古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑥ 天正十五(1587)年 三成28歳-九州征伐、肥後国衆一揆、真田昌幸の上洛、新発田重家の滅亡

 ☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

※本エントリーのコメントは下記に書きました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。▲は、肥後国一揆佐々成政関連の出来事。)

 

一月一日 ★「秀吉は年賀祝儀の席で、九州攻めの席で、九州攻めの部署を諸大名に伝え、軍令を発した。」(小和田哲男、p200)

豊臣秀吉堀秀政に宛てて「至九州御動座次第」九州動座の具体的な陣立てを示す。(中野等、p48)

一月三日 ■豊臣秀吉、大名や商人を招いて大茶会を催す。招かれた商人の一人が、博多の豪商の神屋宗湛である。神屋宗湛への茶会の招待の働きかけをしたのが石田三成と堺商人の津田宗及であった。この宗湛の茶会参加へのお膳立てを三成はすべて整え、当日は自らが給仕を行った。

 この日のことについて、武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年には、以下のように記されている。

「一度ならず、二度、三度と、満座の中で、宗湛は「筑紫の坊主」の愛称で(筆者注:秀吉から)呼ばれ、お飾りの拝見では一人ゆっくり手にとって拝見することを許された。それのみならず、大名衆といっしょに関白の前で食事を賜り、給仕は石田治部自身がしてくれた。

 この頃の最大級のもてなしは、主人みずから客人の前にお膳を運ぶことであるが、秀吉のブレーンである三成の給仕は、最大級のもてなしだったと考えてよいだろう。しかもこの食事を賜ったのは、大名、武士以外では今井宗及と宗湛二人だけだったようだ。淡淡とした筆致の中に、面目を施した宗湛の無上の喜びがにじみ出て『宗湛日記』の中でも、とりわけ圧巻の部分である。」(武野要子、p110~111)

※詳細は、↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

一月四日 ★秀吉は、上杉景勝真田昌幸を上洛させるよう促している。(児玉彰三郎、p88)

一月十九日 ■島津義久は、正月十九日付書状にて羽柴秀長石田三成宛に重ねて秀吉に抗う意思のないことを告げるが、この弁明は秀吉には通じなかった。(中野等、p47)

一月二十三日 ★安国寺恵瓊黒田孝高宛て秀吉書状。博多の復興と還住を申し付ける書状。(『豊臣秀吉の古文書』、p259)

一月二十五日 ★豊臣秀吉宇喜多秀家(兵一万五千)を九州征伐に遣わす。(中野等、p47~48。柴裕之、p91)

一月二十七日 ★『時慶記』(公家、西洞院時慶の日記)のこの日の条に聚楽第落成後の天皇行幸が計画されていることが記されている。(実際の行幸は翌年(天正十六(1588)の四月十四日~十八日に行われる。)(中野等、p56)

二月 ★この頃、真田昌幸が上洛し、秀吉と対面する。(昌幸が三月に上洛したという説もありますが、下記のとおり三月一日には秀吉は九州征伐に出発していますので、三月の上洛・秀吉との対面はありえず、二月の上洛が正しいと考えられます。)

詳細は、↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

二月十日  ★秀吉、弟の豊臣秀長(兵一万五千)を九州征伐に遣わす。(中野等、p48。柴裕之、p91)

二月十七日 ■石田三成筑紫国上座郡土豪宝珠山隆倍に書状を発する。書状の内容は、前年十月に九州に派遣された黒田孝高の調略により、孝高に属することを決めた隆倍が、その前提として秀吉自身による知行の保証を求めたため、孝高が宝珠山氏の知行保証を秀吉に言上したことに対する返状。

 この書状では、三成は、孝高の知行保証の言上を早速秀吉に伝え、了承を得た旨が記されている。中野等氏は、「三成は、九州で活動する諸将と秀吉の間を取り次ぐ立場にあったことがわかる。」(中野等、p48)としている。

二月三十日 ★真田昌幸宛秀吉朱印状。家康に付されることに不安な昌幸に対して秀吉は、「家康が自分の方に人質を出し、どのようなことでも秀吉次第だと懇望したので、信州の各自も自分の存分に従うことになった。だから戦争を止めろと述べている。」(笹本正治、p152)

三月一日 ★秀吉、島津征伐のために大坂を発し、自ら九州出陣。(中野等、p49。柴裕之、p185)総勢十八万の大軍であった。(小和田哲男、p200)■三成も秀吉に従ったと考えられる。(中野等、p49)

三月十五日 ★府内に入った島津義弘は、高野山の木食応其と一色昭秀と面会。降伏勧告であったが、この場では義弘は受け入れなかったようである。義弘は島津家久・島津忠長と相談し、豊後国撤退を決断。府内を脱出する。(新名一仁、p226~227、231)

三月十八日 ★真田昌幸小笠原貞慶、秀吉の命により、駿府徳川家康を訪問する。(藤井譲治、p116)

三月十八日 ■秀吉は九州出陣の途中、厳島神社に参拝し、戦勝を祈願して米穀を奉納。このとき、境内の水精寺で和歌の会が催された。(花ヶ前盛明、p18)この日に秀吉(雅号は「松」)と、秀吉に同行した三成、大谷吉継が詠んだ和歌については、下記参照。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

三月二十五日 ★秀吉、長門国赤間席に到着。(中野等、p49)

三月二十八日 ★秀吉、豊前国小倉に到着。(中野等、p49。柴裕之、p91)

三月二十九日 ★秀長の軍勢、縣城を落す。(小和田哲男、p204)

四月 ★秀吉、敵対した筑前国国衆・秋月氏を攻略。秋月氏の降伏後は、肥後国の島津勢力を鎮めつつ、薩摩国へ向かう。豊後方面からは秀長が日向国へ侵攻した。(柴裕之、p91~93)

四月十日 ★秀吉、高良山に入る。(小和田哲男、p203)

四月十二日 ▲「秀吉 肥後に入り、服属する肥後国衆たちに旧領安堵の朱印状」(荒木栄司、p201)

四月十五日 ★肥後人吉城主相良頼房の重臣、深梅長智、肥後八代で秀吉と面会、相良家の旧領安堵を秀吉に約される。(『秀吉の古文書』、p256)

→相良氏は、当初島津方として参戦していたが、三月の豊後における豊臣勢との戦いで島津勢は大敗を喫し、殿をつとめていた相良軍も命からがら人吉城に帰還した。彼我の差を思い知った相良氏は、豊臣方への鞍替えを決意し、相良重臣の深見が幼少の頼房(当時十四歳)に代わって秀吉との面会を果たした。(『秀吉の古文書』、p256)

四月十六日 ★秀吉、熊本に到着。(小和田哲男、p203)

四月十七日 ★根白坂の戦い。秀長軍、島津軍を破る。(小和田哲男、p204)島津軍は大きな被害を出し、撤退。(新名一仁、p234)

→この根白坂の戦いの際に消極的な戦いをしたと秀吉に咎められた、秀吉重臣の尾藤知宣は改易され、放逐処分を受ける。知宣が治めていた讃岐には、生駒親正が入る。「これまで姻戚として三成を支えてきた尾藤知宣は、完全に失領し、浪牢を余儀なくされた。類縁の難を避けるためか、知宣の弟宇田頼忠(三成正室の実父)の子河内守頼次(実名は「頼重」とも)は、三成の父隠岐守正継の養子となり、以後は「石田刑部少輔」と称することとなる。」(中野等、p53)

四月十九日 ★秀吉麾下の軍勢、肥後八代に入る。(中野等、p49)

四月二十日 ■三成は、二十日付で、肥後国玉名軍の願行寺に禁制を下す。(中野等、p49)

四月二十二日 ★島津重臣の伊集院忠棟、秀長の陣所へ使者として向かい、島津氏の降伏を申し出る。(柴裕之、p93)同じ頃、島津家久も降伏している。(新名一仁、p237)

四月二十三日 ■三成は、二十三日付で「大谷吉継安国寺恵瓊連署状を発して、博多町人の還住をすすめる(「原文書」)。」(中野等、p49~51)還住をすすめるにあたり諸役の免除がはかられている。(『秀吉の古文書』、p258)

四月二十六日「また、陣中見舞いをうけた三成は、この陣中から堺南北惣中に礼を述べ、戦況を報じている(大日本古文書『島津家文書』一一九六号)。」(中野等、p49~51。中野等②、p26)

四月二十七日 ★出水の島津忠辰、秀吉軍に降伏。(新名一仁、p234)

四月二十九日 ★高城で抵抗していた島津家臣山田有信、開城に同意、城を出る。(小和田哲男、p205)

五月三日 ★秀吉、薩摩国川内の泰平寺に着陣。(中野等、p51。柴裕之、p93)

五月八日 ★島津義久、泰平寺において出家姿で秀吉に対面、降伏の意を示す。秀吉、これを受け赦免。(中野等、p51。柴裕之、p93、p185)

■島津氏の降伏をうけ、三成は人質を催促している。これ以後、三成は豊臣島津氏との取次・指南の役を担うことになる。(中野等、p51)

五月九日 ★秀吉、島津義久に「薩摩一国」を充行う。(中野等、p53)

五月十八日 ★秀吉、大口方面へ軍を進めるため、泰平寺を発する。(中野等、p51)

五月十九日 ■「しかし、いまだ不穏な動きをみせる島津歳久(義久三弟)を抑えるため、三成は十九日島津家家老の伊集院忠棟(九州平定ののち剃髪して「幸侃」と号す)とともに祁答院(筆者注:歳久の居城)に派遣される。」(中野等、p51)この軍令の宛名には、忠棟、三成のほかに高野山の木食上人(応其)の名もあり、応其も三成とともに島津氏への和睦斡旋にあたっていた。同日の十九日付で応其は、義久宛てに徹底した恭順の態度を示すように諭す書状を送っている。(中野等、p52)

五月十九日 ★島津義弘、野尻まで来た秀長に見参、長男久保を秀長に人質として渡している。(新名一仁、p237)

五月二十三日 ★大友宗麟、死去。享年五十八歳。(新名一仁、p240)

五月二十四日 ■三成は、忠棟とともに大口進撃の指揮をとり、二十四日には曽木に至る。細川幽斎とともに、日向飫肥領を伊東氏へ引き渡すよう勧めてきたが、島津側の対応が悪く不快を感じている。さらに、三成は安国寺恵瓊とともに大隅宮内に向かい、敵対を続ける島津家家臣北郷時久・忠虎父子と面談する。(中野等、p52)その後、北郷時久・忠虎は秀吉に降る。

五月二十五日 ★秀吉、義久の弟の義弘に大隅一国を宛行う。(中野等、p53)★「義弘宛秀吉朱印状にて「肝付一郡」を老中伊集院忠棟に与えることが明記されて」(新名一仁②、p143)いる。

五月二十六日 ★最後まで抵抗を続けていた島津家臣新納忠元、曽木についた秀吉の元へ出頭し、降伏する。(新名一仁、p239)

五月二十八日 ★秀吉、肥後佐敷城で家臣の一柳直末充てに今後の方針を定めた書状を送る。その書状には、九州の国分けのこと、博多に自分の「御座所」を定め宿舎の普請をもしつけること(「唐入り」の基地としての整備を意識しているとされる)、九州が『五畿内同前』になるよう入念に支配を申し付けることなどが書かれている。(『秀吉の古文書』、p257)

五月三十日 ★秀吉、相良頼房に肥後国求麻郡を一色扶助。(中野等、p53)

五月 ★秀吉、伺候してきた対馬領主宗吉智に、朝鮮国王のすみやかな来日と上洛を命じる。(中野等、p152)

六月二日 ▲秀吉、佐々成政に肥後一国を宛行う。(中野等、p53)

六月五日 ★島津家久、急死。(新名一仁、p254)

六月六日 ▲「成政 隈本城に入る」(荒木栄司、p202)

六月七日 ★秀吉、筑前国筥崎に入り九州の国分けを行う。(小和田哲男、p206)■この頃の三成もこれに従ったと推測される。(中野等、p53)

六月十五日 ★秀吉、宗義調に対馬一国を宛行い、朝鮮国王の来日を要求。(中野等、p53)

六月十五日 ★宗義調・宗義智充て秀吉判物。内容は宗氏に対馬一国を安堵させること及び、高麗成に兵を遣わし成敗しようとするつもりだったが、宗義調が「御理」を申したので、派兵を差し延べることにし、この間に朝鮮国王はすみやかに日本に参洛すべしと記されている。さらに、参洛を拒めば、即座に渡海して朝鮮国に誅罰を与える、と書かれている。(中野等③、p10~11)

六月十五日 ★島津「義久は、三女亀寿、老中伊集院忠棟・本多親貞・町田久倍、奏者の比志島国貞ら重臣を伴い鹿児島を発つ。」(新名一仁②、p137)

六月十八日 ★六月十八日付秀吉朱印状による「定」。その第三条によると「大名たちに与えられた国郡知行は、当座のものであるとうたわれている。転封・移封はあたりまえとしているのである。この考え方が、徳川幕藩体制の柱の一つとなり、たくさんの「鉢植え大名」が生まれたことを想定すれば、その歴史的意義の大きかったことが理解されるのではなかろうか。」(小和田哲男、p209)

六月十九日 ★秀吉、伴天連追放令を出す。(柴裕之、p185)

六月二十五日 ★秀吉、小早川隆景筑前と北筑後・東肥前を充行う。また、立花宗茂らが筑後国内で「新恩地」を充行われる。毛利吉成に豊前国の金救・田川両郡を充行ったのもこの頃とされる。伊予には戸田勝隆と福島正則、讃岐には生駒親正が入る。(中野等、p53)

六月二十五日 ■三成は、細川幽斎とともに、上洛のため博多まで来た島津義久を訪ね、ほどなく義久を伴い上方へ向かう。(中野等、p54)

六月二十九日 ■三成ら、下関に入る。(中野等、p54)

七月一日 ▲「成政 肥後国衆たちに検地を通告、隅部親永ら一部の国衆たちは秀吉の旧領安堵の朱印状を盾に拒否」(荒木栄司、p202)

七月二日 ★秀吉、博多筥崎を出発し、大坂へ戻る。(小和田哲男、p210)

七月十日 ★秀吉、備前岡山に到着。(小和田哲男、p210~211)

七月十日 ■三成、島津義久らを伴い堺に到着。(中野等、p54)その後、島津義久は京都に居住。

七月十四日 ★秀吉、摂津大坂城に帰る。(柴裕之、p93)

七月二十四日 ▲「成政 菊池隅府城の(筆者注:肥後国衆の)隅部親永を攻める」肥後国一揆のはじまり。(荒木栄司、p202)

七月二十五日 ★秀吉、大坂城から聚楽第に入る。(小和田哲男、p211)

七月二十七日 ▲「隅府城陥落、隅部親永はいったん降伏したが山鹿城村城に立て籠もる」(荒木栄司、p202)

七月二十九日 ★秀吉、参内。(小和田哲男、p211)

七月三十日 ★北条氏、「百姓大量動員体制」を敷く「定」を領有する郷村に送っている。この動員も含めて、五万六千の軍勢を集めることができるようになったという。小和田哲男、p240)

八月六日 ▲「佐々勢 山鹿城村城を攻める」(荒木栄司、p202)

八月八日  ★秀吉の弟豊臣秀長徳川家康とともに、従二位大納言となる。(柴裕之、p185)

八月十二日 ▲益城郡の甲斐・田口・田代氏など肥後国衆の一部が、佐々成政居城の隈本城を成政の留守中に包囲攻撃する。(荒木栄司、p202)

八月十三日 ▲城村城を攻撃中の成政、城村城に付ヶ城を構築の上、隈本城の救援に向かう。(荒木栄司、p202)

八月十四日 ▲佐々軍別動隊を率いた成政家臣 佐々宗能、肥後国衆の内空閑勢により戦死。成政は山之上三名字衆・小代勢の支援で隈本城に入城した。(荒木栄司、p202)

八月十五日 ▲隈本城を「攻めていた旧阿蘇家臣の田口・田代氏ら城内の阿蘇宮司兄弟の生命保全を条件に城内の成政と呼応して、攻め手を攻め崩す。包囲とける」(荒木栄司、p202)

九月 ▲(肥後国衆の)「城村城の有働兼元勢が付ヶ城を攻め、佐々方は食糧不足、成政は柳川の立花宗茂に食糧を依頼」(荒木栄司、p202~203)

九月 ★宗義調、家臣を朝鮮に送り、秀吉の命令である服属の使者派遣を、秀吉の全国統一を祝賀する通信使ということにすり替え折衝。しかし、朝鮮側はこの要求を断った。(北島万次、p207)

九月四日 ★上杉景勝、秀吉に九州平定を賀す書状を送る。(児玉彰三郎、p91)

九月七日 ▲立花勢、食糧搬入に成功。(荒木栄司、p203)

九月八日 ▲秀吉、龍造寺家重臣鍋島直茂に書状を発する。同日付で同内容の書状を龍造寺政家にも発している。肥後国衆と戦っている佐々成政を援けるため、毛利秀包龍造寺政家とで相談し、すぐに出動するよう命じた。手勢が不足するならば、黒田孝高、毛利吉成、毛利輝元小早川隆景自身も出動せよと、隆景に指示していると告げている。(荒木栄司、p160)

九月十三日 ★秀吉、完成した京都の聚楽第に大政所や北政所らとともに入る。(柴裕之、p96、185)

九月二十七日 ★北条氏、「鉄砲鋳造のため、大磯・小田原間の宿駅に命じ、大磯の土三五駄を小田原新宿の鋳物師のもとへ運ばせているが、(中略)そのころ、鉄の材料として、寺社の梵鐘を挑発している史料もかなりの数に及んでいる。」(小和田哲男、p237)

九月三十日 ★▲九州肥後で一揆が勃発した報せが京着する。(中野等、p54)■▲これを報じた安国寺恵瓊充ての同日付秀吉朱印状には、「猶、石田治部少輔可申候也」とある。(中野等、p54)

十月一日  ★秀吉、京都北野で大茶会を催す。(柴裕之、p185)■この間、三成は秀吉に近侍していた。(中野等、p54)この茶会は十日間続けられる予定だったが、肥後一揆勃発の報でわずか一日の開催となったとされる。

十月十三日 ★秀吉、「加藤清正増田長盛に対し米三〇〇〇石を義久に下すよう命じるとともに、翌日には「在京之堪忍分」=在京滞在費として来春上方にて一万石を宛行うことを約し、今年分として米五〇〇〇石を下している。」(新名一仁②、p138)

十月十三日 ★▲秀吉、波田信時宛て朱印状。肥後国一揆の鎮圧のために、毛利輝元黒田孝高小早川隆景、森吉成らの軍勢を投入することを決定したことを信時に告げている。信時には毛利の指揮下にはいるよう命じている。(『秀吉の古文書』、p256)

十月九日 ★「黒田長政 四国国替を拒否した豊後国衆・宇都宮隆房を城井城に攻める。(荒木栄司、p203)

十月二十八日 ★上杉景勝新発田城新発田重家を滅ぼす。天正九年に重家が叛旗をひるがえしてから七年、長年の宿敵新発田重家を景勝は滅ぼし、念願の越後統一を果たすことができたのであった。(児玉彰三郎、p91)

十月二十一日 ■▲三成と細川幽斎連署で島津家臣新納忠元宛てに、肥後一揆に関して油断なく伊集院幸侃の従うべきことを伝えている。(中野等、p54)

十月末 ▲「内空閑鎮房が霜野城に立て籠もる」(荒木栄司、p203)

十一月二十二日 ★秀吉から景勝に書状が送られる。新発田重家征伐を果たしたことを賀す書状である。副状として石田三成増田長盛の書状も送られている。(児玉彰三郎、p92)■「石田・増田の書状では、新発田平定の由を聞いて、秀吉公も大満足であること、九州平定・京都移徙の祝儀に兼続の弟(大国実頼)を上洛せしめられたことは、まともに尤もであること、なお、石田・増田の両人は、景勝に対して別儀なきことを誓い、最後に、来春は景勝自身上洛して、御礼を言上されるのが然るべしと存じる旨を附け加えている。」(児玉彰三郎、p92)

※秀吉は重家が滅ぼされる直前まで、三成・長盛とは別ルート(おそらく木村清久)で、重家赦免の企てをしていたようであり、上記の書状には、これに対して三成・長盛の弁明も書かれている。詳細は↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

十一月二十四日 ★出羽庄内の大宝寺義興、最上義光に攻められ、自害する。(中野等、p72)

十一月二十七日 ▲「内空閑鎮房 停戦申し出(12・1とも)」 (荒木栄司、p203)

十二月二日 ▲「安国寺恵瓊 隈本城到着」(荒木栄司、p203)

十二月三日 ★秀吉、伊達政宗重臣片倉景綱宛てに秀吉直書の形式で書状を送る。(同様の書状が他の関東・奥羽の大名にも送られている。)「文書自体の主な内容は、関東における「惣無事」について、今後徳川家康に命じたので、そのことを政宗へ達するように、また「惣無事」に違背する族(やから)には成敗を加えるので、それを了解するように、というものである。」(『秀吉の古文書』、p261)ただし、本書状は年代記載のない書状形式であるため、研究者の間でも年代比定にばらつきがあり、天正十四年・十五年・十六年の各説が唱えられている。(『秀吉の古文書』、p261)

 平山優氏は、(上記書状が天正十五年に年代比定されることを前提として)「これにより、家康は、秀吉が想定する「関東」=仮想敵国は主に北条氏、奥州=主に伊達氏、と対峙する豊臣政権の重要な柱石と位置付けられ、事実上、徳川・北条同盟は形骸化することとなった。」(平山優、p212)としている。

十二月五日 ▲肥後国衆、和仁親実の立て籠もる和仁(田中)城 安国寺恵瓊の策謀で落城。(荒木栄司、p203)

十二月十五日 ▲隈部親永の籠もる城村城、停戦申し込み。(荒木栄司、p203)

十二月十七日 ▲「小早川隆景 秀吉に城村城開城を報告」(荒木栄司、p203)

十二月二十四日 ★「宇都宮隆房の城井城陥落」(荒木栄司、p203)

十二月二十四日 ★北条氏、「全領国下に「天下御弓矢立」の発動を宣言し、指定した領国の惣人数を翌天正十六年一月十五日を期日に小田原へ招集する陣触れを通達した。こうした指令は北条氏がかつて上杉謙信武田信玄による小田原侵攻の時にも発動したことはなく、その時とは比較にならぬ非常事態宣言の発令と位置付けられ、その緊迫した危機意識を看取できる。」(平山優、p212)

十二月二十七日 ★▲ 「秀吉 肥前国主・龍造寺政家の和仁(田中)城攻略での功労を褒める。」 (荒木栄司、p203)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』岩波新書、2012年

笹本正治『真田三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

新名一仁②『「不屈の両殿」島津義久・義弘」角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

山本博文・堀新・曽根有二編『豊臣秀吉の古文書』柏書房、2015年