古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

天正十四(1586)年の秀吉政権と石田三成の動きについて

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※今回は下記エントリーのコメントです。

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 それでは、天正十四(1586)年の秀吉政権と石田三成の動きについてみていきます。

 

1.昨年(天正十三(1585)年の秀吉政権の動き 

 昨年(天正十三(1585)年の秀吉政権の動きは、

①一昨年(天正十三(1584)年)の小牧・長久手戦役の後始末(紀州(雑賀・根来衆等)・四国(長宗我部)・越中(佐々)・飛騨(三木)攻め)

② 秀吉の関白任官

③対徳川東国戦略

④九州情勢への介入

でした。

 

①については、主に小牧・長久手戦役時に織田信雄徳川家康方と同盟し、秀吉を攻撃した大名を征伐し、服従させるという小牧・長久手戦役の後始末の側面があります。

②の天正十三年七月十一日付の「秀吉の関白任官」は、日本の中央政権としての秀吉政権の誕生が名実ともに始まったことを示す任官といえます。関白はとは、文字通り「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職であり、国政を総覧する臣下第一の職でした。秀吉は、この関白の権威をもとに全国の大名に号令を降す権力を手に入れたといえます。

③についてですが、小牧・長久手戦役後の後始末の後、最後に残った敵が徳川家康といえ、当初秀吉は徳川家康を打倒するため、様々な工作を進めてきました(前年のコメント欄参照)が、十一月二十八日の天正地震が起こることになります。「天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴があ」(平山優、p190)り、地震による甚大な被害を受けた豊臣方は即時の即時開戦は困難になり、秀吉は対徳川の戦略の見直しをはからざるを得なくなることになります。翌年の天正十五年は、徳川を懐柔することによって、徳川の臣従を促す方針へ方向転換していくことなります。

④一方、天正十四年十月二日「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだ」(柴裕之、p185)しており、天下の万機を関(あずかり)白(もう)す関白として秀吉が九州情勢に介入していくことになります。この流れが翌年(天正十五年)の動きにつながっていきます。

 

2.天正十四(1586)年の秀吉政権の主な動き

 天正十四年の秀吉政権及び石田三成の主な動きについてみていきます。

①東国政策(上杉景勝の上洛、真田昌幸との交渉、徳川家康の上洛)

②西国政策(石田三成の堺奉行就任、対島津前哨戦)

 

 この年の秀吉は、東国政策と西国政策を同時並行的に行う必要があった点を注意する必要があります。東国政策を解決(徳川家康の臣従)させないと、東国の反撃も警戒しないといけませんので、西国に大兵力を投入する事は難しくなります。このため、秀吉は家康を一刻も早く臣従させる必要があったのです。

 

①東国政策(上杉景勝の上洛、真田昌幸との交渉、徳川家康の上洛)

 一月二十七日、織田信雄の仲介により、徳川と豊臣との「和睦」が成立し、ここから秀吉から徳川へ臣従を呼びかける交渉が始まることになります。

 前述したとおり、昨年の天正十三年の十一月二十八日に起こった天正地震の甚大な被害のため、豊臣秀吉は、徳川への軍事行動を見直さざるを得なくなり、家康を懐柔して臣従させる方向へ転換することになります。そして、それまで対家康包囲網を形成していた、秀吉の同盟勢力の上杉景勝や北関東衆には上洛(臣従)を呼びかけることになります。

 天正十四年三月十一日、下野の宇都宮国綱に書状を送り、速やかな上洛を促します。ここから石田三成は宇都宮国綱をはじめとする北関東衆との取次を行っていたことが分かります。宇都宮等北関東衆は、南関東の北条と対立しており、北関東衆の秀吉政権内の立場を確立させるため、北条よりも早い上洛を三成は国綱に促すことになります。

 その後、五月十四日には、秀吉の妹旭姫と家康の婚姻が決まりました。

 五月十六日には石田三成・木村清久・増田長盛は、徳川家康と秀吉の妹旭姫の婚姻が成った事を受け、上杉景勝直江兼続宛てに書状を発し、上杉景勝の速やかな上洛を促します。より早く上洛した大名が、秀吉政権に確固したる地位を築くことが大前提としてあり、上杉との取次である三成らは取次先大名の上洛を促すことによって、取次先大名の秀吉政権内の地位を固め、また取次先を交渉によって上洛(臣従)させる事で自らの秀吉政権の地位を高めることに繋がっていく訳です。

 上洛=臣従の意を明確に示すという事になりますので、上杉景勝としては悩ましい判断となる訳ですが、五月二十日には景勝は上洛のために春日山城を発しており、この五月の段階でほぼ景勝の上洛は双方の交渉により最終的に確定していた事が分かります。

 五月二十八日に加賀森本で景勝主従を出迎えた三成はこの後景勝一行と同行し、六月七日に入京します。六月十四日に景勝は大坂城で秀吉に拝謁、十五日には三成は大坂の石田屋敷に景勝一行を招き饗宴をはります。六月二十一日には、景勝は「秀吉の奏請により、左近衛権少将に任じられ、従四位下に叙せられ」(児玉彰三郎、p83)ています。

上杉景勝の上洛については、下記を参照。

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 七月には、徳川傘下につかない真田昌幸に対して、徳川家康は軍事行動を起こそうとします。

 一方、豊臣秀吉上杉景勝の上洛時にも同行せず、上洛を拒否する真田昌幸に対して怒り、「表裏比興者」と非難しています。秀吉は景勝に対しては「いずれ家康が討伐の軍勢を差し向けるであろうから、越後から真田に対して助勢などのないように、と厳命して」(中野等、p39)います。

 しかし、八月二十日、「家康の(筆者注:真田への)出馬は中途で取り止めとなり、同二十日には、浜松へ引き上げている。これは、秀吉の働きかけによるものとされ(後略)」(児玉彰三郎、p86)ます。秀吉は一見、昌幸を「表裏比興者」として非難しつつも、以前の同盟時には豊臣政権のために対家康の防波堤の役割を担ってきた真田昌幸を無暗に切り捨てる事ができなかったためと考えられます。(こうした過去に、秀吉に助けを求めてきた大名・国衆を未来の都合で容赦なく切り捨てていくのは秀吉政権の信頼・外聞に関わる話になっていきます。)

 私見では、こうした秀吉の真田家への強硬姿勢からの転換には、真田家の取次である石田三成の「取り成し」があったと考えます。十一月四日の秀吉の上杉景勝宛直書には、景勝の斡旋もあり、昌幸は赦免するとの書状を発しています。

真田昌幸が上洛するまでの変遷については、下記を参照願います。

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 九月二十六日には、秀吉の母、大政所が事実上の人質として浜松に向かう事を条件として、家康の上洛が決まります。 

 十月十四日には、家康は浜松を発ち上洛へ向かいます。十月二十七日に大阪城で家康は秀吉と対面し、臣従を誓うこととなります。

 

②西国政策(石田三成の堺奉行就任、対島津前哨戦)

 天正十四年の秀吉の西国政策(主に対九州島津政策)について記します。

 昨年の天正十三年十月二日「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだ」(柴裕之、p185)します。

 これに続き天正十四年一月二十三日に、昨年十月二日付の関白秀吉による大友・島津への停戦命令が「豊後侵攻の談合のため鹿児島に集まっていた(筆者注:島津家の)重臣達に披露され」(新名一仁、p197)たが、秀吉を「由来無き仁」とみなす重臣も多く、ひとまず織田信長による大友・島津の和平仲介は未だ有効である事、こちら(島津)は攻められているから防御しているだけだとの弁明を述べた書状を返信します。

 これに対し、四月五日に大友宗麟は自ら上坂を果たし、秀吉と対面します。

 五月十二日には秀吉の示した国分け案が島津家に伝わりますが、「これは、島津氏が切り取った国のうち、肥後半国・豊前半国・筑後大友義統に返還させ、肥前国毛利輝元に与え、筑前国を秀吉直轄領とするものであり、島津氏に安堵されるのは、本領の薩隅日三か国と肥後半国・豊前半国のみであった。支配の実態がほとんどない豊前半国を島津領というのはよく分からないが、島津氏にとってはとても受け入れられない条件であったであろう。しかも、七月までに鎌田が再度上京して国分け案を受諾しなければ、必ず出馬すると通告したのである(同上)。」(新名一仁、p203~204)といったもので、島津家としては到底受け入れられるものではありませんでした。このため、島津としてはこの秀吉の国分け案を黙殺する事になります。これは秀吉政権との戦いを島津は覚悟したという事でもあります。

 一方、「六月に、織田信長時代から堺政所を勤めていた松井友閑が罷免され、三成はそのあとを襲って、小西立佐とともに「堺奉行」に就任」(中野等、p44)し、「三成の堺奉行在職は天正十六年(一五八八)の末まで及ぶと」(中野等、p47)されます。

 石田三成が堺奉行に就任したのは、九州攻めのためでした。秀吉は堺を九州攻めの兵站基地とし、大量の兵粮・弾薬を商人達に輸送させることで、九州攻めを成功させようと考えたのです。

 大量の兵粮・弾薬の九州への輸送は堺商人に莫大な利益を供する事になりますが、一方で万が一にでも堺商人が島津家と豊臣家とを天秤にかけ、兵粮輸送の業務を履行しない事態は避けなければなりません。九州への兵粮輸送のもたらす利益という「飴」と引き換えに、堺は自由都市ではなく豊臣政権の統制を受けるという「鞭」を堺商人は受け入れろ、というのが、秀吉の直臣である石田三成の堺奉行就任の意味でした。

 三成は、「堺商人に対する統制という『鞭』を与えるための役割」として堺奉行に就任したのでした。六月といえば、三成が上杉の上洛を受けて自ら上杉の接待に大わらわになっていた頃です。秀吉は多忙な職責に追われる三成に、次々と難題を解決するよう三成に重責を課していきます。

 七月には、秀吉は「島津氏勢力の「征伐」の意向を示し、仙石秀久長宗我部元親ら四国勢を先勢に、毛利氏の軍勢にも出陣を命じ」(柴裕之、p185)ます。これより秀吉軍による九州攻めが本格化します。

 十月の大坂城での家康対面の最中、秀吉は堺の環濠の埋め立てを命じます。秀吉政権により堺統制政策の一環といえます。

 一方、九州では十二月十二日、九州に在陣していた「仙石秀久長宗我部元親らの軍勢は秀吉出陣まで戦闘は避けるようにという指示に背き、豊後国戸次川(大分市)で島津軍と戦う事態となり、大敗してしまう。」(柴裕之、p185)(新名一仁、p222~223)事態を迎えることとなります。

 

 まとめますと、この年の秀吉政権は前年から引き続く東国政策を解決し、上杉景勝徳川家康を臣従させることに成功しました。まさに孫子の兵法における「戦わずして勝つ」戦法を行った訳ですが、長期的に見た場合に、相手に妥協し続けての勝利は、後々禍根を残すことになり、まさにこの残った禍根により豊臣家は後に徳川家に滅ぼされたといえます。孫子の兵法における「戦わずして勝つ」が最善だというのも、時と場合と相手によるものであり、必ずしも常に最善とはいえない例といえます。

 西国政策については、この年は戸次川の敗戦で豊臣方の敗北として終わることになります。秀吉自ら大軍を率いての出陣以外に、島津との戦いは結着しないことを示した敗戦といえるでしょう。

 

参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年