古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十九 徳川家康の人質にされそうになった(?)毛利輝元養女(追記あり)

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(令和2年10月22日追記)

 このエントリーは、表題のとおり「慶長四(1599)年九月に毛利輝元の養女が徳川家康の人質にされそうになったか?」がテーマです。

 それはこの時期に、徳川家康が本当に毛利輝元養女を江戸の人質に要求するようなことを行ったとしたら、これは相当に輝元の心情を害し、後に西軍決起に対して西軍の総大将として引き受ける大きな要因になったと考えられるからです。

 これが史実として妥当なのか否かは慶長四年と推定される九月十三日付毛利秀元毛利輝元書状において、徳川家康が強く「江戸下向」を(大坂城淀殿に)勧めたという「中納言殿女中」が誰なのかによって全く変わってきます。

 以下のエントリーでは、西尾和美氏の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」を基に、「中納言殿女中」とは「毛利輝元養女=小早川秀秋正室」であることを前提に記述しましたが、一方で、跡部信氏等が、家康が強く江戸下向を勧めた「中納言殿女中」は、徳川家康の三男(嫡男)である徳川秀忠の室のお江であるとしています。ツイッターで、HI氏より指摘があり、こうした異説について知りました。HI氏のご指摘に感謝します。

 この「中納言殿女中」が「徳川秀忠室=お江」であったとしても、大名の子女は大坂に常住することを義務付けられている事を破る行為であり、当時の家康の傍若無人さを示し、淀殿が怒って阻むのが当然な行為(このようなことが認められてしまえば、他の大名の子女も領国へ下向できてしまうことになります)ではありますが、輝元が直接的に家康に対して強烈な反感や不信感を抱く行為とまではいえません。

 この文書のやっかいなのは、九月十三日付毛利秀元毛利輝元書状にある「中納言殿女中」が、西尾和美氏の唱える「中納言殿女中=小早川秀秋室=毛利輝元養女」説でも、「中納言殿女中=徳川秀忠室=お江」説でも、どちらもそのように読めばつじつまが合うということです。このため、研究者間でも意見の分かれている書状の解釈についてどちらが正しいのかは、現時点では個人的にわかりません。

 以下のエントリーは西尾和美氏の「中納言殿女中=小早川秀秋室=毛利輝元養女」説が正しいという前提の上での考察で、そのように書いています。「中納言殿女中=徳川秀忠室=お江」説という有力な異説が別にあることを前提としたうえで、一考察としてご参照いただければと思います。

(令和2年10月22日追記 おわり、以下原文です。)

 

 豊臣秀吉は、西国の大大名である毛利家との関係を親密なものとするため、何重もの婚姻関係を結んでいます。以下では、西尾和美氏の「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」を元に、豊臣家と毛利家との間にどのような婚姻関係があったかをみていきます。(以下のページは上記著作を参照したページ数です。)

 

 豊臣家と毛利家には以下の婚姻関係があったとされます。(p103~104)

 

① 羽柴於次秀勝と毛利輝元養女との婚姻

② 秀吉養女(大友義鎮娘)と小早川秀包との婚姻

③ 秀吉養女(宇喜多直家娘)と吉川広家との婚姻

④ 秀吉養女(秀吉弟羽柴秀長長女)と毛利秀元の婚姻

⑤ 小早川秀秋毛利輝元養女(宍戸元秀娘)との婚姻

 

 ここでとりあげるのは、⑤小早川秀秋毛利輝元養女(宍戸元秀娘)についてです。

 文禄三(1594)年十一月、秀吉の妻おねの甥、秀吉の元養子であり、小早川家の養子となった小早川秀秋(当時の呼び名は秀俊ですが、ここでは秀秋に統一します)と毛利輝元養女(宍戸元秀娘)との婚姻が行われます。(p107)

 輝元の養女となった宍戸元秀の娘は「輝元室の姪にあたり、また、輝元にとっても従兄弟の娘にあた」(p120)ります。

 しかし、婚姻後の輝元養女と秀秋との仲はよかったとはいえず、特に女房衆から秀秋への讒言が多く、そのため秀秋の輝元養女に対する警戒や腹立ちを招いており、女房衆との関係にひどく悩まされたようです。(p128)

 秀吉死後の慶長四(1599)年九月十三日付と推定されている毛利秀元毛利輝元書状を見ると、このころ別の女性に秀秋の子どもが生まれる状況があり、そうなれば秀秋室の気に障りになるだろうから、という理由で徳川家康が秀秋室の江戸下向を強く勧めたことがわかります。

 同書状から、この家康の勧めに淀殿が強く反発したということが記されています。(p130)

 

 江戸下向とは、つまりは体の良い徳川の人質ということです。側室に子が生まれることは当然当時は普通にあったことであり、家康が小早川家内の問題に介入し、どさくさ紛れに秀秋室を人質にとろうなどいう暴挙をしようとする事に対して淀殿が怒り、阻止しようとするのは当然の事かと思われます。

 

 家康は、輝元にも「自分の勧めを妨害する者がいると聞いているので輝元からも是非申し立てるように言ってき」(p130)ており、これは輝元の養女である小早川秀秋室を江戸の人質にするように、輝元自身が申し立てろ、と家康が輝元に言ってきたわけです。このような家康の所業に対して、輝元が家康に極めて不快感を抱き不信を感じたのは想像に難くありません。のちに、輝元が西軍決起に総大将として応じたのも、結局のところ、このような所業をしている家康に対する不信感と警戒感が相当に大きかったためということになると考えられます。

(また慶長四(1599)年九月は、家康の大坂入城、宇喜多秀家の伏見移動強制、徳川家康暗殺計画疑惑事件(のちに前田利長への嫌疑に発展します)、北政所大坂城退去など政変がめまぐるしく起こった時期です。こうした時期に家康は秀秋室の江戸下向を淀殿・輝元に突き付けてきたわけで、輝元がこれは家康の恫喝であると理解したでしょう。)

 

 結局、慶長四(1599)年十月十一日頃までには秀秋と輝元養女は離縁することと決まり、同女は毛利領国に下向します。(p131~133)

 家康の恫喝をはねのけるには、離縁させるのもやむ無し、と考えた輝元の意向と考えられます。その後、輝元養女は関ヶ原合戦後の慶長七(1602)年八月、興正寺門跡に再嫁しました。(p124~125)

 

 参考文献

西尾和美「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」(川岡勉・古賀信幸編『西国の権力と戦乱〈日本中世の西国社会①〉』清水堂出版、2010年