古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原の戦いにおける西軍決起計画の『主導者』は誰か?

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関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?」という問いについて、下記のエントリーをブログに以前書きました。(下記参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com 

(このエントリーの考察は、上記のエントリーを前提とするものですので、必ず上記エントリーをご覧ください。)

 

 以前のエントリーで、七月十五日付上杉景勝島津義弘書状により、西軍決起の首謀者は毛利輝元宇喜多秀家御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)・小西行長大谷吉継石田三成島津義弘であることを指摘しました。

 

 次の論点として、この首謀者達のうち、「西軍決起計画の『主導者』は誰か?」について検討します。

 七月十五日付上杉景勝島津義弘書状にある、西軍決起の首謀者は毛利輝元宇喜多秀家御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)・小西行長大谷吉継石田三成島津義弘ですが、島津義弘は巻き込まれ感が強く、主導者から外れるでしょう。決起後主導的な行動はしておらず影の薄い小西行長も外れます。。

残るのは、

A 毛利輝元 主導説

B 宇喜多秀家 主導説

C 御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行 主導説

D 石田三成大谷吉継 主導説、となるでしょうか。

私見では、C御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行 主導説が妥当と考えます。理由を以下に述べます。

 

 慶長五年七月十一日以降に西軍決起の首謀者達が行った重要な動きをみていきます。

 

1 石田三成大谷吉継佐和山・樽井で決起する。(七月十一日)

2 大坂方(=三奉行)が、大坂にいる大名の子女を大坂城に登城させるなど、人質にとろうとする。(七月十二日)

3 増田長盛らが徳川家康家臣に、石田三成大谷吉継の不穏な動きを報告する。(七月十二日)

4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)

5 石田正澄(三成の兄)、近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止して追い返す。(七月十二日)

6 毛利輝元、上坂要請を受け広島より上坂する。(七月十五日。七月十九日に上坂)

7 島津義弘上杉景勝宛書状を発出。(七月十五日)

8 毛利秀元大坂城の徳川留守居を追い出す。(七月十七日)

9 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(七月十七日)

 

 これらの一連の動きは連携・連動しているものであり、この動きにくるいがあれば、西軍決起の陰謀は成り立ちません。

以下、「1 石田三成大谷吉継佐和山・樽井で決起する。(七月十一日)」以降の動きをみていきます。

「2 大坂方(=三奉行)が、大坂にいる大名の子女を大坂城に登城させるなど、人質にとろうとする。」と、石田・大谷の佐和山・樽井決起の翌日の七月十二日には三奉行は西軍決起に向けて主体的行動をとっており、三奉行にとって西軍決起は「巻き込まれた」ものではないことが分かります。

 上記の詳細については、以下のエントリーで記述しました。↓

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」①

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」② 

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」③ 

 

「3 増田長盛らが徳川家康家臣に、石田三成大谷吉継の不穏な動きを報告する。(七月十二日)」については、以前のエントリーで谷徹也氏の見解を紹介したように、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもの」のいずれかと言えます。

 

 筆者の私見としては、

a.増田長盛以外の大坂にいる親徳川方大名より家康家臣へ、長盛と同様の注進が行っており、増田が石田・大谷の動向を隠したところで全く意味はなく、かえって増田の石田・大谷への与同が疑われるだけであること、

b.この書状は、上方付近で騒動が起こったことを報告することにより、(三奉行が望んでいる)家康の上杉征伐中止を狙ったものであり、結果としてまさに三奉行の望み通りの効果(家康の上杉征伐中止)を発揮していることから、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの」と考えるのが妥当と考えます。

 

「4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)」

 この三奉行の上坂要請については、前のエントリーでの谷徹也氏の見解のとおり、「④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したもの」が妥当と考えられます。

 

「5 石田正澄、近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止して追い返す。(七月十二日)」

 この石田正澄の行動は、『勝茂公譜孝補』に記載されています。『勝茂公譜孝補』とは、初代鍋島藩鍋島勝茂の事績についてまとめたものであり、江戸時代の二次史料となります。

 該当する記述は、なぜ、鍋島勝茂が西軍についたかを弁明する記述であり、「石田正澄が近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止したため、家康軍に合流できず、やむを得ず西軍についた」という内容です。

 『勝茂公譜孝補』には七月初旬としか書かれていませんが、『時慶記』慶長五年七月十三日に「昨夜、(上杉討伐のために出陣した)陣立の 衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのこと」という内容の記述があり、上記の東下阻止が慶長五年七月十ニ日のことであることが分かります。

 

 上記の記述で、石田正澄の諸大名東下阻止について二通りの解釈が可能です。

a.弟である石田三成の指示を受けた正澄が、諸大名の東下を阻止した。

b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。

 上記のうち、「b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。」が妥当といえます。鍋島氏は、徳川家と親しく、実際に後の史実をみれば徳川家康は、父の鍋島直茂の九州での働きもあり、鍋島勝茂を許しています。一方、特に鍋島直茂・勝茂が石田三成個人と親しい訳でありません。また、この時期の石田三成は、佐和山に隠遁しており、更に昨日(七月十一日)に佐和山で不穏な動きをして、徳川へ続々と注進がいく「不審人物」でしかありません。反乱を企てているかもしれない不審人物である石田三成の命で、特に三成と親しい訳でもない勝茂が、東下阻止命令に素直に従うというのは考えにくいことです。

 石田正澄は、三成失脚後も現役の大坂方奉行として活動しており、大坂方を代表する三奉行の命令で石田正澄は動いており、勝茂もそのように(三奉行の命令と)考えていたとするのが妥当でしょう。時期的にも佐和山・樽井で石田三成大谷吉継が不審な動きをしているため、その対策を講じるため三奉行が諸大名に対して東下中止命令を出したというのが「表向きの」理由と考えられます。(実際の三奉行の思惑は違っていた訳ですが。)このため、正澄の諸大名に対する東下阻止は、「b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。」解釈がだとうでしょう。

 

「6 毛利輝元、上坂要請を受け広島より上坂する。(七月十五日。七月十九日に上坂)」は、

「4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)」を受けてのものです。

 この事から、

a.三奉行の上坂要請がなければ、輝元は勝手に軍勢を率いての大坂入城はできない(勝手に輝元が三、奉行の許可も得ずに大坂城へ軍勢を率いて入城することは、五大老といえども豊臣公儀への反逆行為になります)ことと、

b.毛利輝元の上坂は異常にスピードが速く(わずか四日で広島から大坂へ移動)事前に十分に準備していないと不可能であり、かなり前から少なくとも三奉行と輝元は西軍決起を通謀していたことが分かります。

 

7 島津義弘上杉景勝宛書状を発出。(七月十五日)」

 この書状については、前回のエントリーで検討しました。島津義弘については、前後の動向をみればおそらくこの日(七月十五日)の直前辺りに西軍に加盟しており、前述の西軍決起首謀者達の中でもおそらく一番遅い加盟ではなかったかと考えられます。

 

「8 毛利秀元大坂城の徳川留守居を追い出す。(七月十七日)」

 七月十七日に毛利秀元が、大坂城留守居を追い出したのは、事前の共謀による予定の行動でしょう。この日に徳川留守居を追い出したのも、同日付の「内府ちがひの条々」発出にあわせたもので、三奉行の指示によるものであるといえます。ここでも、「毛利巻き込まれ説」はありえないことが分かります。

 

「9 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(七月十七日)」

 大坂方(豊臣公儀)を代表する三奉行の宣言により、徳川軍は豊臣公儀軍としての正当性を剥奪され、五大老の地位も剥奪され、以後はただの反乱軍という扱いになります。このような家康の正当性を剥奪する権限は、大坂方(豊臣公儀)を代表する三奉行にしかなかった訳です。(この時点では、石田三成五奉行に復帰していません。)

 (参考↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 以上の流れをみていきますと、1~9のうち、2・3・4・9が三奉行の直接的な行動によるもの、5・6は三奉行の指示によるもの、8もおそらく三奉行の指示によるものです。

 このように、西軍決起までの大部分の重要な行動及び指示が三奉行によるものである以上、三奉行がこの西軍決起の主導者である可能性が極めて高いと考えられます。

 

 残る説について検討してみましょう。

A 毛利輝元主導説

 上記の1~9でみたとおり、そもそも三奉行の要請・指示がないと毛利輝元はこのような決起に向けて動けませんし、その行動を正当化もされません。輝元は三奉行の要請・指示を受けて初めて動ける立場なので、主導者とはいえないでしょう。

 

B 宇喜多秀家主導説

 上記の1~9のとおり史実上、宇喜多秀家は西軍決起に向けて何か主導的な役割は何も行っていません。このため、宇喜多秀家主導というのは極めて考えにくいといえます。

 

D 石田三成大谷吉継

 これが「従来の通説」な訳ですが、上記のように三奉行が主体的な行動、指示をしている事が、実はいちいち佐和山・樽井で不審な動きをしている石田・大谷にお伺いをたてて行動しているというのも極めて考えにくいことです。三奉行は自立的な意思で行動・指示を出しており、石田・大谷の指示で動いている訳ではありません。

 石田三成は、五奉行から外され佐和山に隠遁しており、その行動は制限・監視されています。大谷吉継も実の所、五奉行ではなく豊臣公儀の中で特権的な地位にある訳ではありません。特に慶長五年七月十一日以降は、石田・大谷とともに「反乱を企ているのか?」と疑われている「不審人物」です。この時期は更に監視が強化されている訳です。(この時期に密かに石田・大谷が大坂へ入城したという説がたまにありますが、いかに馬鹿げた説が分かるでしょう。石田・大谷にそのような挙動があれば、大坂の徳川留守居や親徳川大名から逐一家康に報告が入っているはずです。また、誰かが佐和山の石田と交渉していたとしたら、その動きも逐一報告が行っているはずです。)

 現役の五奉行であり、大坂方(豊臣公儀)の代表である「三奉行」であるからこそ彼らは自由に動けますし、監視の目もくぐりぬけて毛利その他の大名とも自由に交渉(諸大名との交渉も三奉行の職務です)できる訳です。

 

 以上より「西軍決起計画の『主導者』は誰か?」の回答は、「C 御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行説」の可能性が一番高いと考えられます。

 

※ 慶長五(1600)年七月の諸将の動きについて下記にまとめました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 参考文献

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会、2016年