古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正十(1582)年(1~23歳) 

石田三成関係略年表② 天正十一(1583)年 三成24歳-賤ケ岳の戦い 

石田三成関係略年表④ 天正十三(1585)年 三成26歳-紀州攻め、「治部少輔」三成、真田家との取次 

 

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石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事) 

 

一月 ★秀吉、「近江の坂本まで出てきて、信雄と三井寺で会見」(小和田哲男、p122)する。

三月六日 ★「織田信雄が親秀吉派の重臣・津田雄光ら(筆者注:津田雄光・岡田重孝・浅井長時)を殺害する。その後、徳川家康とともに挙兵する(小牧・長久手の戦い開始。)(柴裕之、p185)(柴裕之、p78)

三月七日 ★織田信雄、土佐の香宗我部親泰(長宗我部元親家臣)に書状を送る。秀吉方についた家臣を成敗した内容が書かれている。(小和田哲男、p123)

三月十三日 ★徳川家康尾張清須城に着き、信雄と対面。作戦会議を開き、陣城の構築を指示する。(柴裕之、p80)(小和田哲男、p123)

三月十三日 ★秀吉方の池田恒興尾張犬山城を攻略。(小和田哲男、p129)

((柴裕之、p80)では、三月十四日になっています。)

三月十四日 ★秀吉方の蒲生氏郷堀秀政、伊勢の信雄方の峰城を攻略。(小和田哲男、p130)

三月十五日 ★森長可池田恒興の女婿)、兼山城を出る。(小和田哲男、p130~131)

三月十五日 ★家康家臣の酒井忠次小牧山に本陣を置く。(小和田哲男、p131)

三月十五日 ★「毛利氏の使僧であった安国寺恵瓊は(一五三七?-一六〇〇)は、秀吉の命を受けて豊後大友氏のもとに使者として赴き、島津義久にも書状を出して、秀吉と毛利氏の和睦が成立したことを伝え、秀吉が鷹を所望していることを伝えている(旧)。この時点で毛利氏が豊臣政権に取り込まれたこと、そして安国寺を介して秀吉と大友氏が繋がったことを、義久に正式に知らされたのである。

 なお、この時大友宗麟は、安国寺恵瓊に対して、秀吉に天下三肩衝のひとつ「新田肩衝」と天下の四茄子茶入のひとつ「似たり茄子」(百貫茄子)を献上している(尾下成敏二〇一〇年)。」(新名一仁、p195)

三月十六日 ★秀吉の弟、秀長、伊勢松ヶ島城を攻める。(小和田哲男、p130)

三月十六日 ★森長可、兵3000で、犬山城の南の羽黒近く八幡林のあたりまで出てくる。(小和田哲男、p131)

三月十七日 ★酒井忠次松平家忠・奥平信昌ら5000の兵を率いて、八幡林の長可を急襲。長可は羽黒に退いたが、そこでさらに攻撃を受け敗走した(羽黒の戦い)。(小和田哲男、p131)

三月十九日 ★秀吉の弟、秀長によって、伊勢松ヶ島城が開城。(小和田哲男、p124)

三月二十日 ★佐竹義重、「秀吉へ「遠境候共無二可申議候」と同盟の再確認の意思を述べ(「紀伊風土記」『大日本史』11-14、八〇頁)、黄金二〇両を進呈する」(立花京子、p235)

三月二十一日 ★羽黒の戦いの敗報を聞いた秀吉、大軍を率いて大坂城を出発。(小和田哲男、p132)((柴裕之、p80)では、三月十日となっています。)

三月二十二日 ★反秀吉方である根来・雑賀衆が秀吉出陣の報を聞き、動き出す。岸和田ではげしい戦いがくり広げられる。(小和田哲男、p133)

三月二十四日 ★粂田で根来・雑賀衆と秀吉方の合戦。(小和田哲男、p134)

三月二十四日 ★島津・有馬連合軍、沖田畷の戦いで龍造寺軍を破る。龍造寺隆信戦死。(新名仁、p140~142)

三月二十四日 ★秀吉、岐阜に到着。(小和田哲男、p132)

三月二十五日 ★家康、下野の皆川広照に秀吉を糾弾する書状を送る。この書状には、羽黒の戦いの勝利が喧伝されている。(小和田哲男、p123)

三月二十六日 ★根来・雑賀衆が大坂まで攻め入り、大坂が大混乱となる。その後、大坂を守る中村一氏蜂須賀家政黒田長政宇喜多秀家勢が反撃に転じ、追い戻すことに成功した。(小和田哲男、p134)

三月二十六日頃 徳川方だった信濃木曽義昌が羽柴方に転じる。(平山優、p118)

三月二十六日 「秀吉は佐竹義重に書を送って、伊勢・伊賀を平定し、犬山城をぬき、明日、清須に家康を攻めるので、もし家康が出てくるにおいては、一戦をとげ、討ち果たすべしなどと広言している。もっとも、秀吉が言いたかったのは、木曽義昌上杉景勝の両名は、秀吉に対し無二の入魂であるので、この二人に連絡の上、家康征伐に動くことが肝要である、というところにあったはずである。景勝・義重らを動かして、はるかに、家康の背後を討たせようとするのであった。」(児玉彰三郎、p69)

三月二十七日 ★秀吉、犬山城に到着。陣城の構築を指示。(小和田哲男、p132)(柴裕之、p80)

三月二十八日 ★秀吉、家康の本陣である小牧山の東わずか約2.2キロの楽田を本陣とし、家康と対峙。(小和田哲男、p132)

三月 ■「景勝は、秀吉の使者として舟岡源左衛門尉を上洛させて修好を深めているが、この際にも三成が木村吉清・増田長盛とともに応接している。」(中野等、p22)①

四月二日 ★四月二日付で信雄が家臣の吉村氏吉に与えた文書に、雑賀勢が二万丁の鉄砲を装備して大坂を攻め「勝利」したことが書かれている。(小和田哲男、p134)

四月六日 ★三好信吉(羽柴秀次)、池田恒興・元助、森長可堀秀政ら率いる1万6千の軍が三河へ向けて進軍。(小和田哲男、p137)((柴裕之、p80)では2万4千となっています。)

四月八日 ★三好信吉らの軍勢は、徳川方の尾張岩崎城を攻略。(柴裕之、p80~82)

四月九日 ★「長久手の戦いが起こり、(筆者注:秀吉軍が)徳川家康の軍勢に破れ、羽柴方の池田恒興森長可らが戦死する。」(柴裕之、p185)(小和田哲男、p139)  「

四月二十日 ■「『宇野主水日記』天正十二年四月二十日条から確認されるように。三成や増田長盛らも秀吉の陣所(尾張国犬山)にあったが、先の陣立書には名前を確認することができない。三成や長盛のつとめは秀吉に近侍することであり、軍勢を率いて戦闘にあたる立場にはなかったからであろう。」(中野等、p23)②

四月二十三日 ★北条氏直から家康宛に長久手の戦勝を祝う書状が送られている。(小和田哲男、p138~139)

五月一日 ★秀吉、楽田から撤退。ただし、一部の軍が撤退しただけであり、主力部隊はそのまま残ったため、にらみ合いはなお続いた。(小和田哲男、p140)

五月四日 ★秀吉、細川忠興を先鋒の将として加賀井重宗の守る美濃加賀井城(信雄の支城)を攻め、これを落とす。(小和田哲男、p141)

五月六日 ★秀吉、不破広綱の守る美濃竹ヶ鼻城(信雄の支城)を攻める(小和田哲男、p141)

五月十一日 ★竹ヶ鼻城攻めを水攻めにきりかえる。(小和田哲男、p141)

五月 ★「北国越中では、佐々成政が信雄・家康に呼応する動きを開始し、五月には上杉景勝との連携を模索する。秀吉方の前田利家上杉景勝にはさまれたままでは、思うままに動くことができないと、成政は判断したのであろう。」(中野等、p23)㋐

五月から七月 沼尻合戦。(佐竹・宇都宮・佐野氏らの北関東の反北条勢力と北条氏との戦い。「この合戦は紆余曲折の末、北条軍が戦局を優位に進めたうえで和睦している。」(平山優、p111)しかし、この沼尻の長陣は、北条氏を関東に釘付けにさせる重大な影響を及ぼしました。

六月四日 ★秀吉、佐竹義重に「書を送り、景勝・義昌は秀吉と入魂であるので、安心して北条氏直を攻略すべきことをすすめている。」(児玉彰三郎、p69)

六月十日  ★竹ヶ鼻城の不破広綱、秀吉に降伏。(小和田哲男、p142)

六月十一日 ★「上杉景勝は、成政の誘いに応じなかったが、こうした事態をうけて、秀吉は景勝に対し、証人(人質)の上洛要請を要求する。成政の動きを警戒せざるをえず、秀吉は景勝の去就を確かめる必要があった。六月に景勝は一門の上条政繁上杉謙信の養子。当時は入道して「宜順」と号していた)の子義真を自らの養子に迎え、秀吉の許へ送った。」(中野等、p23)㋑「六月十一日、景勝は証人を上方へ差し登すについて、上条宜順の軍役ならびに諸役を停止した。」(児玉彰三郎、p70)

六月十二日 ★家康、秀吉が大坂に戻り始めたことを受け、小牧山酒井忠次に任せ、自らは清須城に入る。(小和田哲男、p142)(柴裕之、p82)家康、羽柴方となった滝川一益尾張蟹江城を攻撃。(柴裕之、p82)

六月十三日 ★秀吉、岐阜城に立ち寄る。(小和田哲男、p142)

六月二十日 ★東義久(佐竹一門)は、秀吉宛書状に佐竹義宣北条氏直の長陣に勝負を決する所存を秀吉に報告している。(立花京子、p236)「北条氏軍を小牧・長久手の戦いでの家康救援に向かうことを阻止していたのは、まさしく秀吉・北関東同盟の効力によるものであった。」(立花京子、p236)

六月二十八日 ★秀吉、大阪城に戻る。(小和田哲男、p142)

七月三日 ★家康、尾張蟹江城の滝川一益を降伏させた。(柴裕之、p82)

この頃 ★「家康は同盟関係にある相模北条氏に援兵の派遣を求めた。だが北条氏は、秀吉に従う常陸佐竹氏をはじめとした北関東の大名や国衆と下野国沼尻(栃木県栃木市)で対峙しつづけ、援軍の派遣は果たせずにいた。」(柴裕之、p82)

七月七日 信濃小県郡室賀正武、家康の命により密かに真田昌幸暗殺をはかろうとするが、発覚して逆に暗殺される。(平山優、p147~148)

七月八日 東義久・梶原政景(佐竹家臣)宛ての秀吉書状では、秀吉は「対信雄・家康戦が優勢のうちに推移していることを詳述している。」(立花京子、p236)

七月十一日 ■上杉景勝からの証人(人質)である義真の上洛を受け、一旦尾張から帰陣していた秀吉は、七月十一日付で景勝宛に証人の上洛を告げる書状を発する。(中野等、p24)「同日付で三成・木村吉清・増田長盛の三名も直江兼続(山城守)に充てた連署状を送り、秀吉が証人の上着をことのほか喜んでいることを告げている。」③(中野等、p24)

八月十六日 ★秀吉、ふたたび大軍を率いて大坂城を出発、尾張に向かう。(小和田哲男、p142)((柴裕之、p82)では八月二十六日になっています。)

八月十八日 ★「秀吉は、上杉景勝に「貴慮之御手柄故、彼凶徒即時ニ如此之段、御勇武不申足候」と述べて、上杉氏が上州境目まで兵を出したことにより、佐竹・北条対戦の長陣に決着がついたことを深謝している(中略)さらに、将来行うであろう出馬について秀吉は、「併御方申談東国於令発向者、彼滅亡不可廻踵候条、可被任御存分儀眼前候事」と述べて、それが北条氏の望む上杉氏の意に沿うであろうことも告げている。佐竹氏も北条氏の北関東侵攻対策として、景勝の援助を依頼していた。」)(立花京子、p236)㋒

八月二十六日 ★八月二十六日付で家康が郷村からの百姓に対する総動員命令書が発せられている。(小和田哲男、p143)

八月二十七日 ★秀吉は、遅くとも八月二十七日には楽田に入っている。(小和田哲男、p142)

八月二十八日 ★秀吉、陣地を楽田から「こほり筋」に移した。家康も清須から出陣し、岩倉城に入る。(小和田哲男、p144)

八月 秀吉が美濃の駒野城を攻めたときの陣立て注文の鉄砲衆に、鈴木孫一雑賀衆の中心メンバーの一人)の名前がある。(小和田哲男、p134)

九月二日、六日 ★双方の停戦の交渉が行われた。(小和田哲男、p144)

九月七日 ★停戦の交渉が打ち切られた。家康は重吉に本陣を映している。(小和田哲男、p144)

九月九日 ★佐々成政は前田方の末森城を攻めるが、上杉・前田の軍勢に挟撃されて、結局は苦戦を強いられることになる。」(中野等、p24)㋓(児玉彰三郎、p72)

九月十五日 ★秀吉、蒲生氏郷に命じ信雄家臣の木造氏の守る伊勢戸木城を攻めさせ、これを陥落させる。(小和田哲男、p145~146)

九月 ★「足利義昭毛利輝元は、天正十二年(一五八四)九月の時点で、島津義久に出陣を求め、龍造寺・秋月氏と共に大友氏包囲網を築こうとしていた。」(新名一仁、p194)

九月 ★「秀吉からの所望により、大友家の家宝「吉光骨啄刀(よしみつほねはみとう)」(粟田口吉光の作刀と伝えられる名刀)も(筆者注:大友宗麟より秀吉へ)献上されている(大友家文書)。」(新名一仁、p195)

十月二日 ★秀吉、はじめて叙爵され、従五位下・左近英衛権少将に任じられた。(小和田哲男、p148)

十月~十一月 ★「織田信雄の領国である南伊勢を攻略し、さらに信雄居城の伊勢長島城の近辺の桑名に進軍する。」(柴裕之、p185)

十一月六日 ★秀吉、信雄の居城・伊勢長嶋城の近辺にまで進軍。(柴裕之、p83)

十一月十二日 ★秀吉、「織田信雄と講和する。(実質的には信雄の降伏承認。)直後に家康とも講和し帰国する(小牧・長久手の戦い終結。)」(柴裕之、p185)((小和田哲男、p147)(児玉彰三郎、p73)では、十一月十五日となっている。)

十一月十六日 ★家康も秀吉との講和に応じた。(小和田哲男、p147)「家康は、二男の於義丸を秀吉に差し出している。これは、名目上は養子という形をとっているが実質は人質である。」(小和田哲男、p147)((中野等、p25)では、十二月となっています。これは、実際に降伏の証として、家康が息子の秀康を送り出したのが十二月十二日(跡部信、p211)であることによることによると思われます。)

十一月二十七日 ■「十一月二十七日の日付をもつ「江州蒲生郡今在家村検地帳に尼子六郎左衛門・石田左吉・宮木長次・豊田竜介・森浜吉と署名が残っており、」(中野等、p25)この時期、三成が近江国内の検地に関わっていたことが分かります。(中野等、p25)④

十一月末 ★佐々成政越中より雪深い峠を越え、家康のいる浜松を目指す。(児玉彰三郎、p73)

十一月二十八日 ★秀吉、「従三位権大納言となり、官位でも(筆者注:当時、正五位左近衛中将にあった)織田信雄を凌駕する。」(柴裕之、p185)(柴裕之、p84)((小和田哲男、p148)では、十一月二十二日となっています。)((中野等、p24)では、十月となっています。)

十二月十二日 ★家康、息子の義伊(秀康)を浜松から秀吉の許へ送り出す。(跡部信、p211)

十二月十五日 ★秀吉、上杉景勝家臣の須田満親に「書を与え、このたびの佐々成政の反逆にさいし、速やかに景勝が出馬し、堺城を攻略した功績は比類ないものであるともちあげ、尾勢では、信雄・家康の懇望により、和議を結んだことを伝え、いずれも、人質として実子をとっておいたと報じている。」(児玉彰三郎、p73)㋔

十二月二十五日 ★佐々成政、浜松で家康と面会、再挙を促すも家康に断られる。(児玉彰三郎、p73)

十二月二十六日 ★義伊(秀康)、大坂に到着する。(跡部信、p211)

 

コメント

 天正十二(1584)年(三成25歳の頃)は、小牧・長久手の戦いに代表される、羽柴秀吉織田信雄徳川家康との戦いが起こった年です。

小牧・長久手の戦いは、三月六日に織田信雄が親秀吉派の重臣・津田雄光らを殺害し、徳川家康とともに挙兵したことから始まり、十一月十二日(十五日)に織田信雄が秀吉に事実上降伏することにより終わりました。

この戦いは、ただ秀吉派と信雄・家康派の戦いであるにとどまらず、周囲の大名もいずれかの陣営について戦い、関ケ原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」とみられるような大規模な戦役でした。(藤田達生、p1)この二派を分けると以下のようになります。

 

羽柴秀吉

羽柴秀吉畿内・中国地方)、毛利輝元(中国地方)、宇喜多秀家備前・美作)、筒井順慶(大和)、細川忠興(丹後)、丹羽長秀(越前・加賀)、堀秀政(近江)、前田利家(加賀・能登)、池田恒興(美濃)、木曽義昌信濃)、上杉景勝(越後)、佐竹義重常陸)等

 

織田信雄徳川家康

織田信雄尾張・伊勢・伊賀)、徳川家康(甲斐・駿河遠江三河信濃)、長宗我部元親四国地方)、雑賀・根来衆等(紀伊)、佐々成政越中)、小笠原貞慶信濃)、北条氏政(関東地方)等

 

 四月九日の長久手の戦いの徳川の勝利がクローズアップされることが多い小牧・長久手戦役ですが、長久手の戦いは緒戦における局地戦にすぎず、自らの要の城をいくつも秀吉に落された織田信雄は最終的に降伏を余儀なくされ、徳川家康も人質(息子の秀康)を秀吉の許に送って講和するより他ありませんでした。結局、全体の戦いとして勝利したのは秀吉だったといえます。しかし、この時点でなぜここで秀吉は信雄・家康を完全に滅ぼす選択を選ばず、講和による限定的勝利でおさめることにしたのでしょうか。

 それは、信雄・家康だけでなく、長宗我部、雑賀・根来衆、佐々、北条等の信雄・家康に与する諸侯が各地で秀吉派を脅かしており、軍を一方面に集中させておくのも危険が高く、また多方面に向けて同時に軍を分派して長時間派遣するのも消耗も激しかったためだと考えられます。このため、秀吉は信雄・家康と秀吉に有利な条件で一旦講和を結んだ後、信雄・家康に与していた各地の勢力を個別撃破していく作戦に切り換えたと考えられます。この秀吉の作戦は翌年(天正十三(1585)年)から展開されることになります。

 

 外交戦において、秀吉は特に徳川・北条同盟に対抗するために、上杉及び佐竹等北関東諸侯との同盟を強化し、上杉及び佐竹等北関東諸侯に徳川・北条の背後を突かせるよう工作を行うことになります。佐竹等北関東諸侯と沼尻で長陣を余儀なくされ、上杉の出兵も警戒しなければならなくなった北条は、徳川の救援を向かうことを阻止されることになります。また、立花京子氏は「この時点で北条氏は秀吉にとってすでに「凶徒」であったことに注意すべきである。」(立花京子、p236~237)としています。

 

 この年の小牧・長久手の戦いの頃、石田三成は、以下にあるように秀吉の陣所にあり、秀吉に近侍していました。

四月二十日 ■「『宇野主水日記』天正十二年四月二十日条から確認されるように。三成や増田長盛らも秀吉の陣所(尾張国犬山)にあったが、先の陣立書には名前を確認することができない。三成や長盛のつとめは秀吉に近侍することであり、軍勢を率いて戦闘にあたる立場にはなかったからであろう。」(中野等、p23)②

 

 しかし、以下の記述にあるように「十月の後半以降は、秀吉自身が北伊勢の各地を移動しており、三成も行動を共にしていたわけではなさそうである」(中野等、p25)ようです。

 

十一月二十七日 ■「十一月二十七日の日付をもつ「江州蒲生郡今在家村検地帳に尼子六郎左衛門・石田左吉・宮木長次・豊田竜介・森浜吉と署名が残っており、」(中野等、p25)とあるように、この時期、三成が近江国内の検地に関わっていたことが分かります。(中野等、p25)④

 

 この年に石田三成が秀吉家臣として果たした重要な役割として、上杉との同盟強化があります。

 以前より主に対柴田勝家対策として上杉家との同盟を進めてきた秀吉ですが、この年の五月に織田信雄徳川家康派についた越中佐々成政が、同じ頃上杉家にも織田・徳川派につくようにはたらきかけており、秀吉としては上杉家がどちらの派につくのか、去就をはっきりさせる必要がありました。前年(天正十一(1583)年より、上杉の取次を務めていた増田長盛・木村吉清・石田三成ですが、この年(天正十二(1584)年)、上杉の証人(人質)として景勝の甥(養子)の義真を上洛させることで、羽柴家・上杉家の同盟を強化し、上杉家を織田・徳川・北条派に対抗させることに成功しました。

 これにより、関東の北条氏政・氏直は上杉及び佐竹等北関東諸侯と対峙せねばならず、徳川の援兵に動くことができなくなりました。また、越中佐々成政上杉景勝前田利家に東西から挟まれ苦戦を余儀なくされることになります。

 以下にこの年に行った羽柴家と上杉家との交渉の経過と、上杉景勝らの動向について年表より抜粋します。

 

三月 ■「景勝は、秀吉の使者として舟岡源左衛門尉を上洛させて修好を深めているが、この際にも三成が木村吉清・増田長盛とともに応接している。」(中野等、p22)①

 

五月 ★「北国越中では、佐々成政が信雄・家康に呼応する動きを開始し、五月には上杉景勝との連携を模索する。秀吉方の前田利家上杉景勝にはさまれたままでは、思うままに動くことができないと、成政は判断したのであろう。」(中野等、p23)㋐

 

六月十一日 ★「上杉景勝は、成政の誘いに応じなかったが、こうした事態をうけて、秀吉は景勝に対し、証人(人質)の上洛要請を要求する。成政の動きを警戒せざるをえず、秀吉は景勝の去就を確かめる必要があった。六月に景勝は一門の上条政繁上杉謙信の養子。当時は入道して「宜順」と号していた)の子義真を自らの養子に迎え、秀吉の許へ送った。」(中野等、p23)㋑

 

七月十一日 ■上杉景勝からの証人(人質)である義真の上洛を受け、一旦尾張から帰陣していた秀吉は、七月十一日付で景勝宛に証人の上洛を告げる書状を発する。(中野等、p24)「同日付で三成・木村吉清・増田長盛の三名も直江兼続(山城守)に充てた連署状を送り、秀吉が証人の上着をことのほか喜んでいることを告げている。」(中野等、p24)③

 

八月十八日 ★「秀吉は、上杉景勝に「貴慮之御手柄故、彼凶徒即時ニ如此之段、御勇武不申足候」と述べて、上杉氏が上州境目まで兵を出したことにより、佐竹・北条対戦の長陣に決着がついたことを深謝している(中略)さらに、将来行うであろう出馬について秀吉は、「併御方申談東国於令発向者、彼滅亡不可廻踵候条、可被任御存分儀眼前候事」と述べて、それが北条氏の望む上杉氏の意に沿うであろうことも告げている。佐竹氏も北条氏の北関東侵攻対策として、景勝の援助を依頼していた。」)(立花京子、p236)㋒

 

九月九日 ★佐々成政は前田方の末森城を攻めるが、上杉・前田の軍勢に挟撃されて、結局は苦戦を強いられることになる。」(中野等、p24)㋓

 

十二月十五日 ★秀吉、上杉景勝家臣の須田満親に「書を与え、このたびの佐々成政の反逆にさいし、速やかに景勝が出馬し、堺城を攻略した功績は比類ないものであるともちあげ、尾勢では、信雄・家康の懇望により、和議を結んだことを伝え、いずれも、人質として実子をとっておいたと報じている。」(児玉彰三郎、p73)㋔

 

※ 参考エントリー↓

考察・関ヶ原の合戦 其の三 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交①三成、外交官デビュー 

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

藤田達生「はじめに」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

立花京子「乱世から静謐へ-秀吉権力の東国政策を中心として-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年