古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

文禄の役時の石田三成の動向について②~勝申候内二日本人ハ無人ニ罷成候

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(以下の記述については、主に中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年を参照しました。)

 

 前回の続きです。(前回のエントリーは以下参照↓)

文禄の役時の石田三成の動向について① 

 

1.前回のまとめ

 

 天正二十(1592)年四月二十二日、日本の軍勢が朝鮮半島への上陸を開始し、いわゆる「文禄の役」がはじまります。破竹の勢いで進軍する日本軍は、五月三日には朝鮮の首都である漢城を陥落させ、入城します。この勝利を受け、豊臣秀吉は自らの渡海を計画しますが、六月二日に至って徳川家康前田利家らが秀吉渡海の再考を促し、秀吉は渡海の延期を決定します。この時、石田三成は秀吉の渡海を主張したといいます。左記の詳細については、以前以下のエントリーで記述しました。↓

秀吉の朝鮮渡海を主張する石田三成 

 

 秀吉の渡海が延期されたことに伴い、秀吉は自らに代わり長谷川秀一、前野長泰、木村重玆、加藤光泰、石田三成大谷吉継の七名の奉行衆を朝鮮に派遣することを決定します。

 奉行衆は六月六日の朝に名護屋から出船し、七月十六日には漢城に到着しました。このうち、石田三成大谷吉継増田長盛の三奉行は、「「都三奉行」あるいは単に「三奉行」などと称され、基本的に漢城にあって在朝鮮の諸将に秀吉の軍令を伝え、指示を発して」(中野等、p167)いきます。

 三奉行が秀吉の指示により渡海した目的は、秀吉が六月三日に発した軍令(「六月三日令」)を朝鮮在陣諸将に伝達・指令することでした。

 その内容については、「朝鮮各地に転戦する九州・四国・中国の諸将に充てられた「六月三日令」の主眼は、朝鮮半島の奥地、さらに明国へ侵攻することを要求するもので」(中野等、p167)したが、「三成が実見する朝鮮の状況は、名護屋で想定していたものと大きく異なるものであった。平壌を押さえていた小西行長は、状況説明のために漢城へ戻り、兵粮事情に深刻な不安があることや、奥地への侵攻を強行すると、絶対的な兵粮不足によって退路を断たれるおそれがあることなどを、三成らに細かに告げたようである。最前線に展開する小西行長の意見は充分傾聴に値するものであった。三成ら奉行衆はすみやかに明国境を侵せと命じる秀吉の軍令と、実際に見聞する朝鮮半島の現状のあいだで、深刻な板挟みの事態に陥ってしま」(中野等、p168)います。

 

 三成ら奉行衆が漢城に着いた頃には、当初の現地の状況に対して、情勢は既に変化しており、当初の現地からの報告を基にした秀吉の軍令は実行するのは現実的なものではなくなっていました。

 

2.三奉行(石田三成大谷吉継増田長盛)が、名護屋の奉行衆(石田正澄・木下吉隆長束正家)に充てた書状

 

 この現地の状況を受けて、名護屋の奉行衆(石田正澄・木下吉隆長束正家)へ向けて三成ら奉行衆が以下の書状を出します。(石田正澄は三成の兄です。)この書状が出された時期は、文禄元年(1592)年7月か8月頃とされています(中野等、p169)。現代語訳のみ引用します。

 

「当国(朝鮮)のことについて、おのおの連判して御注進申し上げるので、然るべく(秀吉)御手隙きの時に御披露をお願いします。①

一、明国へ年内に侵攻すべく先陣の衆へ指示し、後続の軍勢も後詰めを進めていたところに、小西行長漢城に戻り、前線では兵粮以下に事欠き、さらに寒天に向かう状況のなかで如何すべきかを尋ねてきました。また、これまでも経路には人数がなく、返り路も容易ではありません。まずは命じられた国郡へ普(あまね)く入り、年貢収納等をすすめて支配すべきです。(秀吉の軍令を)謹んで辞退すべくおのおの相談し、諒解を得るべきです。②

一、これまで名護屋(其方)で受けていた御注進の内容とは異なり、朝鮮半島はどこも静謐にはなっていません。③恐縮ですが、年内に遼東(遼東川・鴨緑江)を超えて大明国へ侵攻しても、先鋒にたつ軍勢が不充分ですので(ここに軍勢を補填してしまえば)、朝鮮半島は釜山浦から鴨緑江(遼東)迄の繋ぎの城々に配置すべき人数がなくなってしまいます。(各城に)二〇〇とか三〇〇の軍勢を配置したとしても、なかなか籠城には耐えられないでしょう。④ 拙者はこの御注進状を、実際のありさま通りに申しあげています。⑤

一、右のような次第ですので、まずは朝鮮の各道へ普く入って年貢収納等をすすめ、支配を行うべきです。この絵図に書きましたように、それぞれの軍勢が各分担地域に散開しても、日本で言えば一ヵ国ほどの地域に一〇〇〇か、二〇〇〇ほどの人数を派遣するに留まるもので、山中の疎遠な場所では充分な支配も見込めません。

一、小西行長・小野木重次が前線から戻って報告した内容は、明軍(唐人)が援軍として(鴨緑江を)超えて来て朝鮮の軍勢と合流し、小西・小野木の陣所へ約三万ほどで攻撃を仕掛けてきたので一戦に及びました。反撃して敵勢を一〇〇〇ばかり討ち取りましたが、小野木重次の弟又六なども討ち死にしました。どこで何人の敵を成敗しても、反撃して数多の敵を討ち取っても、敵を五〇〇も一〇〇〇も殺害しても、味方が五〇や一〇〇人ずつの損害を受け、また手傷を負う者も出てきますので、勝ち戦を継続していくうちに日本人はいなくなってしまいます(原文「勝申候内ニ日本人ハ無人ニ罷成候間、」)。⑥年内の様子はこのような次第であり、まずは朝鮮の各地を治めることとして、今年はとにかく堅実な支配をすすめたいです。

一、これ以前にも懇ろに申し上げてきましたが、先に渡海していた軍勢が(日本に例えると)関東・北国・中国などのように遠隔地域で出ていって、先陣に対し(明国へ向けて)押し詰めるように指示を送っているよう指示を送っている間に、日数が嵩んでしまい、そのうちに兵站補給も滞ってさらに進軍が延引するでしょう。⑦次も油断なく御取り成しいただきますように。なお、追々に申し入れることといたします。

 追って申し上げます。黒田長政(甲斐守)が通ってきた経路の兵粮改めのリスト(注文)を進上します。ただし、これは本道筋ではありません。熊川口(こもかいくち)という脇の道筋です。以上。」(中野等、p170~172)

 

 この書状は、日付や連署者の花押もなく料紙は反故紙のようなものを用いており、下書きの「メモ」のようなものと判断されるといいます。(中野等、p169)これは、ここに書かれた注進の内容が秀吉の軍令に背くものであり、これを、そのままの形で秀吉に披露してしまうと秀吉の逆鱗に触れる危険性が高いものだったからです。

 このため、中野等氏は、「結果的にこの「メモ」が、そのままのかたちで発せられることはなかったと考えたい」(中野等、p172)としています。

 私見を述べますと、この書状が所蔵されているのは佐賀県名護屋城博物館であり、この事からこの書状自体は実際に名護屋の石田正澄・木下吉隆長束正家に宛てに送付されたのだと思われます。しかし、これをそのまま秀吉に披露できるような性格のものではありませんので、この書状の内容をどのように秀吉に伝えることについては、名護屋の石田正澄・木下吉隆長束正家に委ねたということなのではないかと考えます。

 このため、この書状そのものが秀吉に披露されることはなかったと思われますが、秀吉の機嫌を損ねない形で、石田正澄・木下吉隆長束正家よりこの書状の内容についての伝達がされたのではないかと思います。

 

 上記の書状の内容について、個別にみていきます。

 

 ①「然るべく(秀吉)御手隙きの時に御披露をお願いします。」

→前述したように、この書状の内容は秀吉の軍令に背くものですから、そのまま秀吉に披露できるものではありません。「御手隙きの時」とありますが、これは秀吉の機嫌が良く彼の逆鱗に触れる可能性が低い時を「御手隙きの時」としているのでしょう。秀吉の側近は短気で怒りやすい秀吉の機嫌を伺わなければならず、秀吉にとって(自分の命令に反するような)不愉快な内容・注進を、側近が報告する際にも秀吉の機嫌が良い時にする必要がありました。この秀吉の「機嫌」は、秀吉の側にいないとわかりませんので、この書状の内容を秀吉に伝えるタイミングは、秀吉の側にいる石田正澄・木下吉隆長束正家に委ねられたということになります。

 

(秀吉の軍令)謹んで辞退すべくおのおの相談し、諒解を得るべきです。

→この書状は秀吉の軍令の辞退(拒否)になりますので、かなり過激なことを訴えている書状といえます。

 

これまで名護屋(其方)で受けていた御注進の内容とは異なり、朝鮮半島はどこも静謐にはなっていません。

→これまで、名護屋で受けていた注進とは、先に朝鮮へ侵攻していた諸将からの注進状です。こうした注進状は、必ずしも正確なものではなく、自らの武功は過大に喧伝し、逆に自分の失敗は過少にあるいはそもそも申告しないものですので、こうした現地からの不正確な報告を基に、名護屋の秀吉から軍令を発したとしても、それは現実を反映したものではなくなるのは、ある意味当然のこととなります。

 

年内に遼東(遼東川・鴨緑江)を超えて大明国へ侵攻しても、先鋒にたつ軍勢が不充分ですので(ここに軍勢を補填してしまえば)、朝鮮半島は釜山浦から鴨緑江(遼東)迄の繋ぎの城々に配置すべき人数がなくなってしまいます。(各城に)二〇〇とか三〇〇の軍勢を配置したとしても、なかなか籠城には耐えられないでしょう。

→釜山浦から遼東まで戦線を広げてしまうと、補給線が伸び切ってしまい、繋ぎの城の維持も困難となります。繋ぎの城が潰されてしまえば補給線を切られてしまい、朝鮮奥地の軍勢は孤立して壊滅します。こうした危険が極めて高いため、この書状では年内の大明国への侵攻が無理であることを注進している訳です。

 

拙者はこの御注進状を、実際のありさま通りに申しあげています。

→秀吉の代行として現地に派遣された奉行衆に求められているのは、「現地の正確な報告」です。しかし、それは現地の諸将に失敗や失策があった場合も含めて報告することになりますので、現地の武将から恨まれる可能性があります。しかし、それを恐れて現地の武将となれ合って不正確な報告した場合は、主君の秀吉は不正確な報告に基づき判断するわけですから、命令も現実に沿っていない不正確なものに必ずなってしまいます。このような軍では、正しい命令が発せられず、作戦は必ず失敗し、その軍は壊滅する危険性が極めて高くなります。

 司令部に戦況を報告する者は、たとえ現地の将に恨まれる可能性があっても「実際のありさま通り」報告する必要があり、現地の将に迎合して不正確な報告をすれば、戦争全体がそれによって失敗する可能性が極めて高くなることになります。

 

勝ち戦を継続していくうちに日本人はいなくなってしまいます(原文「勝申候内ニ日本人ハ無人ニ罷成候間、」)。

→局面々々で勝利したとしても、長期戦で戦い続けているうちに、日本軍はやがて消耗していき結果的に日本軍は敗北することを示しています。

 

 ⑦先陣に対し(明国へ向けて)押し詰めるように指示を送っているよう指示を送っている間に、日数が嵩んでしまい、そのうちに兵站補給も滞ってさらに進軍が延引するでしょう。

→遠く離れた戦場(朝鮮)⇔名護屋(司令部)で、報告と指示のやり取りをしている間に、日数がかさみ、そのうち兵粮補給も滞り進軍も延引される状況を示しています。

 

 以上で見てきたように、この書状は、文禄元年(1592)年7月か8月頃の、まだ日本軍が緒戦の勝利に沸いていた頃に、将来的な日本軍の困難を的確に予見したものであり、三成ら三奉行が卓越した現状分析能力を持ち、また秀吉にとって不愉快な内容であっても、正確な注進をしようとする勇気を持っていたということを示しています。

 ただし、実際には諫言をしたことが秀吉の勘気に触れると処罰される危険性がありますので、その辺りのタイミングと伝え方は名護屋の三奉行石田正澄・木下吉隆長束正家に委ねられたということになります。   

 

※ 参考エントリー↓           

読書メモ:オンライン三成会『決定版 三成伝説』第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年