古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑦ 天正十六(1588)年 三成29歳-聚楽第行幸、毛利輝元・北条氏規の上洛、刀狩り・海賊停止令、庄内問題

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。▲は、肥後国一揆佐々成政関連の出来事。)

 

一月 ▲「豊後国主・大友吉統 小国に出兵して下城慶経隆を攻める」(荒木栄司、p204)

二月二日 ★島津竜伯(義久)宛近衛龍山(前久)宛書状。この書状は二通りに意味がとれ、「ひとつは、あなた(筆者注:竜伯)が侍従昇進を望んでないと世間で噂されており迷惑しているとのこともっともです。もうひとつは義房の侍従昇進に望みはないと世間で噂されている、つまり義久は侍従昇進を期待していたが、政権側にそのつもりがないと噂されており困惑している、という解釈である。」(新名一仁、p138)結局、この後、義久が「侍従」に昇進することはなく、弟の義弘が「侍従」に任官することになる。これについて、中野等氏は、「秀吉の降伏に際し、義久はすでに法体となり、「修理大夫入道竜伯」を称しており、「侍従」への任官は困難であった」(中野等、p62)としており、義久がすでに法体となっていたことが「侍従」昇進とならなかった理由と考えられる。

二月五日 ▲「島津義弘 成政援助のため肥後に入ろうとしたが、相良勢に進路を様だけられたと秀吉に申告」(荒木栄司、p204)

二月十一日 ■豊臣秀吉、「島津義弘北郷時久らに宛てた朱印状で、肥後境からの撤退を許可する。三成は、それぞれの朱印状の書き留めに「猶、石田治部少輔可申候也」として登場しており、実務を管掌したものと判断される。(中野等、p55)

■同じ書状で、秀吉は、「義弘に対し、「日州知行分出入」については義弘が上洛した際に判断すると伝えており、同時に義弘と伊集院忠棟に上洛が命じられた。」(新名一仁、p131)

石田三成と島津家の宛て関係宛ついては、↓

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二月十九日 ■島津義弘肥後国内の戦況を報じ、秀吉への「取り合わせ」(口添え)を石田三成細川幽斎に依頼している。秀吉の支持の下、三成と幽斎が島津家の指南の任にあたっていることが分かる。政権内部では、ほかに西国仕置を束ねる豊臣秀長も島津氏に関与している。(中野等、p55)

二月二十日 ▲「秀吉 肥後のため戦後処理と検地強制執行のため浅野長吉を主席とする上使衆派遣(加藤清正小西行長黒田長政蜂須賀家政ら)」(荒木栄司、p204)

二月 ▲「この月、成政は騒動になった事情弁明のため大坂へ向かったという」(荒木栄司、p204)

三月 ■秀吉、古渓宗陳に天正寺創建費用として預けた三千八百六十貫文の返還求める。この返還の催促状は、前田玄以増田長盛石田三成の奉行衆から発せられている。(谷徹也、p33~35)

詳細↓

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三月三日 ▲「内空閑鎮房 柳川城黒門口で襲われ戦死という。現在、供養の地蔵あり」(荒木栄司、p204)

四月三日 ▲「成政 尼崎に到着。秀吉に会えぬまま、尼崎の法園寺に留置される」(荒木栄司、p204)

四月八日 ▲「大津山家稜 佐々方の吉祥寺での和談中に宴席で刺殺されたという。(一説に7月23日)」(荒木栄司、p204)

四月十四日~十八日 ★後陽成天皇の京都聚楽第行幸。(柴裕之、p185)「織田信雄徳川家康ら大名達には後陽成天皇の前で秀吉への忠誠を誓約させた。」(柴裕之、p97)

■「聚楽第行幸に際して、関白秀吉はみずから禁裏に天皇を迎えに出る。秀吉の前駆として直臣が左右にそれぞれ三七騎配されるが、左列の先頭が増田長盛、右列は三成が先導した。儀礼上のこととはいえ、三成は増田長盛とともに「関白家来の殿上人」の先頭に配されたことは注目してよかろう。(中野等、p56~57)

聚楽第行幸の際、秀吉は天皇上皇・皇族・諸公家・諸門跡に、地子金・米の進上、知行の加増等を行ったが、その原資には近江国高島郡があてられている。高島郡を秀吉の代官として支配していたのは、増田長盛石田三成であり「諸公家・諸門跡の知行地からあがる年貢などは、三成と長盛の手を経由して、洛内の公家・門跡のもとに届けられたものと考えられよう。」(中野等、p57~58)

■「三成も、「関白家来の殿上人」の中心人物としてこの盛儀(筆者注:聚楽第行幸のこと)を取り仕切ったと考えられる。しかし、それはあくまで「裏方」の仕事であり、残念ながらその詳細をうかがうべき史料は確認できない。(中野等、p58)

四月十六日 ▲「名和顕輝 宇土城を追われ大口にいたが、島津忠永勢の戦いで戦死」(荒木栄司、p204)

四月 ▲「この月内に肥後国の検地終了したという。国高は五四万石」(荒木栄司、p205)

四月二十日 ★上杉景勝、上洛のため春日山城出発。(中野等、p58)

四月二十一日 ★島津義弘、比志島国貞・本多正親(義久に付いて上洛中の島津家家臣)宛に国元にいる島津家老中たちのサボタージュ(義弘の上洛にひとりの供もしようとしない、上洛費用のための反銭・屋別銭を一銭も徴収しようとしない)を伝えている。(山本博文、p54)

四月二十三日 ■石田三成細川幽斎連署の島津家臣新納忠元宛書状。「肥後一揆の鎮定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである。」(中野等、p61)

四月二十五日 ★日向の「飫肥城に入城予定の伊東祐兵は義弘に書状を送って(筆者注:飫肥城から退城しようとしない)上原に下城を命じるよう求め、従わない場合豊臣政権に通報すると通告している。」(新名一仁、p134)

四月末 ★島津義弘は、上洛のため飯野を出発。(新名一仁、p131)

五月 ★豊臣秀吉、「妙音院(富田知信)・一鴎軒(津田信勝)を使者として小田原に遣わし、「すみやかに氏政・氏直父子を上洛すべし」と伝えさせている。」(小和田哲男、p221)

五月三日 ■島津義弘充て秀吉朱印状。(中野等、p61)

五月五日 ■島津義久宛て秀吉朱印状。「いすれも端午の祝儀に関わるが、それぞれ文書の書き留めには三成の名がみえる。」(中野等、p61)

五月六日 ▲「加藤清正 北里政義に帰納(武士から農民になること)を指示」(荒木栄司、p205)

五月七日 ★上杉景勝、入京。(中野等、p58)

五月十日 ★島津義久は、国元の新納忠元への書状で、在京の苦痛を訴えている。(新名一仁、p140)

五月十一日 ■「細川幽斎新納忠元に宛てた書状には、義久を疎略にはしていないのだが長期の在京で「窮屈」になったようで、「国家のためなので御分別くださいと数度にわたりなだめた」とある」(新名一仁、p140)「幽斎は義久の「御殿」=帰国について、共に島津氏と豊臣政権の「取次」をつとめる石田三成と談合し、秀吉に取りなすつもりだと伝えている。」(新名一仁、p140)

五月十一日 ■細川幽斎の「新納忠元充て書状にも「石治少令相談(そうだんせしめ)」という文言がみられる。」(この頃三成は在京。)(中野等、p61)

五月十二日 ★上杉景勝、秀吉との対面を果たす。(中野等、p58)「その間に秀吉の腹心増田長盛に、白布二端を送っている。」(児玉彰三郎、p93)

五月二十一日 ★徳川家康北条氏政・氏直父子に起請文を遣わし、秀吉に臣従を示して氏政の兄弟衆を上洛させるよう促す。応じないのであれば、氏直に嫁いだ娘督姫を返してもらい、同盟を破棄すると警告した。(柴裕之、p97)

五月二十三日 ★上杉景勝正四位下・参議に昇任。(中野等、p58)

五月二十五日 ■「近江国高島郡百姓目安上候付書出条之事を発しているが(『駒井』)、現地に降った可能性は低い。」(中野等②、p301)

五月二十五日 ▲「北里政義に下城領を与える。北里氏は反乱を起こした下城一族討伐に貢献したからか」(荒木栄司、p205)

五月 ▲「秀吉 肥後を相良長毎・小西行長加藤清正に任せることを決める」(荒木栄司、p205)

五月二十六日 ★島津義弘、上洛のために本拠飯野を出立する。(新名一仁、p140)

五月二十七日 ▲「蜂起理由弁明に大坂に行く途中の隅部親泰・有働兼元・山鹿重安ら小倉で毛利勢に襲われ戦死。この日、隅部親永・隅部親房らが柳川で戦死の説あるも、一説に閏5月27日」(荒木栄司、p205)

閏五月 ★この頃には家康の仲介により、北条氏の秀吉への従属の申し入れが行われ、秀吉により北条氏の赦免が決され、両勢力の講和が成立した。(中野等、p60)

閏五月 ★毛利輝元、肥後一揆の鎮圧後、居城吉田郡山城に凱旋。上洛の準備を進める。(中野等、p59)

閏五月十一日 ■京都にいた島津義久は、石田三成細川幽斎から、未だに上原尚近が飫肥城から退城しないことを責められ、「上原に直接書状を送り、飫肥城籠城を「言語道断曲事」と糾弾し「不忠之至」だと叱責して下城を命じた」(新名一仁、p134)

閏五月十四日 ★「摂津国尼崎で佐々成政肥後国一揆勃発の責任により自刃させる。」(柴裕之、p185)「佐々成政の遺領肥後は二分割され、北肥後に加藤清正が封じられ、隈本を本拠とし、南肥後に小西長が封ぜられ、宇土を本拠としている。」(小和田哲男、p213)

閏五月十四日 ▲「清正 戦死した下城経隆の妻子を探し出して殺すよう北里政義に指示」(荒木栄司、p205)

閏五月 ▲「相良長毎・小西行長加藤清正肥後国を三分割統治することになる」(荒木栄司、p205)

閏五月二十日 上杉景勝高野山の参詣を思い立ち、この日、奈良に着いている。(児玉彰三郎、p93)

閏五月二十三日 ★島津義弘、堺に到着。(新名一仁、p131、141)

閏五月二十五日 ★島津義弘、兄義久と対面。(新名一仁、p142)

閏五月二十七日 ■「要請を受け五月二十三日に堺に着津した島津義弘を応接するため、三成は二十七日までに堺まで出向いている」(中野等、p61)

 中野等氏の『石田三成伝』では、「閏五月」ではなく「五月」とされていますが、(新名一仁、p131、141)によると島津義弘は、閏五月二十三日に堺に着いたことになっています。こちらが正しければ、三成が堺に出向いた日も閏五月二十七日だと考えられます。(新名一仁、p140)では、五月二十六日に義弘が飯野を出立した記載になっていますので、「閏五月」が正しいと考えられます。

閏五月下旬 ★上原尚近は、「豊臣秀長が「朱印状」を持たせて派遣した上使を討ち果たすという暴挙に出て、秀長を激怒させている。」(新名一仁、p134)

六月二日 ■細川幽斎石田三成とともに島津義弘、上坂。(中野等、p61)

六月四日 ★島津義弘、秀吉に拝謁。その後、「島津義弘従五位下・侍従に叙任され、さらに従四位下に叙位され、豊臣姓・羽柴苗字を許される。」(中野等、p61~62)「この時(筆者注:六月四日の秀吉拝謁時)義弘は秀吉から、直接「公家にしてやる」と言われている」(新名一仁、p141)

六月五日 ★義弘、大坂城千利休の手前で茶を振る舞われ、「秀吉はその場で細川幽斎に対し義弘の「公家成」支度を命じ、「在坂料」として二〇〇石を与える旨を伝えられている」(新名一仁、p141)

六月七日 ▲「清正 下城伊賀を討ったことで北里左馬助を褒める」(荒木栄司、p205)

六月十三日 ▲「小西行長加藤清正 肥後へ出立」(荒木栄司、p205)

六月十五日 ★「(筆者注:高野山)参詣をすませて帰洛した景勝に、秀吉は六月十五日、近江国蒲生・野洲・高嶋三郡の内において、一万石の地を宛行って、在京の賄料とすべしとの朱印状を与えた。」(児玉彰三郎、p94)「なおまた、京都の邸地を一条下戻橋に給わ」(児玉彰三郎、p94)った。

六月十五日 ★島津義弘は、「従五位下侍従」に叙任し「公家成」した。(新名一仁、p141)

六月十五日 ★島津義久と義弘、起請文を交わす。(新名一仁、p141~142)

六月二十日 ■「六月二十日付の上井秀秋書状には、日向国の図田状(一国単位の土地台帳)のことで事前に三成に相談する、という件がみえていた」(中野等、p64~65)

六月二十二日 ▲「行長・清正 豊後鶴崎に上陸」(荒木栄司、p205)

六月二十七日 ▲「行長は宇土城に、清正は隈本城に入る」(荒木栄司、p205)

七月五日 ★豊臣秀吉は、島津義久に充て、「在京賄料」として、摂津・播磨国内で一万石の領知を与えた。(中野等、p62)

七月八日 ★秀吉、「刀狩りと海賊停止令を命じる。」(柴裕之、p185)刀狩り令については、天正十三年の際の紀州攻めのときにだされた「原刀狩り令」を徹底したもので、肥後一揆の際に百姓が多く加わり、それぞれ刀を持って戦い鎮圧に手間取ったことの反省によるものとされる。(小和田哲男、p213)

七月十四日 ★徳川家康が家臣の朝比奈泰勝に、北条氏規の上洛を督促する使者として北条氏の許へ向かう事を命じる書状を出している。(小和田哲男、p224~225)

七月十九日 ★毛利輝元大坂城に入る。(中野等、p59)

七月二十二日 ★刀狩りは、大仏建立の釘やかすがいに用いるためとしたが、『多門院日記』七月二十二日条では、「「内証は一揆を停止するためなり」」(小和田哲男、p213)とある。

七月二十二日 ★毛利輝元、初めての上洛を果たす。(中野等、p59)

七月二十三日 ■石田三成は浅野長吉とともに、輝元の京都の宿所上京妙顕寺を秀吉の使者として訪れ、米千石を呈上した。(中野等、p59)

七月二十六日 ■石田三成は、二十三日の返礼として、太刀一腰と銀子三〇枚を受けている。(中野等、p59)輝元が秀吉の家来衆にあてた進上品の厚薄のなかでは、浅野長吉が最も厚く、これに前野長康・富田一白が続き、三成は増田長盛と同等の扱いでこれに次ぐとされている。(中野等、p59)

七月二十七日 ★毛利輝元正四位下・参議に叙任される。(中野等、p60)■輝元の国許下向に際して、三成は「一廉之物」とされる脇差二腰を受けている。(中野等、p60)

七月末 ★秀吉によって「「真幸院付一郡」が諸県郡であることが認められたようであり、ようやく日向国内各大名の領域が確定する。天正一六年八月四日から五日にかけて、日向国内各大名に対し領知宛行状と知行方目録が発給されている。」(新名一仁、p132)

八月七日 ■島津「義弘は国元の新納忠元に書状を送り、自身が「公家成」したことと、義久の帰国が決まった事を伝えている。細川幽斎石田三成の秀吉への取りなしが成功したのであろう。」(新名一仁、p143)

八月十日 ■石田三成は、「在京賄料」として、島津家に与えられた摂津・播磨国内の領知について(おそらく)義久充てに書状を発している。三成はこの領知についての調査を詳細に行っており、領知の「打ち渡しに際しては三成の細やかな配慮があった」(中野等、p62~64)ことが分かる。

八月十日 ▲「秀吉 肥後在留の諸将に一〇月の米の収穫終了までは留まれと指示」(荒木栄司、p206)

八月十七日 ▲上杉家重臣、直江「兼続も従五位下、豊臣兼続として、山城守に任じられた。」(児玉彰三郎、p93)

八月十二日 ▲「秀吉 城久基に筑前の内八〇〇町、名和顕孝に五〇〇町を与えるよう小早川隆景に指示」(荒木栄司、p206)

八月十二日 ■「島津義久・義弘兄弟が連署して三成・長岡玄旨(細川幽斎)に書状を発し、日向南郷を伊藤氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取り成しを依頼している。」(中野等、p64)

八月十二日 ★琉球中山王充て島津義久書状。これまでも琉球に来聘を促しているのに無視されていることを咎め、本来ならば追討すべきところだが、長年の関係を考えるとそれも憚られるので、すみやかな使節の派遣を求めている。「島津義久がみずからの判断でこうした要求を行ったというより、なんらかの秀吉の意向が背景にあったと考えるべきだろう。」(中野等③、p12)★実際にこの書状が琉球に送られたのは、十一月であり、義久は秀吉の命令を意図的に遅らせたとみられる。(新名一仁、.p152)

八月二十二日 ★「相模北条氏が当主・氏直の叔父・氏規を上洛させて、京都聚楽第で臣従を示す。」五月二十一日の徳川家康の「最後通告」を受けての対応だった。(柴裕之、p185)

 なお、この日の謁見には、「家康・毛利輝元織田信雄豊臣秀長宇喜多秀家上杉景勝島津義弘ら」(小和田哲男、p225)が同席していたという。

 この時、北条氏規の「「沼田問題が解決しなければ氏政の上洛はない」との主張に対し、秀吉が「国境問題をはかるため家老をよこせ、解決するようにしよう」と約束した」(小和田哲男、p225)とされる。

八月二十六日 上杉景勝、帰国。(児玉彰三郎、p94)

九月 ■秀吉、古渓宗陳を筑前博多に配流。(中野等、p55)

九月 ■島津「義久・伊集院幸侃らが薩摩に戻る。三成はその後も上方に留まる義弘と、さまざまな交渉を続けている。」(中野等、p65)

九月 ■大宝寺千勝丸(最上義光によって自害に追い込まれた大宝寺義興の養子、上杉家臣本庄繁長の実子)、実父の本庄繁長の支援を受けて親最上勢力を鎮圧し、庄内を奪還する。最上義光はこれを「惣無事」令違反と訴える。(中野等、p65)

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九月二日 ■秀吉は、北条氏規の上洛を受けて、「北条氏政か氏直の上洛と出仕を命じ、九月二日付朱印状を発し、関東八州への上使派遣と諸勢力の領域確定を実施することを告げる。」(中野等、p60)この朱印状は、北義斯・東義久(佐竹一門)、太田道誉・梶原政景(佐竹配下)、多賀谷重経・水野勝俊(結城家中)宛に送られている。「いずれの文書も、書き留めは「委細、石田治部少輔可申候也」となっている。いずれも充所が佐竹関係あるいは常陸国内の勢力だからであろうか、上使派遣の詳細は三成から告げられることになっている。」(中野等、p60~61)

九月八日、十日 ■石田三成の在坂が確認できる。(中野等②、p301)

九月十日 ★島津「義久の従兄弟で大隅清水領主であった島津以久に対しても、秀吉から直接「其方本知事」を安堵する旨の朱印状が下されている」(新名一仁、p144)

九月十一日 ★「秀吉は、朱印状をもって、景勝に対し、越後国中において、鶴・白鳥・鳫・鴨外諸鳥をうち、進上すべきことを命じている。」(児玉彰三郎、p94)

九月十四日 ★島津「義久は義弘・久保に見送られ、堺を出港して帰途についた。」(新名一仁、p143)■「同日付で義久は石田三成細川幽斎に書状を送り、「伊集院忠宗の肝付郡目録を承りました。去年分の年貢についてはすべて今年命じます。もし上納を渋るものがいれば島津家から納入します」と伝えている」(新名一仁、p143)

九月二十日 ▲「内空閑鎮輝 霜野城を攻められて自害

このころまでに、甲斐宗立・白間野宗郷・伊津野将監ら討たれる」(荒木栄司、p206)

十月五日 ★島津義久日向国細嶋に上陸。(新名一仁、p145)

十月二十二日 ■島津家臣伊地知重秀充て島津義弘書状。(義久への披露状)。

「◇琉球派遣の御使者についての不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰っていますので、このように(あらためて指示を)行います。琉球のことがもし不調に終わるようでしたら、義久様のためにもなりませんので、よくよく指示を下し、油断なく配慮するように。詳しい支持は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません。

 なお、明に渡った賊船については真剣に追求すべく、これまた精を入れしっかりと命じるべきです。かえすがえすご油断のないように。」(中野等、p65~66)

十一月二十四日 ★上杉景勝は、本庄繁長に使者を送り、庄内の戦勝を祝し、虎皮一枚を贈った。(児玉彰三郎、p94)

十一月二十八日 ■秀吉、「三成に充てて相良家からの人質への扶持方配当を命じる朱印状を発する。」(中野等、p66)「相良家の奏者をつとめる三成は、相良家から差し出された人質の扶持方差配の責任を課せられたのである。ちなみに、深水・犬童の両家は相良家の家老にあたる。これは肥後相良家の事例だが、島津家他の場合でも、三成が奏者をつとめる家々についても、同様の関わりをもったとみて大過なかろう。」(中野等、p67)

十二月 ■「島津氏に充てた歳暮の秀吉朱印状にも(筆者注:石田三成は)取次として名を見せている」(中野等②、p301)

十二月九日 ■上杉景勝充て豊臣秀吉直書。

「◇(必要にかられ)態々(わざわざ)手紙を書く。最上領に属すると伝え聞く庄内城を本庄勢が制圧したらしいが、事実か。双方の言い分を聞きたいと思うが、年内は日数もないので、年明けに最上(山形)を召喚する際、本庄も上洛させるように。双方の状況を聞いて合理的判断を下すので、それまで互いに手出しをしないように、最上へも命じている。(上杉・本庄側も)下々が勝手なことをしてはならない。さらに往来の道中に関わる者たちも、支障のないよう堅く命じる。なお増田長盛石田三成も申述する。」(中野等、p73)

十二月十二日 ★島津「義久は、北郷忠虎と起請文を交わし、島津家に対する「無二」の「忠勤」と日向国内の秋月・高橋・伊東と「入魂」にならないように約束させている。」(新名一仁、p144)

十二月二十八日 ■本庄繁長充て上杉景勝書状。

「◇確実を期し、脚力(飛脚)に手紙を届けさせる。出羽庄内のことについて、最上(山形)が抗議を行ったので、このように秀吉直書がもたらされた。両人の奏者(三成と長盛)の言い分によると、その方(本庄繁長)が片時も急いで上洛すべきであるが、その方には政務があるだろうから、急いで息子の千勝(筆者注:大宝寺義興の養子・本庄繁長の実子、(のちの)大宝寺義勝)を上洛させるのが尤もであろう。委しいことは直江兼続(山城守)が言ってよこす。」(中野等、p73~74)

十二月末 ■石田三成は、この年末には堺奉行を退いたようである。(中野等、p67)

十二月末 ■芦名義広家臣・金上盛備、上洛し秀吉の歓待を受ける。(中野等、p76)

冬 ■島津義久石田三成に国元の荒廃を嘆き、自分(義久)と義弘と久保の三人が交代で一年ずつ上洛する体制にしてほしいとの書状を送る。また、出水領主島津忠辰が義久を支持を受けようとしないため、注意してほしいとも依頼している。(山本博文、p55~56)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』(戎光祥出版、2018年)所収)

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)