古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

☆慶長争乱(関ヶ原合戦)主要人物行動・書状等時系列まとめ ②慶長三(1598)年9月~12月

☆☆目次☆☆

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

☆慶長三(1598)年9月

 

1日 毛利輝元の嗣子・松寿丸、上洛の途次にあったが秀吉の訃報を受け、備後鞆の浦から引き返し、9月1日広島に到着。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 「9月2日付の(筆者注:毛利輝元家臣)内藤元家充て内藤隆春書状に「宇喜多事、日々殿様へ参之由、家中者共之悦候事非大形之由風聞候」とあり。秀吉の遺志に基づき宇喜多秀家が毛利邸をしばしば訪れて輝元と交誼を結んでいる(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

3日 五大老五奉行起請文(『居所集成』〔第2版〕、p309、p330) 

(起請文の内容については、以下参照↓)

考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について  

4日 浅野「長政は、石田三成らと筑前へ下向する旨、黒田長政に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p330)

5日 四大老徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝はまだ上洛していない。)連署で在朝鮮将兵に充てて和議交渉に関する書状を発している(『黒田』)。ここでは家康・秀家とともに輝元も博多へ下向することも表明されているが、程なく沙汰やみとなった。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

10日 毛利輝元、「安国寺恵瓊東福寺入寺につき西笑承兌から書状をうる予定があり、在伏見が継続している(『西笑』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

13日 細川藤孝、13日には一旦丹後へ帰国。(『舜旧』)(『居所集成』〔第2版〕、p201)

16日(または17日) 上杉景勝、上洛の途に就く。「景勝の会津出発について『当代』は16日、「略記」は翌17日の出来事と伝える。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

19日 「同月29日付の景勝宛て増田長盛書状に「一、十九日ニ那須大田原迄御着座之旨、御書中之通、尤存候」(『上杉』)、すなわち同月19日、景勝が下野の那須大田原まで進んだとある点から、9月中旬に会津を離れたとみても差し支えはないだろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

 

☆慶長三(1598)年10月

2日  「10月2日付の景勝宛家康書状は「仍御仕置等被仰付、早速御上洛之段、御大儀共候、何様御上之時可申承候間」と記し(『上杉』)、景勝が伏見にいないことを示唆する文面となっている。ゆえに、伏見到着はこの日以降であろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p270)

5日 西笑承兌、「在伏見:赴家康邸、後陽成一件種々談合」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

7日 「「略記」では、(筆者注:上杉景勝の)伏見到着を10月7日と伝える。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

14日 浅野長政、「10月14日には小倉についたことを杉原長房に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p330)

15日 毛利輝元、他の大老とともに連署状発出(『黒田』『島津』)在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

26日 浅野長政上座郡の所務について指示。(『居所集成』〔第2版〕、p330~331)

27日 浅野長政、「江戸の徳川秀忠側近に宛て、自身の筑前下向を報せている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

28日 浅野長政穂波郡の所務について指示。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

 

☆慶長三(1598)年11月

2日 五大老連署状発出、毛利輝元在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 石田三成、「撤退を告げる使者として朝鮮にわたる徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島城に迎えている。」(『居所集成』〔第2版〕、p309~310)

2日 浅野長政、「筑前名島で朝鮮から帰還した徳永寿昌・宮木豊盛と会った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 浅野長政、「祐筆に宛てて算用(筑前についてか)について申し送」る。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

15日 浅野長政、「毛利秀元の宿所を訪ね、神屋宗湛の振舞いを受けている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

24日 浅野長政、「甲府にいる幸長側近に対し、近々上洛の予定であると告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

25日 五大老連署状発出、毛利輝元在伏見。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

25・26日 浅野長政、「名島で神屋宗湛と茶席をともにしていることから(「宗湛」)、上洛はそれ以降であろう。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

 

☆慶長三(1598)年12月

5日 「12月5日以降、烏丸光広徳川家康らが幽斎邸を訪れているから、同月初頭には(筆者注:細川幽斎は)再上洛していたらし」い。(『言経』「耳底記」)」(『居所集成』〔第2版〕、p201)

8日 伊達政宗、大坂屋形で男児誕生(虎菊丸、後の忠宗)(『居所集成』〔第2版〕、p288)

10日 毛利輝元、北野社で松寿丸(秀就)祈念の連歌興行(『居所集成』〔第2版〕、p235)

10日 「朝鮮から戻ってくる将兵の世話に当たる(筆者注:石田)三成の筑前滞在は12月10日ごろまで続」く。(『居所集成』〔第2版〕、p310)

11日 (毛利輝元)「翌11日清書された連歌到来(『北野杜家』)。そのままこの年は伏見で越年か。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

24日 「朝鮮からの軍勢撤退を見届けた、(筆者注:石田)三成は筑前を発ち、12月24日には島津忠恒らをともなって大坂に到着している」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

24日 「24日には(筆者注:細川幽斎は)伏見で烏丸光広と歌論を行っている。(「耳底記」)。(『居所集成』〔第2版〕、p201)

26日 石田三成、「他の奉行と連署して園城寺三井寺)への寺領宛行を行う」((『居所集成』〔第2版〕、p310)