古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表② 天正十一(1583)年 三成24歳-賤ケ岳の戦い

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正十(1582)年(1~23歳) 

石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い 

石田三成関係略年表④ 天正十三(1585)年 三成26歳-紀州攻め、「治部少輔」三成、真田家との取次 

 

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石田三成関係略年表②(天正十一(1583)年 三成24歳ー賤ケ岳の戦い

のページです。

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)

 

この頃 ■三成次女(岡重政室、通称小石殿)誕生(白川亨、p72~73)

正月一日 ★秀吉、姫路に向かって出発。(小和田哲男Ⅱ、p69)

正月十八日 ★徳川家康尾張の星崎まで出向き、織田信雄と何ごとかを相談している。(小和田哲男Ⅱ、p122)

正月二十三日 ■「(筆者注:羽柴)秀吉に対して謀反した淡路国の菅平右衛門の鎮圧に関し、広田蔵丞に書状を発する。」(中野等、p554)

→この「謀反」とは、天正十年(1582)年六月二日の明智光秀の起した本能寺の変後、菅平右衛門が明智方に与同したことについてのものです。この書状は、広田蔵丞からの(戦場での手柄に対する)恩賞の請求に対しての返信の書状です。①

 

正月末日 ★「織田信雄が近江安土城に入る。」(柴裕之、p183)

閏正月 ★「信雄は諸将・諸陣より御礼を受け、三法師「名代」として織田家当主の立場を認められ、秀吉・惟住(丹羽)長秀・池田恒興のもとで政権運営を進めていく。」(柴裕之、p183)

閏正月四日 ★秀吉、姫路城より丹波亀山城に入る。(小和田哲男Ⅱ、p70)

閏正月五日 ★秀吉、山崎城に戻って茶会を開く。(小和田哲男Ⅱ、p70)

二月 ★秀吉、「柴田勝家滝川一益の討伐に動き、北伊勢に出陣する。織田信雄も加わる。」(柴裕之、p183)

二月四日 ★「正月十二日に、越中井波の瑞泉寺塔頭西雲寺の僧と、伊勢の御師である蔵田左京助の二人が、景勝の命をうけ、(筆者注:秀吉との)提携に同意するという趣旨の秀吉の誓詞をもって秀吉のもとに赴いている。この誓詞が二月四日に秀吉の手もとに届いた(後略)」(小和田哲男Ⅱ、p74)

二月七日 ★秀吉、「景勝の家臣須田満親に書状をしたため、誓詞を織田信雄にも披露したことを伝え、自分も誓詞を入れるとしている。(『歴代古案』)」(小和田哲男Ⅱ、p75~76)

「これと同時に、九ヶ条の条目がそえられているが、箇条のみで、必ずしもその内容はわからない。しかし、おそらく、秀吉と景勝が無二の信頼関係を結ぶべきこと、景勝の分国の支配を認めること、柴田征伐にあたっては、期日に従って出兵・援助すべきこと、勝家から、昨夏以来、いろいろ景勝の働きかけが行われているが、これはいっさい無視すること㋐、もし秀吉と勝家との間に和がなることがあっても、景勝と秀吉との関係は維持すべきこと、といった趣旨とみて間違いあるまい。」(児玉彰三郎、p60)

二月七日 ■三成、「越後西雲寺に充て木村吉清・増田長盛とともに連署状を発する。」(中野等、p554)「ここで、(筆者注:西雲寺宛てに)三成らは、上杉家と徳川・北条両家との問題に触れ、秀吉には上杉家と徳川家の仲介を行う用意があることを述べるが、まずは景勝の越中出馬が肝心と佐々成政への牽制を要求している。」(中野等、p15)②この前日(二月六日)付で増田長盛直江兼続に送った書状(この書状の内容は、「秀吉は須田満親を通して景勝へ申し入れ、去冬以来、景勝の内意が議せられていたこと」について書かれていたようです。(児玉彰三郎、p60)が上杉家中に書状を送った初出であり、「対上杉交渉の実務を当初から担ったのは、三成と増田長盛・木村吉清であったといえよう。」(中野等、p15)

二月十三日 ★二月十三日付で柴田勝家吉川元春に書状を送っている。「おそらく、挙兵のときには味方になっていただきたい」「承知した」といった約束がなされていたものと思われる。この書状の中で勝家は、三月二十日以前には江北に出馬することを告げている。

 そして、さらに注目すべきことは、この時期、勝家は足利義昭をかつぎだそうとしていたのである。」(小和田哲男Ⅱ、p72)

二月十六日 ★秀吉、滝川一益の武将佐治新介の籠る伊勢亀山城を攻撃。(小和田哲男Ⅱ、p71)

二月二十八日 秀吉の一益攻撃に織田信雄も加わる。(柴裕之、p72)

三月 ★「柴田勝家が深雪のなかを近江国北部に出陣する。秀吉は迎撃に赴き対峙する。」(柴裕之、p183)

三月三日 ★秀吉、伊勢亀山城を落とす。(小和田哲男Ⅱ、p71)

三月三日 ★「佐久間盛政を先鋒の大将とする柴田軍が越前北ノ城を出陣した。(小和田哲男Ⅱ、p75)

三月七日 ★「柴田軍が木之本付近まで進んできた。その後、少し後退して柳ケ瀬付近が柴田軍三万でうめつくされることになる(後略)」(小和田哲男Ⅱ、p75)

三月十三日 ■三成、「賤ケ岳の合戦に関わって柳瀬の状況を伝えた近江国浅井郡称名寺書状を発する。」(中野等、p554)「冒頭にみえる「柳瀬」なる地名は、勝家が本陣を置いたところである。三成は、称名寺とその配下をつかって柴田勢の動向を探ったわけである。秀吉自身の長浜から木之本への移動も、こうした情報を基にした作戦であった。(中野等、p17~18)③

三月十七日 ★伊勢で知らせを聞いた秀吉、木之本付近へ戻り、柴田軍と対峙する。(小和田哲男Ⅱ、p76)

三月十七日 ★秀吉、賤ケ岳を占拠する。(小和田哲男Ⅱ、p76)

三月十七日 ★秀吉、上杉家臣須田満親に対して、景勝の越中出兵を乞う。(児玉彰三郎、p61)

この頃   ★秀吉、丹羽長秀と連絡をとり、若狭から越前の敦賀へ攻め入るよう要請。(小和田哲男Ⅱ、p76)

四月 ★「復権を企てる織田信孝が挙兵する。秀吉は信孝の母を磔刑とした」(柴裕之、p183)

四月二日 ★この日、羽柴方と柴田方で激しい戦いがあったようである。(小和田哲男Ⅱ、p78)

四月三日 ★四月三日付で秀吉は、弟秀長に書状を発している。「一、惣構えの堀より外へ鉄炮放候事ハ申すに及ばず、草かりふせいニ至まで一人も出す間敷事。」(小和田哲男Ⅱ、p78)等とある。また、この書状に秀吉自ら播磨に出陣する予定が書かれていますが、小和田哲男氏はこれが秀吉の本心であったかは疑問としており、この情報を真に受けた柴田軍が「惣構の堀」に攻めてきたところを迎え撃つ作戦だったのではないかとしています。(小和田哲男Ⅱ、p80)

四月六日 ★四月六日付で足利義昭が、吉川元春・元長へ御内書を発する。これは、「柴田勝家が江北に出陣し、秀吉と戦っている隙に上方に出陣して秀吉を挟み撃ちにすべきことを(筆者注:毛利方へ)要請した内容である。」(小和田哲男Ⅱ、p72~73)しかし、毛利側では相談の結果、秀吉と勝家のいずれが勝つか分からないため、どちらにも味方せず、形勢を見守ることとなった。(小和田哲男Ⅱ、p73)

四月十三日 ★上杉景勝は、書状にて島津左京亮に、四月頃真田昌幸が海ヶ淵に城を築いたことを知らせている。(笹本正治、p131~132)

四月十六日 ★秀吉、織田信孝の蜂起を受けて岐阜城攻めに向かい、「美濃大垣城に着陣する。」(柴裕之、p183)(小和田哲男Ⅱ、p77・80)

四月二十日 ★「勝家は甥の佐久間盛政に賤ヶ岳の秀吉方陣地を攻撃させ、中川清秀らを討ち死にさせる。」(柴裕之、p74)

四月二十日 ★佐久間盛政、大岩山砦・岩崎山砦を落とす。(小和田哲男Ⅱ、p81)

四月二十日 ■秀長は盛政が動いたのを、すぐに大垣城の秀吉に知らせたと考えられます。

 佐久間盛政が大岩山砦を落としたのが午前十時頃で、その報が伝わったのが何時頃からは不明ですが、秀吉が大垣を出発したのが午後四時のため、それより前に報を受け取ったことになります。この時、秀吉軍は約一万五千の兵を率いて大垣城を出発。大垣から木之本までの52キロを午後四時から午後九時までの五時間で急行するいわゆる「美濃大返し」を行います。これが賤ケ岳の勝利を決定づけました。(小和田哲男Ⅰ、p86~88)(小和田哲男Ⅱ、p82)

 小和田哲男氏は、このお膳立てを石田三成兵站奉行が行ったものとみています。(小和田哲男Ⅰ、p86~88)具体的には、「出発前に石田三成らに命じ、北国脇往還沿いに松明と握り飯を用意させた」(小和田哲男Ⅱ、p82)といいます。

 また、小和田氏によると、そのときの街道沿いの村々にはおもしろい話が伝わっており、その時の羽柴軍は槍も持たず、手ぶらで走ったという話が残っているということです。小和田氏は「長浜城には武器庫があり、それを三成が木之本周辺に運ばせた可能性はあり、手ぶらで走ったということも十分考えられる。」(小和田哲男Ⅰ、p87~88)としています。④

四月二十日 ★秀吉、木之本に到着して少しの休憩を挟んで佐久間盛政に総攻撃を行う。

四月二十一日 ★秀吉、「柴田勝家と戦い、勝利する(賤ヶ岳の戦い)。」(柴裕之、p183)

「賤ケ岳付近で戦いがはじまったのは二十一日の午前二時ごろである。賤ケ岳の戦いは野戦であった。」(小和田哲男Ⅱ、p85)

この時に活躍したのが、秀吉の近習衆である「賤ケ岳の七本槍」である。(実際には、 九人の武将が特に活躍したようである。「賤ケ岳の七本(九本)槍」は以下の七(九)名。

 福島正則脇坂安治加藤嘉明加藤清正平野長泰片桐且元糟屋武則・(石河兵助)・(桜井佐吉)(小和田哲男Ⅱ、p82~83)

■「『一柳家記』には、賤ケ岳合戦当日、秀吉側の「先懸衆」として柴田軍に突撃した将兵十四人の名前が見えるが、その中に三成の名も含まれている。」(森岡榮一、p94)⑤

四月二十一日 ★柴田方であった前田利家は戦線を離脱し、塩津から越前へ戻り始めた。同じく金森長近・不破勝光の隊も兵を引く。(小和田哲男Ⅱ、p85~87)

四月二十二日 ★秀吉、戦線離脱して府中城に戻っていた前田利家を訪ねる。利家は柴田勝家の居城である北ノ庄城攻めの先鋒になることを承諾する。(小和田哲男Ⅱ、p88)

四月二十二日 ★『古今消息集』によると、四月二十二日付で家康が秀吉に対して、対柴田勢勝利を祝した書状を送っています。(小和田哲男Ⅱ、p119~120)小和田哲男氏は、この文書を真書として扱っていますが、小和田氏が指摘する通り、賤ケ岳の戦いの勝利を家康が知ったのは四月二十五日(小和田哲男Ⅱ、p121)であり、この書状には原本もないことから偽文書の可能性が高いのではないかと個人的には考えます。(この書状が真書の場合は、四月二十一日の賤ケ岳の戦いではない別の関連した戦いの勝利を祝したものということになります。)

四月二十三日 ★秀吉、北ノ庄包囲を開始。(小和田哲男Ⅱ、p88)

四月二十四日 ★秀吉、「勝家の居城であった越前北庄城を攻落させ、勝家・小谷の方らを自刃に追い込む。」(柴裕之、p183)

四月二十四日 ★信雄、信孝討伐のため美濃国へ向かい、岐阜城攻略。(柴裕之、p74)

四月二十七日 ★四月二十七日の書状で、「秀吉が(筆者注:毛利)輝元に対し、戦勝報告とともに、輝元からの陣中見舞いの礼を述べているくだりがある(後略)」(小和田哲男Ⅱ、p73~74)

四月二十八日 ★柴田方であった能登前田利家越中佐々成政も秀吉の幕下に降る。(中野等、p21)(※前田利家については、前述したとおり既に降っています。)

「北陸の旧織田領国を傘下におさめることで、直接上杉家と領域が接することとなり、秀吉と上杉家の関係は一転して緊張したものになる。これまでは、一種の遠交近攻策として、秀吉と上杉家とは同盟関係にあったが、越後国内に新発田重家(筆者注:景勝に背き頑強に抵抗した越後の国衆で、景勝の仇敵的存在)の謀反を抱える上杉景勝は関東・信濃の不安定要素もあって、必ずしも秀吉の要請に応えてきてはいなかった。こうした状況下、秀吉は越後上杉家の執り次を佐々成政に委ね、境界確定などの困難な交渉を進めさせることとした。ちなみにこの時期佐々成政新発田重家(因幡守)に書状を発して秀吉に誼を通じるように促している㋑(後略)」(中野等、p21)

四月二十九日 秀吉、直江兼続らに書状を送る。この中で、秀吉は越中に出兵しなかった景勝のことをなじっている。それにも関わらず景勝との懇親をあつくしたいと述べてはいる(児玉彰三郎、p62)が、景勝に対する秀吉の信頼度が下がっていることが伺えます。

五月二日 ★「織田信孝尾張大御堂寺で自刃する。」(柴裕之、p183)

五月五日 ★秀吉、近江長浜城に凱旋。(小和田哲男Ⅱ、p98)

五月十五日 ★秀吉は、小早川隆景宛に賤ケ岳の戦いの戦勝報告を行っている。(その中で秀吉は、「東国は氏政、北国ハ景勝まで、筑前覚悟に任せ候」と書いてあるが、この時期に北条は秀吉に靡いていたわけでもなく、上杉もまだ臣従していないため、誇大宣伝といえる。)(小和田哲男Ⅱ、p94~95)

五月二十一日 ★徳川家康重臣石川数正を派遣し、秀吉に戦勝祝いを述べるとともに、祝いの品を持参させている。この祝いの品の中に茶器の名物である「初花肩衝」があった。(小和田哲男Ⅱ、p121)

六月 ★「秀吉、摂津大阪城に入り、自身の居城として強大な城郭を築き始め、信長後継の天下人としての立場を示しだす。近江安土城にいた織田信雄と三法師は追われる。」(柴裕之、p183)

六月 ■「対勝家戦の戦勝を祝う上杉景勝の使者として、大石元綱(播磨守)が秀吉の下に派遣される。景勝は秀吉に太刀一腰と馬一疋を贈っているが、木村吉清・増田長盛らとともに大石元綱の対応にあたった三成にも景勝から馬・白布を贈与されている。もとより、これまでの好誼をふまえたものである(後略)」(中野等、p21)⑥

六月 ★滝川一益、秀吉に降伏。(柴裕之、p74)

六月二日 ★秀吉、「信長の一周忌法要を行った後、池田恒興を移封させることで得た摂津大坂状に入った。」(柴裕之、p76)この後、秀吉は大坂城を自身の居城として巨大な城郭を築き始めます。(柴裕之、p76)

六月二十八日 ■三成、「上杉家の狩野秀治・直江兼続に書状を発する。」(中野等、p554)同日付で秀吉より景勝へ、前述した大石元綱の戦勝の使者と贈り物に対する秀吉の謝意と、以後の懇親を約する書状が発せられている(児玉彰三郎、p63)ので、その副状と考えられます。⑦

七月四日 ■『宇野主水(本願寺門主顕如に仕えた右筆)日記』の七月四日条に、石田三成の記述がみられる。この年の七月からはじまる『宇野主水日記』には、「筑州家中出頭面々」として、杉原家次・浅野長吉(長政)・増田長盛羽柴秀長堀秀政・蜂屋頼隆・津田信張に並んで石田左吉の名が上がる。(中野等、p8~9)この三成24歳の頃より、三成が秀吉家中で既に枢要の任務についていたことが分かります。⑧

八月 ★秀吉、「独特な糸印を用いた朱印状を発給し始める。」(柴裕之、p183)

八月十六日 ■「三成と長盛の連署で、直江兼続(山城守)・狩野秀治(讃岐守)に充てて「覚」を発している。(『上越市史』二-二九六六号文書)。ここでは上杉家から出すべき証人(人質、史料上の表現は「質物」とある)のこと及び「御縁辺之儀」(すなわち婚姻関係)を整えることが議せされ、さらに信州における徳川家の「郡割」や越中佐々成政のことなどが問題となっている。また、「出羽・奥州・佐州之儀、景勝様御取次之段、先度如被申談たるへき事」と既定であったとはいえ、奥羽や佐渡の「取り次ぎ」を景勝に委ねる、と改めて言明している。」(中野等、p22)⑨

八月二十四日 ★「徳川実紀」等にこの日、徳川家康が信州上田城真田昌幸に与えたとの記載がある。(平山優、p77)

八月二十八日 ★秀吉、大阪城の普請総奉行を務める黒田孝高に五か条の「掟」を与える。(小和田哲男Ⅱ、p104)

九月一日 ★『兼見卿記』によると、九月一日を大坂城の普請の開始日としている。(小和田哲男Ⅱ、p105)

十月 ★織田信雄、「十月から父信長の「天下布武」印に似た「威加海内」の印文を刻んだ馬蹄形印判を使用して領国支配に臨んでいく。ここに信雄は、自分こそが天下人織田家の当主であると改めて表明したのだ。」(柴裕之、p78)

十月一日 ★秀吉、築城工事中の大阪城で毛利家から送られた小早川元総(秀包)、吉川経言(広家)の二人の人質と謁見。吉川経言は帰国させた。(小和田哲男Ⅱ、p107)

十一月 ★「織田信雄が機内で切腹したとの風聞が流れる険悪な情勢が生じる。」(柴裕之、p183)

十一月 ★この頃、大阪城の天主台が完成した。(小和田哲男Ⅱ、p108)

十一月十五日 ★「秀吉からの督促を受け、家康は十一月十五日、北条氏に「関東惣無事」の指示を伝達し、熟慮して対応するよう促した。」(柴裕之、p77~78)

十二月 ★「上杉宜順が(筆者注:直江)兼続に書状を送り、証人を出すことを承諾しているが、これは宜順の孫弥五郎を、上杉氏の秀吉への証人として上方に登せることに他ならなかった。」(児玉彰三郎、p65)

 

コメント

 織田信雄羽柴秀吉派と織田信孝柴田勝家派との対立は、天正十(1582)年の十二月から、武力衝突に発展しました。天正十一(1583)年四月二十一日の賤ケ岳の戦いによりこの対立は、織田信雄羽柴秀吉派の勝利に終わり、織田信孝柴田勝家派を打倒しました。

 この戦いの勝利後、絶大な権力を握った羽柴秀吉は大坂を居城として巨大な城郭を構築し始め、その大坂城の普請を旧織田信長家臣たちに手伝わせる(小和田哲男Ⅱ、p105)など、自らが主君のように振舞い始めることになります。秀吉は織田家織田信雄、三法師)を軽んじていくようになり、秀吉の「専横」を憎んだ信雄と秀吉の対立は深まります。この結果、翌天正十二(1584)年に両者は決裂し、これが「小牧・長久手の戦い」等の一連の戦役につながっていきます。

 

 それでは、天正十一(1583)年、三成二十四歳の頃に、羽柴家中で三成の果たした役割についてみていきます。

当時の史料をみていくと、この頃の三成の職務は、秀吉の側近として、以下のような働きをしたと考えられます。

 

1.戦功の恩賞の取次ぎ・差配

①正月二十三日 ■「(筆者注:羽柴)秀吉に対して謀反した淡路国の菅平右衛門の鎮圧に関し、広田蔵丞に書状を発する。」(中野等、p554)

→この「謀反」とは、天正十年(1582)年六月二日の明智光秀の起した本能寺の変後、菅平右衛門が明智方に与同したことについてのものです。この書状は、広田蔵丞からの(戦場での手柄に対する)恩賞の請求に対しての返信の書状です。

 

とあるように、この頃の三成は、秀吉の側近として、武将たちの戦功による恩賞の訴えを受け付け、秀吉に伝え、恩賞の取次ぎ・差配を行ったことが分かります。

 

2.上杉家との外交

②三月十三日 ■三成、「越後西雲寺に充て木村吉清・増田長盛とともに連署状を発する。」(中野等、p554)「ここで、(筆者注:西雲寺宛てに)三成らは、上杉家と徳川・北条両家との問題に触れ、秀吉には上杉家と徳川家の仲介を行う用意があることを述べるが、まずは景勝の越中出馬が肝心と佐々成政への牽制を要求している。」(中野等、p15)

 

⑥六月 ■「対勝家戦の戦勝を祝う上杉景勝の使者として、大石元綱(播磨守)が秀吉の下に派遣される。景勝は秀吉に太刀一腰と馬一疋を贈っているが、木村吉清・増田長盛らとともに大石元綱の対応にあたった三成にも景勝から馬・白布を贈与されている。もとより、これまでの好誼をふまえたものである(後略)」(中野等、p21)⑥

 

⑦六月二十八日 ■三成、「上杉家の狩野秀治・直江兼続に書状を発する。」(中野等、p554)同日付で秀吉より景勝へ、前述した大石元綱の戦勝の使者と贈り物に対する秀吉の謝意と、以後の懇親を約する書状が発せられている(児玉彰三郎、p63)ので、その副状と考えられます。

 

⑨八月十六日 ■「三成と長盛の連署で、直江兼続(山城守)・狩野秀治(讃岐守)に充てて「覚」を発している。(『上越市史』二-二九六六号文書)。ここでは上杉家から出すべき証人(人質、史料上の表現は「質物」とある)のこと及び「御縁辺之儀」(すなわち婚姻関係)を整えることが議せされ、さらに信州における徳川家の「郡割」や越中佐々成政のことなどが問題となっている。また、「出羽・奥州・佐州之儀、景勝様御取次之段、先度如被申談たるへき事」と既定であったとはいえ、奥羽や佐渡の「取り次ぎ」を景勝に委ねる、と改めて言明している。」(中野等、p22)

 

 後に、豊臣家の五大老の列に指名されるほどに豊臣秀吉の信頼を勝ち得た上杉景勝ですが、信長の生前は織田家の敵として、柴田勝家と戦っており、秀吉としても特に親しい関係ではありません(むしろ織田家家臣達としては、上杉家は敵対関係にある間柄)でした。

 特に通交のなかった上杉家と、秀吉が同盟を結ぼうと考えた理由は、柴田勝家との対立が深まったためです。越後の上杉景勝と同盟を結ぶことによって、柴田方の越中佐々成政の牽制を行おうとしたのです。いわゆる遠交近攻政策になります。二月七日付の秀吉の景勝の家臣須田満親宛書状(「勝家から、昨夏以来、いろいろ景勝の働きかけが行われているが、これはいっさい無視すること」㋐)を見ると、実際に柴田勝家から景勝への働きかけ(柴田方への勧誘)があったことが伺え、秀吉はその勧誘に乗らないように促しています。(もっとも、ついこの間まで直接戦っていた柴田と上杉が同盟を結ぶのはなかなか難しいことではあったかもしれません。)

 ②にあるように、まず秀吉は柴田方である越中佐々成政への攻撃を景勝に要請します。(その交換条件として、徳川家との仲介を行う用意があるとしています。)しかし、景勝は、越後内で反乱を起こしている新発田勝家への対処が優先志向であり、また家康との信州をめぐる争いも抱えており、越中へ出兵できるような余裕はありませんでした。

 ただし、越中佐々成政もまた隣国の越後の上杉景勝の動向を監視し、何か変事があれば軍勢をもって対処する必要がありましたので、成政は越中から釘付けで動くことができなくなりました。このため、佐々成政が賤ケ岳の戦いに参戦することはかないませんでした。

 このように、対柴田家との戦いを巡る羽柴家と上杉家との同盟は一定の効果があったといえるでしょう。

 しかし、賤ケ岳の戦いで勝利したとはいえ、結局越中攻めに動いてくれなかった秀吉の上杉家の信頼度はそれなりに低下します。

 賤ケ岳の戦い後、秀吉に降った佐々成政に対して、秀吉は越中を安堵するとともに、(四月二十八日)㋑「秀吉は越後上杉家の執り次を佐々成政に委ね、境界確定などの困難な交渉を進めさせることとした。ちなみにこの時期佐々成政新発田重家(因幡守)に書状を発して秀吉に誼を通じるように促して」います。

 つまり、秀吉は国境確定などのまさに佐々家と上杉家との直接利害がからむ事項を佐々家に任せたわけです。また、この時期、佐々成政は上杉の仇敵である新発田重家に秀吉との誼を結ぶように働きかけており、秀吉が上杉家への信頼が薄れ、心が離れている傾向を示していると考えられます。

 上杉家の取次である石田三成増田長盛・木村吉清としては、上杉との関係を良好にすることが至上命題です。六月に上杉家臣大石元綱が賤ケ岳の戦いの勝利を祝う使者として訪れ、贈り物を送ったこと(⑥)により、秀吉と上杉家との信頼関係の改善がみられます。(⑦)この信頼関係の改善に石田三成ら取次の尽力があったとえいえるでしょう。

 この後、⑨の八月十八日付の書状のように、証人の(人質)要求、縁辺の儀、徳川(信濃)・佐々(越中)との国境確定、奥州・佐渡への取次依頼など困難な課題の解決の交渉が上杉家の取次である石田三成増田長盛・木村吉清に今後も委ねられることになります。羽柴家と上杉家の親密度を上げる責務は彼ら取次に託されている訳です。

 

※詳細は、下記のエントリーを参照願います。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の三 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交①三成、外交官デビュー 

 

3.諜報活動

③ 三月十三日 ■三成、「賤ケ岳の合戦に関わって柳瀬の状況を伝えた近江国浅井郡称名寺書状を発する。」(中野等、p554)「冒頭にみえる「柳瀬」なる地名は、勝家が本陣を置いたところである。三成は、称名寺とその配下をつかって柴田勢の動向を探ったわけである。秀吉自身の長浜から木之本への移動も、こうした情報を基にした作戦であった。(中野等、p17~18)

 

 上記のように、三成は称名寺を使って、敵の柴田勝家の本陣の位置を探って秀吉に報告をしています。柴田勢と戦いの際に、秀吉は柴田勝家だけではなく、多方面(岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益)の敵を相手にしなければならず、常に本陣を動かし続けなくてはいけませんでした。

 この戦いの勝利のためには敵の行動・位置を早急に把握し、その情報に基づいて迅速な判断・行動をし、味方の主力を速やかに動かさなければなりません。三成の諜報活動とそれによってもたらされた情報は、秀吉の作戦行動を決定するために極めて重要な情報であったといえます。

 

※詳細は、下記のエントリーを参照願います。↓

賤ヶ岳の戦いのときの石田三成 

 

4.兵站奉行

④四月二十日 ■秀長は盛政が動いたのを、すぐに大垣城の秀吉に知らせたと考えられます。

 佐久間盛政が大岩山砦を落としたのが午前十時頃で、その報が伝わったのが何時頃からは不明ですが、秀吉が大垣を出発したのが午後四時のため、それより前に報を受け取ったことになります。この時、秀吉軍は約一万五千の兵を率いて大垣城を出発。大垣から木之本までの52キロを午後四時から午後九時までの五時間で急行するいわゆる「美濃大返し」を行います。これが賤ケ岳の勝利を決定づけました。(小和田哲男Ⅰ、p86~88)(小和田哲男Ⅱ、p82)

 小和田哲男氏は、このお膳立てを石田三成兵站奉行が行ったものとみています。(小和田哲男Ⅰ、p86~88)具体的には、「出発前に石田三成らに命じ、北国脇往還沿いに松明と握り飯を用意させた」(小和田哲男Ⅱ、p82)といいます。

 また、小和田氏によると、そのときの街道沿いの村々にはおもしろい話が伝わっており、その時の羽柴軍は槍も持たず、手ぶらで走ったという話が残っているということです。小和田氏は「長浜城には武器庫があり、それを三成が木之本周辺に運ばせた可能性はあり、手ぶらで走ったということも十分考えられる。」(小和田哲男Ⅰ、p87~88)としています。

 

 上記のように、秀吉軍の賤ケ岳の戦いにおける勝利を決定づけたのが「美濃大返し」でした。この「美濃大返し」を実現するために、石田三成兵站奉行の果たした役割は極めて大きかったといえます。

 

 ちなみに、賤ケ岳の戦いの際には、石田三成も秀吉の「先懸衆」として突撃していったという記録が『一柳家記』に残っています。

⑤■「『一柳家記』には、賤ケ岳合戦当日、秀吉側の「先懸衆」として柴田軍に突撃した将兵十四人の名前が見えるが、その中に三成の名も含まれている。」(森岡榮一、p94)⑤

 

 

 この時期の石田三成は、上記のように秀吉の側近として

1.戦功の恩賞の取次ぎ・差配

2.上杉家との外交

3.諜報活動

4.兵站奉行

などの重責を担っており、この頃から秀吉家中で枢要の任務についていたことが分かります。この中で2.の上杉家との外交が最も重い継続した任務といえるでしょう。この三成と上杉家の深い関係は、秀吉の死去死後も続きます。

 当時の三成のはたらきを見ていくと⑧に見たとおり、三成が24歳にして『宇野主水日記』に「筑州家中出頭面々」として扱われているのも、ある意味当然のこととえいえるでしょう。

⑧七月四日 ■『宇野主水(本願寺門主顕如に仕えた右筆)日記』の七月四日条に、石田三成の記述がみられる。この年の七月からはじまる『宇野主水日記』には、「筑州家中出頭面々」として、杉原家次・浅野長吉(長政)・増田長盛羽柴秀長堀秀政・蜂屋頼隆・津田信張に並んで石田左吉の名が上がる。(中野等、p8~9)この三成24歳の頃より、三成が秀吉家中で既に枢要の任務についていたことが分かります。

 

 参考文献

小和田哲男Ⅰ『石田三成「知の参謀」の実像』PHP新書、1997年

小和田哲男Ⅱ『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

笹本正治ミネルヴァ日本評伝選 真田氏三代 -真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

森岡榮一・太田浩司「Ⅰ石田三成の生涯-その出自と業績」(谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成戎光祥出版、2017年)