石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正十(1582)年(1~23歳)
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石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正七(1582)年(1~23歳)
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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)
※ 石田三成の幼名・通り名は「佐吉」。諱は天正一三(1585)年七月頃まで「三也」で、天正一三(1585)年七月十一日に従五位下治部少輔に叙任された頃から「三成」に改めた(中野等、p554)ようだが、以下では「三成」に統一する。
永禄三(1560)年 1歳
■「石田三成、近江国坂田郡石田で誕生。幼名「佐吉」、父は石田郷の土豪藤左衛門(または十左衛門)正継(為成ともいう)。母は土田氏。」三成の父、石田正継は地域的にみて浅井氏に仕えていたとみられる。(中野等、p7・554)
永禄十二(1570)年 11歳
六月二十四日 ★姉川の戦い。(秀吉も参陣)この戦い後、木下秀吉、開城した近江横山城の城主を務める。(柴裕之、p183)
永禄十三(1571)年 12歳
十月頃 ■浅井家家臣宮部継潤が羽柴氏に帰順する。三成の父正継も、この頃に秀吉に臣従したとみられる。(中野等①、p8)
天正元(1573)年 14歳
七月十八日 ★織田信長、足利義昭を追放する。室町幕府滅亡。(柴裕之、p183)
九月一日 ★浅井氏滅亡。「(筆者注:羽柴秀吉が)信長から働きを賞され、浅井氏の旧領国を与えられ、当地を任せられる。」(柴裕之、p183)
天正二(1574)年 15歳
■今井林太郎氏によると、この頃、石田三成が羽柴秀吉に仕官したのではないかとしている。(今井林太郎、p8・237)(18歳仕官説もある。(後述))
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天正三(1575)年 16歳
五月二十一日 ★長篠の戦い(秀吉も参陣)
夏 ★「近江今浜の地に築いていた城が完成し、(筆者注:羽柴秀吉が)入城する。今浜の地は、長浜と改められる。」(柴裕之、p183)
八月 ★越前一向一揆鎮圧戦(秀吉も参陣)。(柴裕之、p183)
天正四(1576)年 17歳
七月十三日 ★摂津国木津川口の戦い。(織田軍vs毛利水軍)(柴裕之、p184)
天正五(1577)年 18歳
八月八日 ★織田信長が加賀・能登領国の攻略のために柴田勝家を総大将とする軍を派遣。羽柴秀吉も参加するが、勝家と対立し帰陣してしまう。秀吉、信長の激怒を買う。(柴裕之、p184)
十月十日 ★信長に反逆していた松永久秀が居城大和信貫山城で自刃。(松永攻めは、秀吉も参陣)大和信貫山城は落城。(柴裕之、p184)
十月二十三日 ★秀吉、「信長から中国方面の攻略を命じられ、播磨国へ出陣する。」(柴裕之、p184)
■『霊牌日鑑』によると、この頃、石田三成が播磨姫路在陣中に羽柴秀吉に仕官したとしている。(中野等①、p8)(15歳仕官説もある。(前述))
十一月二十七日 ★秀吉、播磨国福原城攻略。(柴裕之、p184)
天正六(1578)年 19歳
この頃 ■三成、尾藤(宇多)頼忠の娘と婚姻する。(白川亨、p72)通称「うた」と呼ばれる。尾藤頼忠は秀吉の弟秀長の家臣。
※1 尾藤頼忠の娘の一人が真田昌幸に嫁いでおり、石田三成と真田昌幸は相婿とされます。(中野等、p19~20)(異説あり)
※2 頼忠の兄・知宣は、秀吉の初期の重臣の一人であり、信長存命中にも播磨国内で五千石の知行を得、小牧の陣で討ち死にする森長可の遺言を託された人物として知られています。四国平定後は讃岐国を与えられています。石田家はこの婚姻によって、秀吉の重臣である尾藤家という有力な姻戚の後ろ盾を得たことになります。(中野等、p19)
後に知宣は天正十五(1587)年の九州攻め(根白坂の戦い)の際に、敵の伏兵をおそれ追撃しないことを進言したため、その積極的でない戦い方を秀吉に咎められ、改易・放逐されます。(その後、北条攻めの時(天正十八(1590))年に、知宣は剃髪して秀吉の前に現れ寛恕を請いましたが許されず秀吉によって斬首されました。)
治宣が放逐された後、「類縁の難を避けるためか、治宣の弟宇田頼忠(三成正室の実父)の河内守頼次(実名は「頼重」とも)は、三成の父隠岐守正継の養子となり、以後は「石田刑部少輔と称することになる。」(中野等、p53)ただし、橋場日月氏は、頼次は(頼忠ではなく)尾藤知定(知宣)の息子としています。(橋場日月、p65)
また、石田(宇多)頼次は、昌幸の娘趙州院殿と婚姻しており(丸島和洋、p194~195)、これにより石田家と真田家は二重の縁戚関係(石田三成・真田昌幸相婿説が正しい場合ですが)を結ぶことになります。
※ 参考エントリー↓
二月 ★播磨三木城の別所長治、織田家に反旗を翻す。(柴裕之、p184)
三月下旬、★秀吉、三木城の包囲を始める。(柴裕之、p184)
七月 ★播磨上月城の尼子勝久・山中鹿之助、毛利に降伏。(柴裕之、p184)
十月十七日 ★荒木村重が織田家を離反。説得に赴いた黒田孝高が幽閉される。(柴裕之、p184)
十二月十二日 ★高城・耳川合戦。大友宗麟が島津義久と戦って敗れる。(新名一仁、p66~67)
天正七(1579)年 20歳
この頃 ■三成長女(山田勝重室)誕生(白川亨、p71~72)
六月二十二日 ★竹中重治死去。(柴裕之、p184)
十月三十日 ★宇喜多直家の織田家従属が認められる。(柴裕之、p184)
天正八(1580)年 21歳
正月十五日 ★播磨三木城の別所氏降伏。(柴裕之、p184)
正月十七日 ★別所長治切腹。(柴裕之、p184)
四月~五月 ★秀吉、播磨・但馬国平定。(柴裕之、p184)
五月 ★秀吉、因幡鳥取城包囲。城主山名豊国降伏。(柴裕之、p184)
九月 ★秀吉、播磨国内検地を実施。(柴裕之、p184)
天正九(1581)年 22歳
二月二十八日 ★織田信長が京都で馬揃えを行う。(秀吉は中国攻めのため不参加)(柴裕之、p184)
七月中旬 ★秀吉、吉川経家の守る因幡鳥取城の包囲を始める。(柴裕之、p184)
十月二十五日 ★吉川経家が切腹し、因幡鳥取城が開城する。(柴裕之、p184)
十一月 ★秀吉、池田元助とともに淡路国攻略。(柴裕之、p184)
天正十(1582)年 23歳
五月八日 ★秀吉、清水宗治の籠る備中高松城を包囲。(柴裕之、p184)
六月二日 ★本能寺の変。(柴裕之、p184)
六月四日 ★秀吉、毛利氏と和睦。(柴裕之、p184)
六月五日 ★秀吉、進軍を開始。(中国大返しのはじまり)(柴裕之、p184)
六月六日 ★秀吉、播磨姫路城に入る。(柴裕之、p184)
六月十日 ★秀吉、淡路国の敵対勢力を制圧。(柴裕之、p184)
六月十一日 ★秀吉、摂津国尼崎に到着。(柴裕之、p184)
六月十三日 ★山崎の戦い。明智光秀敗死。(柴裕之、p184)
六月二十七日 ★清須会議。(柴裕之、p184)
十月十五日 ★秀吉、京都大徳寺で信長の葬儀を行う。(柴裕之、p184)
十月二十九日 ★徳川・北条同盟が成立。(平山優、p36)
十二月 ★秀吉、「三法師を織田信孝のもとから奪還するために美濃国へ出陣する。織田信雄と秀吉の攻勢に信孝は服従を示す。」(柴裕之、p184)
十二月七日 ★秀吉、「五万の大軍を率いて(筆者注:柴田勝家の甥勝豊の籠る)長浜城を囲んだのである。」(小和田哲男、p67)
十二月九日 ★長浜城の柴田勝豊、秀吉に降伏する。(小和田哲男、p67)
十二月十一日 ★徳川家臣の松平家忠により『家忠日記』によると、柴田勝家より徳川家康に対して書状と贈り物が送られたとしている。柴田側から秀吉牽制のための家康への働きかけが行われたと考えられる。しかし、この時家康は、羽柴・柴田どちら側にも味方せず、中立を保っている。(小和田哲男、p118~119)
十二月二十日 ★秀吉、織田信孝の籠る岐阜城を包囲。(小和田哲男、p68)信孝は「秀吉に屈服した。三法師を秀吉に渡し、さらに自分の生母坂氏と、娘一人を人質として秀吉に差し出し、許されているのである。」(小和田哲男、p68)
十二月二十九日 ★秀吉、居城の山崎城に入って越年。(小和田哲男、p68)
(コメント)
石田三成が登場する一次史料は、天正十一(1583)年(24歳)が初出であり、その前の事績はよく分かっていません。(石田三成の出自は近江国石田郷の土豪である石田正継の三男であることは分かっていますので、23歳までの事績が不明というのは、出自が不明ということではありません。)十代から二十代前半の若者に現代まで書状が伝わるような重要な仕事を、主君秀吉が任せることも少ないので、やはり二十三歳までの書状は残ってないということなのでしょう。むしろ二十四歳にして一次史料に名を残す三成は、やはり羽柴(豊臣)家中の出世頭だったのだと考えられます。
三成が、秀吉に仕官したのは今井林太郎氏の述べる天正二(1574)年の15歳説と、『霊牌日鑑』による天正五(1577)年の18歳説がありますが、私見では18歳説をとりたいと思います。今井氏の述べる15歳説は根拠が曖昧で、いわゆる「武将感状記」の三献茶エピソードに引きずられているきらいがあるためです。(私見では、「武将感状記」の三献茶の逸話は面白い逸話ですが、残念ながらやはりフィクションだと思われます。)
白川亨氏は三成正室(うた)の子、三男三女の生まれた年を推定しており、これにより、三成とうたの婚姻は、天正六(1578)年(三成19歳)の頃と推定しています。個人的には、この年代で妥当なのではないかと考えています。
上記で書いたように、三成は尾藤(宇多)家と婚姻することになります。この尾藤家と石田家の縁組は、後々三成の人生を変えるようなものになったと考えられます。三成は、尾藤知宣の放逐後、秀吉に粛清された家や家中の武将、粛清されそうな家や家中の武将を守るために生きているような行動をとり続けることになるのです。
参考文献
小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年
新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年
平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年