古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十七 「内府ちがひの条々」以降の三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)の動向について

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 おもに慶長五(1600)年七月十七日に「内府ちがひの条々」を発出した以降の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の動向について以下に記します。

 

7月17日 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(中野等、p418~419)

7月17日 三奉行、別所吉治に対して丹後(細川領)征伐に参加することを命じる。(中野等、p421)

7月29日 大老毛利輝元真田昌幸宛家康糾弾書状に三奉行が副状を発行。(中野等、p427)

7月29日 三奉行は毛利輝元とともに、毛利氏家臣佐波広忠へ、占領した阿波徳島城蜂須賀家政居城。家政は、七月十七日以降親徳川派行動を咎められ、剃髪の上高野山へ追放されていた。)の扱いについて書状を発出している。「この判物は大老輝元と三奉行の連署という形態であり、阿波の占領が公儀の命令に基づくことを示している。」(光成準治、p119)

8月1日 伏見城陥落(藤井治左衛門、p195)

8月1日 蒔田広定に伊勢方面攻撃に加わることを命じる二大老(毛利・宇喜多)四奉行(前田・増田・長束・石田)連署状発出(中野等、p433~434)

8月1日  真田昌幸長束正家増田長盛書状。この書状に「「景勝・佐竹一味たるべく候」とあり、豊臣奉行衆は(筆者注:佐竹)義宣の西軍参加を信じていた。」(光成準治、p204)

8月1日  二大老・四奉行 木下利房に北庄赴縁援を命じる。(藤井治左衛門、p195)

8月2日  真田昌幸伏見城陥落と丹後征伐の状況を報告する二大老・四奉行書状。(中野等、p434~438)

8月2日  前田玄以増田長盛長束正家鍋島勝茂毛利勝永に伏見の戦功を賞する。(藤井治左衛門、p198~199)

8月4日  九州の細川領収公のため太田一成に豊後に下る事を命じる四奉行書状。(同日付の二大老書状もある)(中野等、p438~440)

8月4日 毛利輝元宇喜多秀家、西軍の状況を九州細川領杵築城主松井康成に報じ、杵築城退城を命じる。副状に四奉行(前田・増田・石田・長束)書状。(藤井治左衛門、p204~205)

→この細川領収公に杵築城主松井康成が応じなかった(八月十三日)ため、毛利輝元や豊臣奉行衆は九州細川領を武力制圧する方針とし、大友吉統の九州派遣を命じます。(光成準治、p142)

8月5日 長束正家等、伊勢国安濃郡椋本に陣する。(藤井治左衛門、p218~219)

8月14日 増田長盛、松井康之に対し、味方しないことを難詰した書状を送る。(藤井治左衛門、p243~244)

8月23日 織田秀信岐阜城、東軍に陥落させられる。(中野等、p455)

8月25日 この頃、越後の堀秀治の下に豊臣奉行衆から使者が到来している。使者が何を伝えたのかは文書には明記されていないが、堀氏の越中乱入を催促するものと考えられる。(八月下旬に上杉景勝が堀氏に仕掛けた越後一揆が一時沈静化している。これは堀氏が西軍に付く意向を示したため、豊臣奉行衆が上杉に対して越後での一揆を行わないように要請したためと考えられる。)しかし、九月になると堀秀治は、東軍寄りの姿勢を明確にしている。(光成準治、p219)

8月25日 同日付長束正家増田長盛石田三成前田玄以宇喜多秀家上杉景勝書状。冒頭に「「太閤様不慮以来、内府(徳川家康)御置目に背かれ、上巻・誓紙に違われ、ほしいままの仕合せ故、おのおの仰せ談ぜられ、御置目を立てられ、秀頼様御馳走の段肝要至極存じ候事」」とある。(光成準治、p219)

8月25日 東軍方の伊勢安濃津城陥落。城主富田信高は剃髪し、高野山に上る。(笠谷和比古、略年表p2)

8月26日 「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)

8月27日 輝元書状から、伊勢の占領地の処置は増田長盛が行っていたことがわかります。降伏した安濃津城の二の丸に毛利勢は入らないように長盛は指示しており、輝元は不満そうだが指示に従うように毛利家臣に指示をだしている。(光成準治、p83)

9月3日 増田長盛、毛利家臣九名に京極高次居城の大津城への「加勢」について指示をだしている。本丸・二の丸には御女房衆(淀殿の妹である高次室や高次の妹で秀吉の側室だった松の丸)がいるので毛利勢の在番を拒否されたことを受け、本丸・二の丸に入る事を断念し、三の丸に入る事を指示している。この時期の長盛は「高次の裏切りをまだ認識していないが、おそらく不穏を感じていたのであろう。」と光成準治氏は述べています。実際には、この日(3日)に高次が帰国し、強引に入城して東軍につくことになります。(光成準治、p84)

 その後、大津城攻めとなりますが、増田長盛が大津城攻めに援軍を派遣しています。(光成準治、p85)

9月7日 毛利秀元長束正家ら美濃南宮山に陣する。(藤井治左衛門、p338~339)

9月13日 毛利輝元増田長盛、多賀出雲守に対し、大津城攻撃の激励文を送る。。(藤井治左衛門、p352~353)

9月13日 細川幽斎の籠る田辺城開城。(笠谷和比古、略年表p2)

9月13日 豊後立石で黒田如水が大友吉統を破る。(笠谷和比古、略年表p2)

9月15日 大津城の京極高次降伏。(光成準治、p86)

9月15日 関ヶ原の戦い。(中野等、p459~465)

 

 上記をみても、二大老・四奉行が豊臣公儀の首脳部を形成し、豊臣公儀の命令により西軍の戦争は遂行されたことが分かります。 

 

 参考文献

笠谷和比古関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、2019年

光成準治関ヶ原前夜』角川ソフィア文庫、2018年