古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表④ 天正十三(1585)年 三成26歳-紀州攻め、「治部少輔」三成、真田家との取次

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正十(1582)年(1~23歳) 

石田三成関係略年表② 天正十一(1583)年 三成24歳-賤ケ岳の戦い 

石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い 

 

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)

 

正月 ★「安芸毛利氏との中国地方の領土配分(国分)が確定する。」(柴裕之、p185)

一月七日 ★この頃、羽柴秀勝(秀吉の養子、織田信長の五男)と毛利輝元養女が婚姻したとみられる。(毛利の人質となっていた小早川秀包が、この婚姻と入れ替わりのように一時帰国をゆるされているとされる。)(跡部信、p219)

二月二十二日 ★「織田信雄が摂津大坂城の秀吉の元へ出頭し、臣従を明確化させる。」(柴裕之、p185)

三月一日 ★秀吉、「信雄を従三位大納言(同年中に正三位に昇進)に推挙する。」(柴裕之、p84)

三月十日 ★秀吉、「正二位内大臣となり、初の参内を遂げる。」(柴裕之、p185)

三月二十日 ★ 秀吉、紀伊国への先勢を派遣。(柴裕之、p84)

三月二十一日 ★ 秀吉、紀伊国へ自ら出陣。(柴裕之、p84)

三月二十三日 ★秀吉、敵対する根来寺を攻撃・放火。(柴裕之、p84、p185)

三月二十四日 ★秀吉、雑賀へ軍を進め、その後雑賀一揆の討伐を進める。(柴裕之、p84、p185)同日、太田城を包囲。(小和田哲男、p162)

三月二十五日 ★秀吉、太田城の水攻めをはじめる。(三月二十八日説もあり)(小和田哲男、p163)

三月二十五日 ■「『宇野主水日記』の三月二十五日条の記事から、三成もこの(秀吉の紀伊攻めの)陣中にも従っていたことがわかる。」(中野等、p26)

三月二十七日 ★「北信濃福島城主須田信正が真田昌幸と通謀し叛逆を企てていたとして、海津城代上條宜順により成敗された。」(五月八日とも)(平山優、p150)

四月五日 ★太田城の堤防できあがる。(小和田哲男、p163)

四月十日 ★■高野山、秀吉に服従を示す。秀吉、四月十日付で高野山宛て朱印状を下す。(小和田哲男、p171)(柴裕之、p84)「高野山の木食応其は、根来寺金剛峯寺高野山)と秀吉との間の和解斡旋につとめており、高野山も応其を通じて秀吉に降伏を申し出る。木食応其は近江国の出身であり、こののち三成と親しく交わっていくこととなる。」(中野等、p26)

 また、白川亨氏は「そのとき(筆者注:高野山と秀吉との和解斡旋のときに)三成は深覚坊(筆者注:木食)応其のため関白秀吉の説得に努めている。深覚坊応其と三成の関係はそのときに始まったと考えられる。」(白川亨、p5~7)としています。

四月十三日 上杉景勝、「真田昌幸が小県尼ヶ淵に城を築いたのを攻めさせ、また島津義忠に更科郡虚空蔵山に城を築かせ、これを監せしめている。」(児玉彰三郎、p75)

→この四月十三日の時点では、真田昌幸は徳川の下で上杉景勝と戦っていたことが分かります。

四月二十二日 ★太田城開城(小和田哲男、p164)(柴裕之、p185)

四月二十五日 ■「四月二十五日、紀州太田城開城の折も、三成は太田の秀吉陣所にあった。『宇野主水日記』」(中野等、p26)

五月八日 ★上杉景勝、「高井郡福島城の須田信正が家康の働きかけにより、真田昌幸と通じて景勝に叛いたのを、上杉宜順に命じて成敗せしめなければならなかった。」(児玉彰三郎、p75)

五月二十五日 ★「山城青蓮院尊朝法親王が、秀吉の懇請により去年依頼長谷三位を遣わして調停しようとしていたが、五月二十五日、法親王はさらに越後本誓寺にその斡旋を依頼した。」(児玉彰三郎、p75)

六月十一日  ★「織田信雄徳川家康に書状を送り、①秀吉の越中出陣は間近に迫っているが、家康と成政が共謀しているとの情報が頻繁である、②その疑念を晴らすためにも家康重臣を二、三人人質として清州に出すことを勧める。③すでに於義伊(秀康)、石川勝千代(康勝)を差し出しているではないかと思われるだろうが、今回は格別であるので人質を差し出される方が賢明だ、秀吉も人質となる重臣と交換に於義伊と石川勝千代を岡崎に一度戻す用意がある、④秀吉出馬後、成政が家康の領国に逃げ込んでも匿わず秀吉に差し出すこと、などを勧告した(『大日』十一編十六-一〇五)。

 これは秀吉の意を織田信雄が伝えたものであろう。ここに織田氏は、完全に豊臣政権下の一大名に成り下がったことが確認できる。しかし、家康はこれを拒否したらしく、実現しなかった。だがこの勧告は家康が成政支援に動くことを秀吉が牽制したものであろう。事実、家康は成政支援のために動くことはなかった。」(平山優、p171)

六月~八月 ★秀吉、「弟の羽柴秀長を総大将として四国へ出兵させて土佐長宗我部氏勢力の攻略を進め」る。(柴裕之、p185)この四国攻めには毛利勢も参加しています。

六月十六日 ★秀長、三万の軍を率い、淡路島洲本に上陸。(この他合わせて全体で十万五千~十二万三千の兵。)(小和田哲男、p177~178)

六月二十五日 ★秀吉は、「六月二十五日に上杉景勝に書状を送り、佐々成政征伐の予定に変わりはないので、前田利家とよく相談しておくよう求めている。なおこの書状で秀吉は、上杉景勝北条氏政を攻撃するための「関東越山」を積極的に支持し、支援するつもりであると述べているのは注目される(『上越』三〇三七号)。秀吉は徳川・北条同盟を打倒すべき敵とみなしていたのである。」(平山優、p168)

七月十一日 ★秀吉、「近衛前久の猶子となったうえで、従一位関白となる。」(柴裕之、p185)

七月十三日 ■「歴名士代」には天正十三年七月十三日に、石田三成従五位下・治部少輔に任じられたことが記されている。(中野等、p28)

七月十五日 真田昌幸、徳川方から上杉方につき、秀吉とも誼を結ぼうとする。

→徳川と北条が同盟を結んだ際に北条は徳川に対して、真田が支配していた上野沼田の地を北条に与えよう要請しており、このため家康も当時徳川傘下となった真田に対して沼田領の割譲を強く要求していました。

 これまで徳川方について上杉と戦っていた真田でしたが、沼田割譲要求には替地の約束もなく、また、これまで昌幸が家康のために尽くしてきた戦功に対しても家康はなんら報いることはなかったため、こうした家康の真田に対する扱いを昌幸は不満に思い、徳川を見限って上杉方につくことになります。「正幸が景勝に異心なきを誓ったのに対して、七月十五日、景勝も誓書を与えて、その知行等を安堵せしめた。」(児玉彰三郎、p76)

 上杉景勝が昌幸に送った起請文の内容は、以下の内容でした。

「①再び上杉方に忠節を尽くすことになった以上は、何か手違いがあっても見捨てない、②敵(徳川・北条)が攻めてきたら、上田だけでなく沼田・吾妻領にも援軍を派遣する、③今後は何か密謀があるとの噂があっても、よく調査して関係継続につとめる、④信濃国の知行は海津城代須田満親より与える、⑤沼田・吾妻・小県郡と坂木庄内の知行は安堵する、⑥佐久郡と甲州のどこかで一ヵ所、上野国長野一跡(箕輪城とどその領域のこと)を与える、⑦屋代秀正の一跡を与える、⑧禰津昌綱の身上については昌幸が取りはからう(禰津氏の与力化)、などである。」(平山優、p151)

八月四日 ★越中佐々成政を攻撃する秀吉軍の先陣が出陣。(小和田哲男、p184)

八月七日 ★秀吉、越中へ向けて大坂を出陣。先陣は越前に入る。(小和田哲男、184)

八月八日 ★秀吉、京を出て越中に向かう。(小和田哲男、p184)

八月八日 この頃までに講和が成立し、長宗我部元親は秀吉側に降伏し、土佐一国を安堵される。(小和田哲男、p183)(柴裕之、p85、185)伊予国小早川隆景に与えられます。

八月十日 ★「「大友氏に対し、羽柴秀吉から菊田名字の使者が下向し、調略資金として金箱が贈られた」との情報が(筆者注:島津)家久にもたらされている。この時点で、大友氏が羽柴秀吉に接近し、両者が連携して島津領への侵攻を計画していると、日向衆は理解していたようである。これらの情報は、すぐさま鹿児島の(筆者注:島津)義久のもとにも伝えられている。」(新名一仁、p171)

八月十五日 ★秀吉家臣の金森長近、飛騨の三木自綱を攻め、降伏させる。(平山優、p173)

八月十八日 ★秀吉の本隊、加賀に到着。(小和田哲男、p184)

八月二十日 ★秀吉、倶利伽羅峠まで軍を進める。(小和田哲男、p184)

八月二十三日 ★秀長、大坂に凱旋。(小和田哲男、p183)

八月二十六日 ★佐々成政、剃髪し秀吉本陣を訪れ降伏。越中国のうち新川郡のみ安堵される。(小和田哲男、p185)「この北陸征討の結果、前田氏は利家の子利長が越中三郡を与えられ、加賀・能登越中を支配する大大名の地位が確定し、特に利家は、秀吉の最も信頼する臣として、羽柴筑前守の名乗りを許されたのであった。」(児玉彰三郎、p77)

 この頃の上杉景勝の行動については、「この時(筆者注:秀吉の佐々征伐の時)の景勝の行動はあまり詳らかではないが、八千の軍を率いて黒部まで出馬し、兼続を秀吉のもとに遣わして、挨拶せしめたという。成政を降したあと、秀吉は木村弥一右衛門を遣わして、景勝に今回の出陣を謝し、かつ、その上洛を求めて、引きあげた。」(児玉彰三郎、p77)とあります。

八月二十九日 ★真田昌幸が子の信繁を人質として、上杉家臣須田満親のもとに送ってきたのに対し、「満親は昌幸の臣矢沢頼幸に書を送り、これを謝し、かつ、小県郡曲尾に援軍を送ったことを報じている。」(児玉彰三郎、p78)

閏八月二日 ★「真田勢は徳川の兵を小県国分寺に迎え撃ち、大いにこれを破った。昌幸は、「千三百余討捕り、備存分に任せ候」と言っており、徳川方の記録『当代記』でも、「寄手少々敗軍の体也」と認めているほどである。」(児玉彰三郎、p77)(第一次上田合戦)

閏八月六日 ★三木秀綱・季綱の籠る飛騨松倉城が落城し、三木氏滅亡する。(平山優、p173)

閏八月十七日 ★秀吉、「近江国坂本に入り、畿内周辺の諸将の国替えを行い、畿内を羽柴の占有とし、「天下静謐」を成し遂げる。弟の秀家には大和・和泉・紀伊の三ヵ国が与えられ、大和郡山城に入る。甥の秀次は近江八幡城の城主となる。」(柴裕之、p185)

閏八月二十四日 ★秀吉、上洛。(柴裕之、p86)

九月九日 ★秀吉、「この日付で、「豊臣」改姓を許可される。」(柴裕之、p185)

九月十四日 ■『宇野主水日記』の九月十四日条では、秀吉の有馬湯治に従った面々の名前として、石田三成増田長盛大谷吉継などの名前が挙げられている。(中野等、p28)

※ 参考エントリー↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

九月十八日 ★「景勝は新発田陣に参加していた、沼田城将矢沢綱頼の子頼幸を、沼田に返し、また加勢の兵を送ることを報じているが、それは北条氏直が軍勢を送って真田の城である沼田城を攻めたからであった。」(児玉彰三郎、p79)

九月二十九日 ★北条軍、真田家の矢沢綱頼の籠る沼田城を八月下旬より攻めるが、攻略できないまま九月二十九日撤退する。(平山優、p163)

十月二日 ★秀吉、「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだす。」(柴裕之、p185)

「「嶋津修理大夫殿(折封ウワ書)」

 勅諚につき、染筆候。よって関東は残らず、奥州の果まで綸命に任せられ、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯の儀、然るべからず候条、国郡境目の相論、互に存分の儀聞越し召し届けられ、追って仰せ出さるべく候。まず、敵・味方とも双方弓箭をあい止むべき旨、叡慮候。その意を得られるべき儀、もっともに候。この旨を専らにせられず候はば、急度御成敗なさるべく候の間、各々の為には一大事の儀に候、分別有りて言上あるべく候也。

 (天正十三年)拾月二日               (花押)(豊臣秀吉

    島津修理大夫(義久)殿」(小和田哲男、p188~189)

十月十七日 ★秀吉、真田昌幸にはじめて直書を送る。(豊臣家と真田家の交渉のはじまり。)(中野等、p31)

「昌幸は九月末から十月初旬頃、大坂城羽柴秀吉に好誼を結びたい趣旨を認めた書状を送った。秀吉はこれを喜び、十月十七日付で返書を寄越した。それが次の書状である。(『信』⑯三八三)。

 未だ申し遣わさず候の所に、道茂の所への書状披見候、委細の段聞召し届けられ候、その方進退の儀、何の道にも迷惑せざる様に申し付くべく候の間、心易かるべく候、小笠原右近大夫(貞慶)といよいよ申談じ、越度なき様にその覚悟尤もに候、なお道茂申すべく候なり

 十月十七日 (花押)

     真田安房守とのへ」(平山優、p165)

→この頃まだ徳川方となっているはずの小笠原貞慶が、既に秀吉と通じていたことを示す書類といえます。平山優氏は、秀吉が越中(佐々氏)・飛騨(三木氏)を平定したことにより、小笠原貞慶が周囲を包囲され孤立したことが、貞慶が秀吉に転じた理由としています。(平山優、p174)

十月十八日 ■三成、真田家重臣で上野沼田に在城する矢沢頼綱真田昌幸の従兄弟)に、書状を発する。(現代語訳のみ引用)

「◇これまで親しくやりとりをしたこともありませんでしたが、先程真田昌幸安房守)どのことは上杉家の使者から細かにうかがいました。関白殿(秀吉)の御耳にも達していますが、真田昌幸の思い通りで(構わない)と上杉家の使者に伝えています。私は上杉家のお世話を担当しているので、今後は特に御用などをうかがっていきます。この(書状を携えてきた)使僧は、これから関東へ遣わされますので、念入りに送り届けて頂ければと存じます。さらにやがて関東から(秀吉のもとへ)のぼってくるであろう使者たちが(ご領内を)問題なく通過できるようにご配慮いただければと存します。そうした対応をとっていただければ、あなたのことを粗略にあつかうようなことはございませんので、御用などあれば仰ってください。ところで、九月十九日の天徳寺充て書状を拝見しました。(秀吉にも内容を)披露しています。詳しいことはこの使僧がお伝えすると思いますので、省略します。」(中野等、p31~32)

十一月三日 ★「景勝は、矢沢綱頼に上野国において地を宛行っている。」(児玉彰三郎、p79)

十一月四日 ★新発田重家、山城青蓮院尊朝法親王の進めていた上杉家との調停を断る。(児玉彰三郎、p80)

十一月十一日 ★徳川家康三河における一向宗七ヶ寺の追放を解除する。(平山優、p186)

十一月十一日 ★大友義統、「天正十月二日の停戦命令(筆者注:秀吉による大友氏と島津氏の停戦命令)に対し、十一月十一日には受諾する旨の書状を秀吉に送り、「筑後に在陣していたところ、島津が和平を破って義統分国に乱入したと訴え、支援を求めている(義統が筑後に在陣したという事実はない)。」(新名一仁、p205)

十一月十三日 ★「家康の重臣で、三河岡崎城代をつとめていた石川数正が突如尾張に出奔する。」(平山優、p175)この時、数正は「一族や妻女はもちろん信濃小笠原の人質幸松丸らを伴っていた(『家忠』)。」(平山優、p175)

「数正がなぜ徳川氏を裏切り、秀吉のもとへ走ったのかについては諸説あって定まっていない。ただ、出奔直前の十月二十八日に、家康が家臣を招集して秀吉に人質を出すか否かで評議を催し、あくまで拒否をすることが決定したことが最も大きく影響していることは間違いない(『家忠』『三河物語』等)。数正は、秀吉との取次役をつとめていた経緯があり、羽柴氏との回線には反対だったのだろう。しかしそれが容れられず、家中で孤立したのが出奔の背景と思われる。」(平山優、p175)と平山優氏は述べています。

十一月十五日 ★「家康は、十一月十五日に同盟国北条氏政・氏直父子に石川数正の出奔を知らせ、また信濃に在陣する徳川軍にただちに撤退し、平岩親吉・芝田康忠・大久保忠世には浜松へ帰還するように厳命した。事態を知った徳川方諸将の動揺と混乱は激しかった。」(平山優、p175)

十一月十七日 ★「真田昌幸の兼続へもたらした情報によると、家康は甲州・諏訪・佐久郡鎮将である平岩親吉・柴田康忠・大久保忠らを浜松に招集し、何事か相談したといわれ」る。(児玉彰三郎、p79)「昌幸は何故彼らが揃って帰国したのか理由がわからず、十一月十七日に直江兼続に宛てた書状で何の意図があるのか不明なのでただちに甲斐に目付を派遣して様子を探り、事実関係が判明次第報告すると述べている。(『上越』三〇七一号)。だがまもなくその理由が石川数正出奔のためであることを知ることになる。」(平山優、p178)

十一月十八日 ★家康、三河岡崎城の大改修に着手。(平山優、p188)

十一月十九日 ★秀吉は、「十一月十九日に真田昌幸に条目を送り、①家康は天下に対し表裏を構え許し難いので成敗するつもりである、②家康討伐のため来年一月には出陣するので、その際には参陣すること、③信濃と甲斐のことは、小笠原貞慶木曾義昌と相談し、経略を進めること、などを伝えた(『信』⑯三八四)。」(平山優、p165)

十一月二十一日 ★「秀吉は昌幸がかつて家康に与したのを赦し、速やかに上洛すべきことを命じている。」(児玉彰三郎、p79)

十一月二十一日 ★秀吉、「公家、寺社に所領を給与する。」(柴裕之、p185)

十一月二十三日 ★家康、三河国衆の妻女らを遠江国二俣城などへ移すよう命ずる。(平山優、p188)

十一月二十八日 ★「家康のもとに使者が訪れた。それは織田信雄より派遣された織田長益(信長の弟、後の有楽斎)、信雄家臣滝川勝利・土方雄久である。三人は秀吉の意を受けた信雄が派遣してきたもので、家康に秀吉との講和を勧告した。だが家康はこれを拒否している(『家忠』等)。これにより、ますます秀吉との決戦は避けられぬ情勢へと進んでいった。」(平山優、p189)

十一月二十九日 ★天正地震が起きる。(柴裕之、p185)「つまり天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴がある。しかも山内一豊織田信雄らの事例を持ち出すまでもなく、秀吉麾下の諸大名に大きな打撃を与えており、家康との即時開戦は困難になったと考えられる。」(平山優、p190)

十二月二日 ★家康、三河岡崎城の改修を完了。(平山優、p188)

十二月二日 ★家康方から秀吉方についた小笠原貞慶、「保科正直の居城伊那郡高遠城を攻めた。しかし、これは保科勢の奮闘で防がれる。(児玉彰三郎、p79)(平山優、p179)

十二月七日 ★秀吉、「義統に返書を送り、毛利輝元と和睦するよう命じるとともに、島津氏の返答次第では、四国・西国の軍勢を、毛利輝元羽柴秀長を先勢として派遣すると伝えている。(大録)。」(新名一仁、p205)

十二月十日 ★秀吉の「養子の羽柴於次秀勝(織田信長の五男)が丹波亀山城で病死する。」(柴裕之、p185)

十二月十日 ★上杉景勝、山城青蓮院尊朝法親王の進めていた新発田重家との調停(重家の赦免)を拒む。(児玉彰三郎、p80)

十二月二十三日 ★島津義久、「毛利輝元に書状を記し、(中略)。この書状で義久は、前年九月に毛利氏から持ち掛けられた大友氏包囲網について、いまだ有効かどうか確認するとともに、現時点で島津家としては豊薩和平を維持するつもりであるが、大友氏が逆心を構えて立て籠もっており、「案外之儀」=和平破綻となるかもしれないと述べている。後半は、前出の細川幽斎宛書状とほぼ同内容である。秀吉と和睦した毛利氏に対し、島津家の認識・立場を明らかにし、この停戦命令に対する毛利氏の姿勢を問うたのである。」(新名一仁、p198)

十二月二十八日 ■秀吉が上杉景勝からの歳暮の使者の返礼の直書を発した時に、三成も副状を発している。(中野等、p29~30)

「◇歳暮の使者として富永備中守殿を遣わされました。遠路ご苦労をかけ、殿下(秀吉)も満足に思われています。また、私にまで御太刀一腰と銭一〇〇〇疋を御用意頂き、いつもながらのご懇情に感謝を表す言葉もありません。A特に、東国のことについては御使者に申し渡しておりますので、(御前にて)ご説明があると思います。御領国の境界を厳重にされることも当然かと存じます。さらにまた、重ねてご連絡を差し上げます。」(中野等、p30)

→ 下線部Aのとおり、石田三成が上杉との取次として東国政策(対徳川包囲網の形勢)について積極的に関わっていることがわかります。

 

(コメント)

 天正十三(1585)年の秀吉政権の大きな動きは、1.昨年の小牧・長久手戦役の後始末2.秀吉の関白任官3.対徳川東国戦略の3つといえます。以下にみていきます。

 

1.昨年の小牧・長久手戦役の後始末

 前回のエントリーで、小牧・長久手戦役とは、ただ秀吉派と信雄・家康派の戦いであるにとどまらず、周囲の大名もいずれかの陣営について戦い、関ケ原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」とみられるような大規模な戦役であったことについて説明しました。小牧・長久手の戦い自体は天正十二(1582)年十一月に織田信雄が秀吉に実質降伏することにより、終結を迎えますが、この時信雄・家康派についた大名の後始末をつけることが、秀吉にとってこの天正十三(1583)年の重要な課題となります。彼ら旧信雄・家康派勢力は、信雄との講和により秀吉政権に従うことになった訳では当然なく、今後も秀吉政権を脅かす存在となる訳ですから放置しておくわけにはいきません。このため、天正十三年に秀吉は、旧信雄・家康派残党勢力を一掃するために一連の軍事行動を起こします。

 天正十三年に行った秀吉の戦は以下のようになります。

① 三月~四月  紀州攻め(対根来・雑賀衆等)

② 六月~八月  四国攻め(対長宗我部元親

③ 八月     越中攻め(対佐々成政

④ 八月~閏八月 飛騨攻め(対三木氏)

 石田三成もまた、秀吉の側近として紀州攻め、越中攻めに在陣しています。(四国攻めについては秀吉の弟秀長が総大将として軍を率いており、飛騨攻めも金森長親に命じたもので、秀吉は出陣していませんので、三成も在陣していません。)

 紀州攻めの際に、高野山が秀吉に降伏を申し出、無血開山します。この時、高野山で秀吉との和解斡旋につとめた僧が木食応其でした。近江国の出身である木食応其は、こののち三成と親しく交わっていくこととなります。

※ 参考エントリー↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

2.秀吉の関白任官

 天正十三年七月十一日、秀吉が関白に任官されます。関白とは文字通り「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職であり、国政を総覧する臣下第一の職でした。その「総覧」の中には公家・寺社も含まれます。(小和田哲男、p172)

 江戸時代の史料(林羅山豊臣秀吉譜』)では、秀吉は将軍職が望みだったが、足利義昭の猶子になろうとして断られたため将軍になれなかった等の記述(小和田哲男、p170)がありますが、摂関家でない人間が関白に任官される方が、将軍に任官されるよりも遥かに難しいことですので、この説は誤りでしょう。秀吉は、「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職として関白の任官を望み、関白の地位を元に天下へ号令する権威と政治的な正統性を得ようとしたのだと考えられます。(この朝廷の「臣下第一」の権威も「武威」を背景としなければ実質的な権力を持ちえない訳ですが。)

 秀吉の関白任官に伴い秀吉家臣も官位を授かり、石田三成もまた七月十三日に五位下に叙位され、治部少輔の官途を与えられることになります。(中野等、p27)

 

3.対徳川東国戦略

小牧・長久手の戦いで決定的な勝利を収められず家康を打倒できなかった秀吉は、家康に対する武力討伐路線をあきらめ、朝廷の権威で家康を臣従させる路線を目指した」みたいな説が以前唱えられていたことがありましたが、上記の年表にあるように、天正十三年の段階では、秀吉は、降伏の姿勢を取ろうとしていない徳川を打倒する姿勢を崩しておらず、色々な戦略を徳川陣営に仕掛けて、徳川征討の準備をしていることが分かります。以下に秀吉の対徳川東国戦略をみていきます。

① 八月 越中攻め(対佐々成政

② 八月~閏八月 飛騨攻め(対三木氏)

③ 十月 信濃小笠原貞慶真田昌幸との同盟

④ 十一月 徳川重臣石川数正の出奔

 

 ①、②の秀吉による越中・飛騨攻略により、③徳川方だった信濃小笠原貞慶を孤立させることにより、豊臣方に寝返らせることに秀吉は成功しました。七月に徳川方から上杉方へ離反した真田昌幸とも十月に秀吉は同盟を結びます。④特に、徳川重臣石川数正の出奔が徳川に与えた衝撃は大きく、徳川軍の軍制や戦法等の軍事機密が秀吉方に漏洩したことになりますので、軍制改革に着手せざるを得なくなりました。また、石川数正岡崎城代だったため城の内部情報も漏洩したことになり、家康は岡崎城の改修を急ぐことになります。(平山優、p188)

 この他にも、秀吉は「本願寺法主より三河遠江一向宗門徒に呼びかけさせ、秀吉に味方すれば耕作は切り取り(年貢免除)とするとの条件で一向一揆を蜂起させる作戦」(平山優、p187)や、「「越後に武田信玄の息子御聖導殿(龍宝)という目の不自由な方とその子が匿われている。その武田父子を上杉景勝が支援して甲斐に帰国させる準備が進められている」」という噂を流す(この噂を流したのは真田昌幸)(平山優、p175~176)などの工作を行っています。

 このようにして、秀吉は工作により家康を追い詰めており、家康は窮地に立たされていました。

 

 この頃に、石田三成が行った東国政策を示すものとして、十月十八日付の真田重臣矢沢頼綱宛三成書状があります。以下、再掲します。

 

「◇これまで親しくやりとりをしたこともありませんでしたが、先程真田昌幸安房守)どのことは上杉家の使者から細かにうかがいました。関白殿(秀吉)の御耳にも達していますが、真田昌幸の思い通りで(構わない)と上杉家の使者に伝えています。A私は上杉家のお世話を担当しているので、今後は特に御用などをうかがっていきます。この(書状を携えてきた)使僧は、これから関東へ遣わされますので、念入りに送り届けて頂ければと存じます。Bさらにやがて関東から(秀吉のもとへ)のぼってくるであろう使者たちが(ご領内を)問題なく通過できるようにご配慮いただければと存します。そうした対応をとっていただければ、あなたのことを粗略にあつかうようなことはございませんので、御用などあれば仰ってください。ところで、九月十九日の天徳寺充て書状を拝見しました。(秀吉にも内容を)披露しています。詳しいことはこの使僧がお伝えすると思いますので、省略します。」(記号・下線筆者)(中野等、p31~32)

 

 Aにあるとおり、三成は上杉家の取次をつとめていますので、上杉傘下となった真田家の取次も今後三成がつとめていくことを知らせています。これより、三成は真田家の取次を担い、真田家と親密な関係を築いていくことになります。

 

 Bにあるように、三成と秀吉が地勢的に真田家を重視していたのは、真田家が信濃と上野沼田にまたがる領地を領有していたことが大きいと考えられます。反徳川・北条の北関東諸侯(佐竹・宇都宮等)との(沼田を経由した)連絡役を担う役割として、真田家は秀吉から重視されていたのです。

 

※ 参考エントリー↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 

 上記のような対家康への打倒体制が見直されることになったのが、十一月二十八日の天正地震でした。「天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴があ」(平山優、p190)り、地震による甚大な被害を受けた豊臣方は即時の即時開戦は困難になり、秀吉は対徳川の戦略の見直しをはからざるを得なくなることになります。

 

 参考文献

跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

白川亨『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年