古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第15章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(1)

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☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

1.石田三成伊達政宗との関わりについて

 石田三成伊達政宗との関わりについて、以下について書きます。

 なんか、対徳川家康と同じパターン(石田三成徳川家康との関わりは「「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」」参照)になってしまいますが、三成は東国政策で豊臣政権が関東の北条家と対立していた頃から、北条家に対抗するために佐竹家・芦名家等の北関東・南陸奥諸侯と同盟交渉を行っていたので、それら北関東・南陸奥諸侯と敵対していた伊達政宗は、自動的に対抗すべき敵になってしまった訳です。

 だから、石田三成伊達政宗を「敵視」していたという訳ではありません。「敵視」ではなくて、当時伊達政宗は明確に豊臣の「敵」だったということです。

 小田原陣の時に伊達政宗は、遅れたものの小田原に参陣して許されます。その後は伊達家は豊臣家に臣従する訳ですので、もはや豊臣の「敵」ではないし、当然三成の「敵」ではありません。敵ではないのだから「敵視」もしないことになります。

 天正十九(1591)年九月、伊達政宗一揆を起こした大崎・葛西の旧領への転封を命じられます。この転封は、政宗が大崎・葛西一揆に加担した疑いをかけられた事による懲罰的な意味合いが含まれたものでした。居城の移転をしなければいけない政宗を三成は気遣い、移転について積極的な協力を申し出ます。

 詳細については、以下のエントリー参照。↓

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 豊臣秀次事件が起こった時に、伊達政宗が急便を送らせ頼ったのも石田三成でした。この書状を受け、三成は「預飛札本望二存候」と返しています。

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 慶長三(1598)年七月一日付の石田三成伊達政宗書状には、「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」とあり、三成と政宗は親密な関係にあったことが分かります。

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 また、伊達政宗石田三成といえば、慶長四(1599)年二月九日に大坂屋敷で行われたワインパーティの話が有名です。

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 伊達政宗石田三成との親密な関係を長々と紹介しましたが、何を言いたいかというと、つまり豊臣臣従後の伊達政宗石田三成が「敵視」したというのは、端的に言って誤りだということです。

 誤りであるにも関わらず、いまだに「豊臣臣従後の伊達政宗石田三成が「敵視」していた」という誤説がでてくるかについて、以下に考察してみたいと思います。

 

2.『センゴク権兵衛㉒』における伊達政宗石田三成描写の感想

 

 なぜ、上記のような文章を書いているかというと、先程読了した『センゴク権兵衛㉒』が、まさにこの誤説を前提とした物語の展開をしており、更になぜこのような「誤説」が流布されたのかの手がかりも与えてくれているからです。以下に記述します。

 

 宮下英樹氏の『センゴク権兵衛㉒』に、伊達政宗石田三成を警戒・敵視した描写が描かれています。以下、引用します。

 

前置きとして 政宗は奉行衆の とりわけ「石田三成」を警戒していた

 豊臣政権の秩序を求める〝一途之仁〟たる三成は「中央集権」を志向し

 一方 野心を秘める政宗は「※戦国大名的独立」を志向する。

  ※地方分権の意。

是は両儀相容れない価値観であった・・・・」

 

②「書状に拠らば

先度の「小田原の陣の頃」

【富田一白から政宗への書状】

「若し又御遅延に至りては一途之仁、御代官として指上せらる」

秀吉への平伏が遅れるなら強硬者(三成)を送るので覚悟せよ-と政宗は脅され」

 

③「「奥州叛乱」の頃にては

政宗書状】

石田治部少輔下向之由候間廿一日此方へ可相立候」

政宗は三成が来ると聞いて 急遽 一揆鎮圧を※六日早め 豊臣への忠誠を示している

※27日予定→21出立」

 

④「そして此度の「上洛」

政宗書状】

「我等不図罷登二付而 治少輔(三成)も 御登ときこえ申候 但いかゝ(いかが)いかゝ」

我らの上洛につき 三成も上洛とはいかがなもの- と政宗は苦言を呈す」(番号は筆者、宮下英樹センゴク権兵衛㉒』講談社ヤンマガKC)、2021年)

 

 上記の個所についてのコメントを述べます。

 

①「前置きとして 政宗は奉行衆の とりわけ「石田三成」を警戒していた

 豊臣政権の秩序を求める〝一途之仁〟たる三成は「中央集権」を志向し

 一方 野心を秘める政宗は「※戦国大名的独立」を志向する。

  ※地方分権の意。

是は両儀相容れない価値観であった・・・・」

 

 三成ら奉行衆を「中央集権」派とし、伊達政宗及び親伊達派(徳川家康前田利家浅野長政)らを「地方分権」派とする区分けは、当時の呼称として不正確なものであるだけでなく、以下に述べるように、この区分分けそのものが不正確であり誤解を招くものです。

 

 織豊・徳川時代には「中央集権」国家は存在しませんし、それを目指した派閥(「中央集権」派等)も存在しません。織豊・徳川時代の国家は「封建国家」です。封建国家とは、大名・諸侯が地方権力の領主としてその地方を支配する権限を与えられ、中央政権はその地方領主連合の長としての存在でしかない国家のことです。織田・豊臣・徳川時代(それ以前の鎌倉・室町時代も含め)を通じて、日本は「封建国家」であり、「中央集権」国家が形成されたことも、またそれが目指されていたこともありません。

「中央集権」国家とは、地方の統治には中央政権から「知事」等が派遣され、「知事」には地方領主としての権力はなく、ただ中央政権から統治のみを任され派遣された役人・官職に過ぎないという体制のことです。(その官職も任期が終われば終了であり、世襲されることもありません。)

 

 では、豊臣政権が目指したものは何だったのか?これは、「考察・関ヶ原の合戦 其の二十 太閤検地とは何か? 」で書いたとおり、(中央集権国家ではなく)「大名集権」国家です。

 戦国時代において、戦国大名の領地の統治権力は強いものではなく、実質戦国大名は支配領域の国衆・小領主の盟主的存在にすぎませんでした。このような、国衆・小領主は大名の家臣といっても独立性が高く(このため、純粋な「家臣」とは言えないのかもしれません)、大名に不満を持てば、機会を見て反抗・反逆しますし、大名同士で戦争が起こり、これはもう負けそうだと見ると、雪崩をうって大名を裏切り見捨てるような存在です。

 こうした支配力の弱い大名の支配体制では、ふとした不満や遺恨がきっかけで、すぐに大名家内部での御家騒動に発展し、争乱になってしまいます。武士は、皆武装した軍事集団ですので、武家の「御家騒動」とはすなわち「戦」という事です。

 これでは、豊臣公議が目指す「惣無事」にもなりませんし、「天下静謐」にもなりません。天下を静謐にするには、大名がその支配領域では家臣団とは隔絶した強大な権力を持ち、家臣が大名に逆らうことのないように上から統制し、「御家騒動一揆=内戦」などが行われることがないようにしないといけません。

 このため、豊臣政権は「惣無事」政策として、太閤検地を推進して大名権力の強化(「大名集権」)をはかることになります。

 

 秀吉の指令により、この「大名集権」政策を推進したのが、石田三成ら「奉行衆」です。(当然、この中には「奉行衆」である浅野長政も含まれます。)これは当然主君である秀吉の命令で行っていることです。彼らは秀吉の命令で政策を行っている訳ですから、たとえば、豊臣政権内に「中央集権派(この呼称自体が間違いですが)」と「地方分権」派があり、この相容れぬ二派の頂点に君主秀吉がいるという政権構図は明らかな間違いです。豊臣秀吉は、政権運営において自らの明確な政策の意思を持ちその実現を強力にはかっていく「独裁型君主」であり、日本ではよくあるような、部下の「〇〇派」と「〇〇派」のバランス・調整をとることで政権をコントロールするような「調整型君主」ではありません。

 秀吉をこのような「調整型君主」と誤解してしまうと、豊臣政権そのものを誤って理解してしまう危険性があります。

 秀吉その人が「大名集権」政策の推進者であり、奉行衆は秀吉の命令に従って動いているにすぎませんので、「中央集権派(大名集権派?)」なる派閥自体が存在しません。

 あえて区分しないと気が済まないなら、「豊臣政権」と「地方大名(伊達・徳川・前田他)」との対立・調整ということになるでしょうか。地方大名は独自の地方権力を持っている訳ですから、それを中央政権(豊臣政権)から干渉されれば、反発することは当然ありうることです。ただし、その地方大名への干渉をしているのは豊臣政権の独裁者である秀吉本人な訳であり、豊臣政権内には派閥対立は存在しない訳です。

 

 地方大名たる伊達政宗は、実際には、このような秀吉の「大名集権」政策に反発し、近世的大名(「大名集権」を果たした大名)に脱皮することを拒否し、「中世的大名=国衆連合の長程度の権力の大名」に留まりたいのが本音だったのかもしれませんが、豊臣政権の傘下の大名になるということは、「近世的大名」に脱皮せよというのが秀吉の指令だった訳であり、この指令に耐えられない大名は、秀吉から「大名失格」とみなされ、改易されても仕方ない過酷な指令といえました。

 

 つまり、秀吉の伊達政宗をはじめ傘下の大名に対して「改易するか」か「取り立てる」かの基準は、「中世的大名(国衆連合の長)」から「近世的大名(家臣・国衆を統制して、一揆・反乱などを起こさせない強力な大名)」に脱皮できるかを、判断基準としている訳です。

 秀吉が、伊達政宗一揆の起こった(政宗自身が扇動したと疑われる)旧大崎・葛西領へ転封したのも、「自分の支配地域で、一揆など起こさせない強力な近世的大名に脱皮せよ」と政宗に課題を押し付けた訳で、この課題を解決する能力がないと秀吉がみなせば、政宗は秀吉によって改易のうきめにあうことになります。

政宗が上洛した、親伊達派の取り成しによって許された、あるいは政宗が秀吉のお気に入りなので許された」、等により政宗が許された、といった単純な話ではなく、秀吉は政宗に「テスト」を仕掛けているのであり、政宗に対する「テスト」は政宗上洛後もずっと続いている訳です。

 また、はじめから秀吉は政宗を「テスト」にかけるつもりだったので、政宗を許すのはそもそも秀吉政権(石田三成ら奉行衆も含む)にとっても既定事項であり、これに秀吉の配下である奉行衆が反発することもありえません。

 

 政宗が、この秀吉の「大名集権」政策に反発し続けるならば、「是は両儀相容れない価値観であった」ことになり、結果伊達家は改易ということになりますが、これは政宗「秀吉と相容れない」結果ということになります。(「三成ら奉行衆と相容れない」ということではありません。)実際には、伊達家は豊臣政権から改易されなかった史実をみれば、秀吉による伊達政宗へのテストの採点は一応「及第点」だったのでしょう。

 (2)に続きます。((2)は以下です。↓)

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 参考文献

宮下英樹センゴク権兵衛㉒』講談社ヤンマガKC)、2021年