古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

☆慶長争乱(関ヶ原合戦)主要人物行動・書状等時系列まとめ ③慶長四(1599)年1月~12月

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

関ヶ原への百日

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

↓以下、本文

☆慶長四(1599)年1月

1日 「元日、諸大名が伏見城へ出仕し年頭の礼を行った(『義演』)。「関原始末記」はこの日、(筆者注:前田)利家が幼い秀頼を抱いていたと伝えている。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

1日 「「御年譜(景勝)」によれば、元日を(筆者注:上杉景勝は)伏見屋敷で迎えたとされる。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

3日 「島津竜伯(筆者注:義久)が徳川家康と往来したので、三成は惟新(筆者注:島津義弘)及び忠恒に竜伯を悄めさせた。竜伯は他意のないことを明らかにして、誓書を与えた。」(藤井治左衛門、p69)

9日 五大老、「連署島津忠恒(のちに家久)に泗川合戦の感状を与え(『島津』)、越前北庄の小早川秀秋筑前筑後に再封する宛行状を発する。(『毛利』)。(中略)前後の状況から輝元は伏見にいたと考えてよかろう。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

9日 浅野長政、「島津家久に対する加増目録を奉行人連署で発給している」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 「秀頼が伏見城から大坂城へ移り(『言経』)、利家もこれに従ったとされている(「公徳公記」)。以後、閏3月3日の逝去までの間、大坂屋敷が(筆者注:前田利家)の」本拠となる。

 ※ 秀吉遺言の覚書は「大坂ハ 秀頼様被成御座候間(利家)大納言御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、御城御番之儀ハ、為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可由、被成 御意候事」と記すので(『浅野』)、利家の大坂移転は予め定められていたとみるべきであろう。)(『居所集成』〔第2版〕、p222)

10日 「秀頼が伏見城から大坂城へ移った。景勝は供を務め、移徒を終えた後、伏見に帰に帰還したと伝えられている。(「御年譜(景勝)」)。(『居所集成』〔第2版〕、p270)

10日 「秀頼が大阪城本丸に移徙。これにともない茶々も大坂城本丸奥御殿に移ったが、日時は明らかではない。」(『居所集成』〔第2版〕、p452)

10日 秀頼が伏見から大坂へ下向し、家康もこれに御供した。(言経卿記)(藤井治左衛門、p70)

12日or13日 秀頼の大坂下向に御供した、徳川家康が伏見に戻る。(藤井治左衛門、p70)

14日 石田「三成と浅野長政が豊臣家蔵入り地となった越前府中領大井村の百姓に条規を与える」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

中旬 『当代記』によると、慶長四己亥正月自中旬、於伏見各有物言、是亡家康公を度との企、専石田治部少輔執行折節内府公衆歴々自関東上伏見叉大谷刑部少内府公□荷擔之間、彼組之衆多以同之然而二月無爲内府家康公與羽柴筑前北國主和平、」

とあります。

 いわゆる石田三成による徳川家康暗殺計画の風聞(物言)について書かれたものですが、当代記』は寛永年間(1624年-1644年))頃に成立したとされる二次資料 であり、編纂したのは徳川家康の外孫である松平忠明とされるため、上記の記述についての信憑性については疑問が強く残ります。(ましてや、その当代記』においてすら「物言」としか書いていません。)上記の『当代記』の記述の解釈については、以下のエントリーで書きました。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

 

18日 浅野長政、「同じく5人の奉行連署伊達政宗に対して、大坂での鉄砲使用を制限している」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日 「家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、」

(『居所集成』〔第2版〕、p222)

19日 石田三成、「前田利家を擁し、他の奉行衆とともに、家康が秀吉の遺命に背いたことを責める(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

19日 浅野長政、「伏見において他家との縁辺の問題で家康を詰問した」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日or21日 西笑承兌、「在伏見:前田利家ら家康詰問の使者を務む(『言経』『朝野』)(『居所集成』〔第2版〕、p413)

19日 石田三成、「同日付で筑前国内に慶長3年産米の年貢について指示を発している。」

20日 1月20日以前に今井宗薫の取次で伊達政宗の娘五郎八姫と徳川家康の七男松平忠輝との婚約がきまる。(『居所集成』〔第2版〕、p289)

20日 「20日(筆者注:家康と四大老五奉行との対立)は和解が目指されていた(『言経』24日条)。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

20日 「伏見毛利邸に諸大名が集まり談合」(『北野社家』)(『居所集成』〔第2版〕、p235)

21日 毛利輝元、「北野社からの挨拶をうける」(『北野社家』)(『居所集成』〔第2版〕、p235)

23日 毛利輝元、「秀元への国割について増田長盛石田三成から連署奉書を得、同日この事案について秀元へ書状を発する(『長府毛利家文書』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

24日 毛利輝元、「他の大老と家康が秀吉の遺命に違背をすることを責める(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

 

 

☆慶長四(1599)年2月

2日 石田三成ら、「秀吉の遺命により伏見で剃髪」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

2日 浅野長政、「秀吉の死の公表にともない、伏見城において他の奉行とともに出家した」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

5日 徳川家康は養女によって福島・蜂須賀・伊達(筆者注:伊達氏との婚姻は実子七男の忠輝)・加藤(清正)等と姻を結ぼうとしたが、五奉行五大老に詰問されたので、和解をして誓書を交換した。」(藤井治左衛門、p77)

(12日) 「縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」の間で、誓詞が取り交わされた」(『居所集成』〔第2版〕、p331)(※毛利家文書では、誓詞は二月十二日付となっているが、他の諸書では、二月五日付とされているものが多い。中村孝也氏は通説に従って二月五日としている。)(中村孝也、p386)

12日 浅野長政、「徳川家康の縁辺(縁組)問題に一応の決着が着いた段階で、大阪に移ったものと考えられる。」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 黒田家文書等によると、「この年の春、石田治部等五奉行が背くという風説があった際、黒田如水・同甲斐守等は家康の館を守護し、正則・清正等も亦、味方として種々尽くした。」とあります。(藤井治左衛門、p79)

※ この他にも江戸時代の二次史料には、この頃、石田三成等が徳川家康を襲撃するという「計画」があった、あるいはそうした「風説」があったという記述が散見されますが、主に後世の徳川方についた大名等が作成した二次史料であるため、そのまま鵜呑みができません。

①風説自体はあったが、実際にはそのような計画はなかった。

②風説自体はあったが、徳川方が自作自演で流した風説であった。(このような「風説」を流せば、「このような『風説』があるのだから、家康殿をお守りせねば」といって、徳川方は「家康殿の守護」を口実に自分の手勢を自由に動かすことができるようになります。)

③風説自体が当時はなく、後世に徳川方が自らを正当化するために創作されたものである。(少なくとも当時の公家・寺社の日記にはそのようなことは書かれていません。)

④風説のとおり、徳川家康暗殺計画なるものがあった。

等、色々な可能性が考えられます。

 個人的意見としては、当時の公家・寺社の日記にはそのようなことは書かれていない(徳川家康を守護するために大名が手勢を集めて家康屋敷等に集結等していたら、当然、騒然としたものとして周囲の知るところになりますので、当時の日記に書かれていてしかるべき事です)ため、③の「風説自体が当時はなく、後世に徳川方が自らを正当化するために創作されたものである。」という説が妥当と考えられます。

 

29日 前田利家が伏見の徳川家康邸を訪問(『当代』『増訂加能』)。(『居所集成』〔第2版〕、p222)

 この時、「利家は家康と和し、向島に移ることを勧めた。」とあります。(藤井治左衛門、p77)

29日頃 福島正則、「家康より藤堂高虎への伝言を請け負っている。」(『居所集成』〔第2版〕、p339)

 

 

☆慶長四(1599)年3月

11日 徳川家康が大坂の前田利家邸を訪問(『当代』『増訂加能』)。(『居所集成』〔第2版〕、p222)

 その後、家康は「藤堂高虎の第に泊まった」とあります。(藤井治左衛門、p79)

11日 「11日には家康が大坂の前田利家を見舞う予定があり、幸長・加藤清正細川忠興がその旨を大坂の長政に告げている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

19日 「3月19日以降には(筆者注:細川幽斎から)智仁親王に古今伝授が行われる(『続幽斎』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p201)

26日 徳川家康向島の屋敷に移る。」(藤井治左衛門、p105)

 

☆慶長四年(1599)年閏3月

3日 前田利家、大坂屋敷で病により死去。(4日に亡くなった説もあり。)「前年12月の段階ですでに病状は悪化していたが(『義演』慶長三年12月3日条)、遂に持ち直すことはなかったのである。」(『居所集成』〔第2版〕、p222)

3日 毛利輝元、「閏3月3日付で大老連署の知行宛行状を発する。(『毛利』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

→ただし、この五大老連署状には、既に前田利長の名前が入っており、前田利家の死の直後にこのような連署状が発出されたとは考えにくいため、後日に日付を遡って作成されたものではないかと考えます。

4日 「七将襲撃事件」。

「七将襲撃事件」については、下記で、まとめました。↓

其の四十二「七将襲撃事件」とは何だったのか?①

其の四十三「七将襲撃事件」とは何だったのか?② 

其の四十四「七将襲撃事件」とは何だったのか?③ 

其の四十五「七将襲撃事件」とは何だったのか?④ 

其の四十六「七将襲撃事件」とは何だったのか?⑤ 

 

4日 石田三成、「大坂で反三成派の諸将に襲撃され、伏見へ逃走する。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

4日 福島正則、「石田三成を襲撃して伏見の屋敷に追い込む(『居所集成』〔第2版〕、p339)

8日 「伏見雑説、北政所御噯にて無事とのこと(『言経』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

9日 「伏見の徳川家康が、(筆者注:浅野)幸長ら7将と石田三成との騒動の顛末を大坂の長政らに報せている」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 石田三成、「家康の勧告を容れて、佐和山へ引退」(『居所集成』〔第2版〕、p310)

10日 織田秀信は滝川周善軒に対して、石田三成と行動を共にする意向を示す。」(藤井治左衛門、p113)

15日 「滝川周善軒は上加納庄屋棚橋九郎右衛門に、外山番並町口固めを命じた。」(藤井治左衛門、p113)

21日 毛利輝元、「家康と起請文を交わし、義兄弟の契りを結んで政権の安定を図ろうとした(『毛利』)。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

26日 「徳川家康大野修理御代官所のことにつき委細は中村一氏堀尾吉晴より申し入れらると、片桐且元へ伝える」(『居所集成』〔第2版〕、p348)

 

☆慶長四年(1599)年4月

1日 毛利輝元、「他の大老と「ばはんニ罷渡族可有之候之間、堅可被停止候」の連署状を発する。」(『居所集成』〔第2版〕、p235)

2日 徳川家康島津惟新父子に誓書を遣わして、互いに動揺しないことを誓う。」(藤井治左衛門、p114)

→上記は、慶長五年九月三日に五大老五奉行が取り交わした起請文の条項、

「一、拾人之衆中と、諸傍輩之間ニおゐて、大小各ニよらず、何事ニ付ても、一切誓

   紙取りかハすへからす、(後略)」の明確な違背行使であり、「七将襲撃事件」の「勝利」において家康が豊臣公儀の主導権を握ったことにより、以前取り交わした起請文について遵守する気が家康に全くなくなった事を示しています。

※ 慶長五年九月三日付起請文については、下記参照願います。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について

 

某日 「沓井三ヶ村を豊臣氏の天下領とする。」(藤井治左衛門、p115)

5日 伊達政宗は誓書を有馬則頼・今井宗薫に遣わして、家康に二心のないことを誓う。(藤井治左衛門、p115)

8日 浅野長政、「同日早暁の伏見火災の報を受けており(中略)、大阪にいたと考えられる」

(『居所集成』〔第2版〕、p331)

25日 北政所、「豊国社へ社参す」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

 

☆慶長四年(1599)年5月

3日 「輝元重臣堅田元慶が端午の祝儀として秀頼に拝謁するため5月3日から大坂へ下っており、あるいは輝元も一緒か。(『広島古代中世Ⅱ』「厳島野坂文書」)。(『居所集成』〔第2版〕、p235)

11日 5月11日付浅野長政等宛徳川家康連署状(『居所集成』〔第2版〕、p235)

 

 

☆慶長四年(1599)年6月

1日 「義演、石山観音堂修理を北政所より仰せつけた由を聞く」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

6日 宮木長次宛浅野長政連署状。この間浅野長政は大坂にいたと考えられる。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

11日 浅野長政、大阪に下向した西笑承兌と会う。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

12日 「その後(筆者注:毛利)秀元への国割りに言及した6月12日付内藤元家充て内藤隆春(周竹)書状に、「内々殿様御下向とこそ申候処、結句御むつかしき事共出来候、無申計候」とみえており(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)、輝元は一時帰国を考えたようであるが、結局は果たせなかったようである。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

15日 毛利輝元、「秀元へ知行宛行状を発し、同日付で秀元に領内仕置に関する法度を与えている(「長府毛利家文書」)。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

24日 「再び承兌が大坂に下向したが、(筆者注:浅野)長政は「上洛」とのことで、伏見か京都にいたと考えられる」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

26日 「同月26日付で秀元へ起請文を発する(「長府毛利家文書」)。これらの措置も伏見でなされた可能性が高い。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

 

☆慶長四年(1599年)7月

28日 「略記」によると上杉景勝は、「秀頼に暇乞いをするため、伏見屋敷から大坂城へ赴いている。」(『居所集成』〔第2版〕、p271)

 

☆慶長四年(1599)年8月

3日 「略記」によると、上杉景勝伏見を発つ。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

7日 大老連署の知行宛行状を発する。(『毛利』『西笑』)。(『居所集成』〔第2版〕、p236)

7日 「家康等五大老連署知行宛行状をもって豊光寺(筆者注:西笑承兌豊臣秀吉の追善のために建立した寺)領500石が寄進された。(伏見大光明寺領と合わせて1000石、『西笑』相44)(『居所集成』〔第2版〕、p413)

7日 長束正家増田長盛浅野長政前田玄以の四奉行は連署して、片山村の中、千石を池田勝吉に寄せる。(藤井治左衛門、p117)

10日 8月10日付上杉景勝徳川秀忠書状。「「御下国二付而、其筋被成御通由候、爰許程近之儀候間、可為御立寄と存候処、直ニ御下之由、一段御残多存知候」と記され(『上杉』)、8月10日よりも前に徳川領国を通過した事実が判明する。とすれば、8月上旬には(筆者注:上杉景勝は)伏見を離れ、関東へ入ったと理解すべきだろう。

※ この年、秀忠は江戸にいた(藤井1994)。」(『居所集成』〔第2版〕、p271)

22日 「略記」によると、景勝はこの日会津に到着。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

 

☆慶長四年(1599)年9月

7日 毛利輝元の「嗣子松寿丸が大坂城に出仕、秀頼に拝謁している。このときは輝元も大坂城にのぼり、速やかな元服を乞うている。秀頼はこれを許して元服の儀を執り行い、偏諱を与えて「秀就」を名乗らせた。」(『居所集成』〔第2版〕、p236)

7日 徳川家康、「大阪に下向し(『義演』)」た。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

7日 「西笑承兌、下坂す。徳川家康の御供にて(筆者注:片桐)且元のところへ行く」(『居所集成』〔第2版〕、p348)

8日 西笑承兌、「在大坂:登城」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

9日 西笑承兌、「在大坂:宿所山口正弘邸」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

9日 浅野長政、「重陽の礼(筆者注:9月9日)のため伏見から大坂へ下向した徳川家康の暗殺騒動に巻き込まれ」る。(『居所集成』〔第2版〕、p331)

10日 西笑承兌、「在大坂:家康に相伴」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

12日 「雑説の報が京都に伝わっており(「言経」)」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

14日 9月14日付上杉景勝徳川家康書状。「遠路御礼本望之至候、路次中無何事御下国之儀珍重候、然者此間大坂へ罷下、仕置等申付候」と記されている。(『上杉』)。大坂・会津の距離を考慮に入れるのなら、遅くとも9月上旬には国許に到着していたと考えねばならない。(『居所集成』〔第2版〕、p271)

22日 「北政所、京都移徙近日との由」(『義演』)(『居所集成』〔第2版〕、p434)

26日 北政所、「大阪城西の丸屋敷を出、京都新城へ移った」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

27日 徳川家康、「北政所に代わって(筆者注:大坂城)西丸に入った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

28日 北政所、「豊国社へ参詣す。湯立あり」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

 

☆慶長四年(1599)年10月

1日 「10月1日付の(筆者注:毛利家臣)内藤元家充て内藤隆春(周竹)書状は大坂城内の為体を嘆息し、「兎角若衆計伺候被申候ヘハ、無正儀事ニて候間、家康・輝元ハ大坂ニ御座候ハてハ不可然候、伏見にハ三河守殿、秀元御座候て尤可然之由、被仰談之由候」とあり(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)、ここから逆に輝元の在伏見が類推される。(『居所集成』〔第2版〕、p236)

1日 徳川家康宇喜多秀家毛利輝元等は連署して、堀尾吉晴に越前府中城の留守を命じた。」(藤井治左衛門、p117)

5日 浅野長政、「大坂を発って関東へ下った」(『居所集成』〔第2版〕、p331)

18日 石田三成、「長浜の船方中へ炭を佐和山へ運ぶように命じ」た。(『居所集成』

〔第2版〕、p310)

18日 北政所、「豊国社へ社参」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

26日 西笑承兌、「在大坂:訪前田玄以」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

 

☆慶長4年(1599年)12月

4日 「関東を下向した(筆者注:浅野)長政は江戸に滞在して」いた。(『居所集成』〔第2版〕、p332)

10日 浅野長政甲府に帰る。(『居所集成』〔第2版〕、p332)

17日 西笑承兌、在大坂「訪増田長盛長束正家」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

18日 西笑承兌、在大坂「訪家康」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

18日 北政所、「豊国社へ社参」(『居所集成』〔第2版〕、p434)

20日 西笑承兌、在大坂「訪伊達政宗、宿所山口修広邸宅」(『居所集成』〔第2版〕、p413)

22日 西笑承兌、在大坂「宿所山口修広邸宅」(『居所集成』〔第2版〕、p413~414)

25日 西笑承兌、「家康・増田・長束等に暇乞」(『居所集成』〔第2版〕、p414)

27日 石田三成、「相良頼房(長毎)に進物の礼状を発するが、これも佐和山からであろう。」(『居所集成』〔第2版〕、p310)