する可能性が高いと見込んでいたのだと考えられます。

7月15日 上杉景勝島津義弘書状。

「雖未申通候、令啓候、今度内府貴国ヘ出張二付、輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談、秀頼様御為二候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治 ゟ 可被申候、以上、

 

               羽兵入

(慶長五年)七月十五日     惟新

         景勝 人々御中 (『薩摩旧記雑記後編』三-一一二六号)

 

◇いまだ書信のやりとりはございませんが、ご連絡いたします。このたび内府(徳川家康)が会津へ出陣された件で、毛利輝元宇喜多秀家を筆頭に大坂の御年寄衆小西行長大谷吉継石田三成らで御談合なされ、秀頼様の御為には(家康ではなく)あなた様との連携こそがとるべき途との結果に至りました。拙者もその通りと考えます。委しいことは、石田三成から連絡があると存します。」(中野 等 2017年、p416~417)

詳細は、下記のエントリー参照。↓

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 中野等氏は、「ここにみえる「大坂御老衆」(筆者注:現代語訳の「大坂の御年寄衆」のこと)とは、長束正家増田長盛・徳善院前田玄以らを指す。この書状から、彼ら「三奉行」による家康排斥は、毛利輝元宇喜多秀家という二人の「大老」、および小西行長大谷吉継(刑部少輔)・石田三成(治部少補)らとの与同によるものであったことがわかる。引退し、奉行職も退いた三成に、表立った活動があるわけではない。しかし彼らには、このまま政局が推移すれば、徳川家康による「天下」簒奪が不可避である、との危機感が共通してあったのであろう。この政変は、実質的に「公儀」権力を掌握しようとする家康を廃することを企図したものであった。」(中野等、p417)としています。

7月17日 輝元、恵瓊・増田長盛らの要請をいれて家康討伐軍の盟主となることを承諾、大坂城西の丸に入った。『北野社家』17日条には「大坂御城へ御奉行衆悉被籠由申来、輝元も上洛在之由、申来」とある。(『居所集成』、p233)ただし、7月19日の輝元大坂入城説もある。(中野等、p417)いずれにしても、「輝元上坂の確報は、それに先立つ十七日には「三奉行」のもとにもたらされた。」(中野等、p417~418)

7月17日 毛利秀元、家康の留守居を排除し、大坂城西の丸占拠。(中野等、p418)

7月17日 三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)、「内府ちがひの条々」をまとめ、全国の諸大名充てに発する。(中野等、p418)

※ 内府ちがひの条々の内容については、以下参照↓

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7月17日 別所吉治宛三奉行(前田玄以増田長盛長束正家連署状。

「◇細川忠興(羽柴越中守)は、何の忠節もないのに、太閤様御取立の福原長堯(右馬助)の旧領(豊後国速見郡)を家康(内府)から扶助され、さらには今度は何の咎もない上杉景勝を追討するため、内家康に助勢して、細川一門は残らず会津征伐に赴いています。仕方のないことです。秀頼公より御成敗のため(丹後に)軍勢を差し向けることとなりましたので、軍忠を尽くすよう、下々に至るまで、その軍功によって、御褒美を与えられるでしょう。」(中野等、p421~422)

「三奉行は、秀頼の名で忠興の罪を責め、近隣の諸大名に丹後の諸城請け取りを命じることとなる。」(中野等、p422)

7月18日 「石田三成が、「内々に」豊国社へ参詣している。(『時慶記』)。いろいろ取沙汰もされているが、この前後に三成は京坂の間にいたことがわかる。すでに隠居していた三成は表立って活動することはなく、奉行衆連署状の発給者に名を連ねることもしない。」(中野等、p424)

※ 豊国社は京都にありますので、7月18日には三成は京都にいたことが分かります。三成が大坂に赴いたとする当時の記録は一切ありませんので、この前後に三成が大坂にいたことはなく、「内府ちがひの条々」に三成の名が入っていない事も当然のこととなります。

 

7月19日 毛利輝元大坂城入城(中野等、p424)

     (7月17日説もあり。(上記参照)) 

7月20日 松井康之(杵築城に拠って細川豊後領を預かる細川家臣)宛大谷吉継書状

「◇態々申し入れます。上方の御仕置が急変したことで、御肝を潰されたことと推察します。ついては御身上のことについて、大坂御奉行衆に相談したところ、奉行衆の連署状と「内府ちかいの条々」を送り下すので、よくよく御覧いただいて、太閤の連々の御恩賞の段忝じけなく思い、御忘却なくば、早々に上方へ御上りになって、盛法印(筆者注:京都の医者・吉田盛法印のこと。松井康之の妹が盛法印に嫁していた)のところに身を寄せられることが尤もでしょう。(私としても)しっかり尽力するつもりです。なお、追って申しれます。」(中野等、p422~423)

7月21日「家康に従って「会津征伐」の途次にあった真田昌幸安房守)に宛てた三成の文書が、七月二十一日までには届いている。」(中野等、p424)

※ いつ三成がこの書状を出したのかは不明ですが、中野等氏は「三成は、「三奉行」による輝元への上坂要請(筆者注:この「三奉行」による輝元への上坂要請は当然、三奉行が輝元に西軍への決起への参加を促すための上坂要請ということになります。)あるいはそれに対する輝元の対応が明らかになった段階、すなわち換言すれば、家康排除を実行にうつす環境が整った時点で、与党と頼む諸大名に対して、私的な通信を開始したのである。」(中野等、p424)としています。

 真田家は石田三成の取次先であり親密な関係にあり、また石田三成大谷吉継と真田家は縁戚関係にあったため、このような書状が送られたのだと考えられます。

(参考)↓

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7月21日「大坂奉行衆は伏見城の奪還を指示し、七月二十一日から宇喜多・島津・小早川らの軍勢が攻撃を開始する。」(中野等、p423)

7月21日 家康、江戸→(会津)(同日付松井康之等宛細川忠興書状写『家康』)。(『居所集成』、p118)

7月21日 政宗白石城攻略のため北目城発、名取郡岩沼宿陣(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月22日 政宗、在岩沼城(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月23日 伏見城攻撃に毛利勢も加わる。(中野等、p424~425)

7月23日 最上義光徳川家康書状。

「◇確実を期して申し入れます。石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部少輔)の才知によって、方々へ触状が廻り、いろいろな風聞が拡がっています。(そこで)御働(会津征伐)については、これ以降御無用とします。状況については、こちらから重ねて申し入れますが、大坂の儀は政務以下、手堅く進めており、家康(此方)と大坂奉行衆とは一体です。三奉行からの書状を進覧します。」(中野等、p420)

※ この頃、家康は7月17日の三奉行による「内府ちがひの条々」を知らなかったのか、知っていても知らないふりをしていたのか不明です。石田・大谷が方々へ出した触状の内容も、義光に家康が進覧した「三奉行からの書状」の内容も不明です。

 中野等氏は「家康自身も、秀頼を擁する大坂「三奉行」の存在が、政務・軍務の正統性を保証する前提と、意識していたことがわかる。」(中野等、p420)としています。

 

7月23日 政宗、岩沼城宿陣(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月23日 北政所筑前中納言小早川秀秋)様御祈念のため7人して7日参仕す。北政所より銀子1枚拝領す(以上『北野社家』)。(『居所集成』、p430)

7月24日 政宗白石城攻略(「昨日廿四日白石表相動候」『「政宗2」)。8月14日まで在白石城。(『居所集成』、p285)

7月24日、家康、小山に至る。(『居所集成』、p117)

7月25日 家康、小山で諸将を集めて以後の方針につき協議したとされる(『家康』)(『居所集成』、p117~118)

7月26日 東軍の上方衆が小山を発って西上した(同日付堀秀治宛家康書状写『家康』)(『居所集成』、p118)

7月27日 7月27日までに石田三成、居城佐和山に戻る。「挙兵が現実のものとなったことをうけ、軍勢を整えるためであろう。」(中野等、p425)

7月27日 細川藤孝、家康方として居城の田辺城を西軍から攻められる(『義演』)。(9月2日まで籠城)(『居所集成』、p198)

7月28日 家康、小山在。(同日付芦名盛重宛家康書状「此方も小山令在陣」『家康』)。(『居所集成』、p118)

7月29日 「七月二十九日付で三成は、近江国友村に対して、鉄砲の真儀吹き替えを禁じる判物を発している」(中野等、p425)「おそらく国友の鉄砲は、「公儀」に用所のみ応じることを要求したものであろう。」(中野等、p426)

7月29日 石田三成佐和山を出て、伏見城攻撃に参加。(『居所集成』、p306)

7月29日 「家康が大坂の「三奉行」の「逆心」を知るところとなり、「会津征伐」軍の陣中に大きな衝撃が走る。家康の行軍は「公儀」権力の発動であり、豊臣秀頼に近侍して政権中枢に位置する「三奉行」の支持は、その大きな前提であった。「三奉行」が輝元や三成らに与するということは、とりもなおさず、家康の行動が正統性を失うことを意味する。正統性を喪失した家康の軍勢は「賊軍」に転落し、史料上にも「徒党」と評されることとなる。」(中野等、p425)

※それより以前の、家康に従軍する「会津征伐」軍の認識は、細川忠興が家臣の松井康之・有吉立行に充てた書状によると「「会津征伐」軍の陣内では、毛利輝元石田三成が語らって騒擾を起こしているとの理解が拡がっていたことがわかる」(中野等、p425)とのことです。

7月29日 「二大老毛利輝元宇喜多秀家徳川家康を糾弾する書状を真田昌幸宛に送付する。この日、宇喜多秀家伏見城を攻撃中であり、毛利輝元大坂城にいた。

 宇喜多秀家の副状は(同じく伏見城攻め陣中にあった)石田三成が発しており、毛利輝元の副状は三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)が発している。

 大老宇喜多秀家の副状を石田三成が発行しているところから、この日までに石田三成が「奉行(年寄)」に復帰したことが考えられる。(中野等、p426~427)

(中野等氏は「これに先立って石田三成大坂城で秀頼に拝謁し、親しく豊臣家奉行職への復帰が認められたのであろう。」(中野等、p427~428)としています。

(下記は宇喜多秀家真田昌幸に送った書状の現代語訳。)

「◇態々書状を敬達します。去年以来、家康(内府)は秀吉の御置目に背き、誓紙を反故にしています。恣(ほしいまま)の所業は是非もないことです。今度おのおの相談して戦端を開くこととなりました。上方のことは一円に制圧し、妻子は悉く人質と定めました。(こののち)上杉景勝と連携して、関東を平定させることを想定しています。あなたも引き続き太閤様の御懇意をお忘れなくば、このときこそ秀頼様への御忠節が肝要に存じます。なお、委細については、石田三成(石治少)から申しれます。」(中野等、p427)

 

7月30日 三成、大坂城入城。(『居所集成』、p306)

 

 参考文献

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会、2016年