古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑧ 天正十七(1589)年 三成30歳-聚楽第落書事件、庄内問題の結着、摺上原の戦い、美濃国検地、名胡桃城奪取事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。)

この年 ★「内裏の修築(築造)が行われ、その周辺に公家が住む屋敷が置かれた。寺院町は寺院を移転し、一定地区に集中させて形成された。」(柴裕之、p100)

一月二十一日 ■島津義久充て石田三成細川幽斎連署状。書状の内容は、「箇条ごとに内容を追うと、巣鷹(巣にいる鷹のひな)の徴発、琉球問題への対処、造営中の東山大仏殿(方広寺)への用材調達、刀狩り、勘合(対明貿易)、賊船の取り締まり、などである。」(中野等、p67)

■同日の伊集院幸侃・島津忠長充て石田三成細川幽斎書状。

内容は、

屋久島の檜・杉を、残らず残らず書き出したうえ、島の者には一本も伐採してはならないと申し付けるよう命令。

・刀狩りを命じているのに、未だに提出がされていないことへの督促。提出していないのは貴殿の領国のみなので速やかに提出せよ、としている。

琉球国が未だに秀吉に使節を派遣していないのを批判。上方の軍勢が琉球を征服しようと思ったらさしたる時間はかからず、そうなれば島津の面目も失われるだろう、(琉球使節派遣の)命令を遂行しなければ御家(島津家)の滅亡である、としている。

・明との勘合を、明から望むように交渉するよう要請。

・賊船(倭寇)の取り締まりを要求。

などである。(山本博文、p57~60)

二月 ★秀吉、北条氏の使者として派遣された板部岡江雪斎から徳川氏との国分交渉の内容と経緯を聴聞したうえで、北条氏政の上洛・出仕を条件として、沼田・吾妻地域の三分の二(沼田城を含む)を北条氏へ、三分の一(名胡桃城を含む)を真田氏へ引き渡すという裁定をくだす。さらに秀吉は家康に真田氏へ割譲分の代替地を渡すよう指示。家康は、信濃国伊那郡を真田氏に与える。(柴裕之、p105)

二月二十九日 ★秀吉は、大坂天満の本願寺に対し、寺内にいる牢人衆の身柄引き渡しを命じる。これに先立ち、秀吉の政策を批判する「落書」が聚楽第の白壁に見つかる事件が発生しており、牢人衆はこの「落書」事件に関わったとみられる。(中うなしなわれる

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三月一日 ■「秀吉は三成と増田長盛本願寺に遣わし、関係者の身柄引き渡しを命じる。本願寺は、尾藤次郎右衛門尉入道道休なる人物を自害させ、その首級を三成らに渡した。」(中野等、p68)

三月二日 ■「本願寺は、三月二日付で三成・増田長盛を充所として起請文を発する。」「起請文の内容は、牢人衆を謀反人として、本願寺が彼らを隠匿したにもかかわらず、教団としての成敗を免れたことに謝意を表し、今後「勘気の輩」や「科人」を匿った場合には教団として成敗されることを甘んじて受け入れると、誓約するものとなっている。」(中野等、p69)

三月七日 ★「牢人衆の隠匿に直接関わった願徳寺は、七日の夜に自害した。」(中野等、p69)

三月八日 ★「尾藤道休の妻子や関係する町人ら六六人は京都に護送され、翌九日彼らはことごとく六条河原で磔にされる。」(中野等、p69)

三月十三日 ■石田三成増田長盛本願寺に「条々」を下す。これにより、本願寺は武士や奉公人を抱え置くことや、追放された牢人等を助勢・保護することも禁じられた。本願寺教団はその自律性を剥奪され、ある種の「治外法権」も完全に否定された。この後、本願寺は秀吉政権への絶対服従を余儀なくされることになる。(中野等、p69~71)

三月二十四日 ■石田三成、蘆名家宿老、富田氏実への返信を送る。蘆名家家臣金上盛備が昨年末上洛して秀吉の歓待を受けた事の礼状に対する返書。当主の蘆名義広自身の上洛を促す内容である。(中野等、p76~77)

三月二十四日 ■石田三成家臣(徳芳・清源)、同日付で芦名義広重臣、富田氏実・平田氏範・針生盛信へ書状を送る。内容は同じく当主蘆名義広の年内の上洛を促している事、義広の上洛が難しければ富田殿父子のどちらかが上洛し、義広が上洛できない理由を説明いただくことになる事、越後(上杉)と会津(蘆名)の境目の件について三成から上杉家へ説明を行っている事などが書かれている。この後も、石田三成は蘆名家との交渉を担っているが、「この前提には義広の実家である常陸佐竹氏の存在が考えられる。」「のちの状況からの推測にはなるが、三成は増田長盛とともに、佐竹義宣の奏者と位置づけられていた可能性が高く」このため、佐竹氏を実家とする会津蘆名家に対しても奏者の役割を担っていたものと考えられる。(中野等、p77~79)

四月六日 ■島津義弘、義久に二度目の上洛をすすめる。諸国の大名が大仏殿普請のためみな上洛を命じられる中、義久のみ国元にいるのは許されなかった。義弘が上洛を要請したのは、石田三成からつよい督促があったためである。(山本博文、p61~62)

五月 ★伊達政宗会津蘆名領に侵攻する。(中野等、p79)

五月中旬 ★大宝寺義興の養子千勝丸(上杉家臣本庄繁長の実子)、上洛のため国許の出羽庄内を発する。(中野等、p74)

五月二十七日 ★豊臣秀吉と「淀殿との間に長男の鶴松が生まれる。」(柴裕之、p185)

六月五日 ★会津摺上原の戦い。蘆名・佐竹連合軍と伊達政宗が戦い、蘆名・佐竹連合軍が大敗した。蘆名義広は黒川城を捨てて常陸に逃れ、政宗は黒川城に入り会津を抑えた。(中野等、p79~80)

六月二十八日 ★千勝丸、上洛。(中野等、p74)

七月 ★「佐竹方だった白河義親が政宗に従属した。」(武井英文、p221)

七月一日 ■石田三成家臣(素休・徳子・潜斎)、摺上原の戦いで討ち死にした蘆名重臣、金上盛備の息子盛実充てに書状を送る。以下内容の要約。

・このたびのお父上のご不幸、残念なことでした。しかし蘆名義広様に対する忠節はひろく知れることになりました。

石田三成から越後(上杉氏)に事情を伝えたので、越後からの支援があるでしょう。

・そちらの状況を知らせるため、確実な使者を立てて、三成まで連絡ください。

・鉄砲百挺・鉛・焔硝・硫黄を越後の廻船で送ります。

・義広様へここで申し上げたことについてお取りなし、その他各所へ書状で連絡いたします。

・秀吉様の耳にも入っていますが、きっと伊達が悪いと仰せられるので、本懐までは時間もかからないでしょう。油断なく防御に努められるのがよいと思います。石田三成が苦心していることは神々に対しても偽りではありません。

・兵糧などの御用は早めに指示ください。越後にて対処します。(中野等、p80~82)

七月四日 ■千勝丸、秀吉に拝謁。京で元服した千勝丸は、大宝寺家継承を秀吉から承認され、実名を義勝と称するようになる。従五位下に叙され、左京大夫の官途名を許される。この間、三成は増田長盛とともに、千勝丸の大宝寺家継承の周旋を行っていた。(中野等、p74)

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七月四日 ★秀吉、上杉景勝へ直書を発し、蘆名氏を支えるよう上杉・佐竹両氏へ命じている。(中野等、p84)

七月五日 ■石田三成、富田氏実・平田氏範・針生盛信・金上盛実宛に書状を送る。救援のため鉄砲等を送ることを知らせている。(中野等、p83~84)

七月十二日 ■石田三成家臣(素休・浄源・徳子)、金上盛備宛に書状を送る。救援のため上杉景勝石田三成から兵糧を送ることを知らせている。(中野等、p85)

七月中旬 ★伊達政宗より、前田利家・富田一白・施薬院全宗宛に書状が届く。内容は、摺上原の戦いの勝報、会津の奪取について。「秀吉へは彼らから注進されたものと考えられる。」(中野等、p86)

七月十三日 ★富田一白、伊達政宗への返書。「会津攻めの一件はすでに上杉景勝から秀吉の許に報じられていることを告げている。さらに、秀吉に対するすみやかな弁明を促し、みずからも秀吉の代官として関東へ下向する旨を報じている。」(中野等、p86)

七月十六日 ★秀吉、上杉景勝に直書を発する。「景勝の佐渡平定を諒として、堅実な支配の遂行を求めている。」(中野等、p84)■この「朱印状に増田長盛とともに取次として三成の名がみえる。」(中野等②、p301)

七月二十一日 ★「相模北条氏に信濃真田氏との係争の地にあった上野国沼田・吾妻両領を裁定に基づいて引き渡す。」(柴裕之、p185)

七月二十一、二十二日 ★「前田利家や施薬院全宗らが伊達政宗に充てて書状を発し秀吉への取り成しを約している。しかしながら、秀吉はここに至る政宗の振る舞いには強い不信を募らせており、政宗からの弁明を強く求めた。」(中野等、p86)

七月二十二日 ★施薬院全宗、伊達政宗へ書状を送る。蘆名家は豊臣政権にしきりに服従の礼をとってきており、その蘆名家を私的な理由で討ち果たしたことで秀吉の機嫌を多く損ねていることを知らせた。京(豊臣)の意向を踏まえないと重大な過失となることを告げ、弁明の使者を送るか、その必要がないかは御分別次第だとしている。(中野等、p89)

七月二十六日 ■石田三成、金上盛実へ書状を送る。盛実は、当時蘆名義広と離れて越後津川城に拠り上杉景勝を頼っていた。三成は、盛実が(蘆名家と同盟している)景勝を頼るのは仕方ないが、義広に従わないのは問題だと非難している。また、公儀への取り成し、兵糧・鉄砲・弾薬の補給も約した。(中野等、p87~88)

八月 ★秀吉、宗氏に朝鮮国王を服属させるよう重ねて命令。このため、正使として博多聖福寺の景轍玄蘇正使、宗義智副使として朝鮮に渡り、日本への通信使を重ねて要請。(北島万次、p208)

八月十日 ★島津義弘、大坂を発って帰国の途につく。(山本博文、p62)(新名一仁、p148)

八月十六日 ★伊達政宗、弁明の使者として遠藤不入斎を上洛させる。(中野等、p90)

八月二十四日 ★島津義久、国元を出発し、京に向かう。(山本博文、p62)

九月二十四日 ★島津義久、大坂に到着。その後京都で秀吉に謁見した。(山本博文、p62)

九月二十八日 ★上杉景勝充て秀吉直書。「伊達政宗左京大夫)が何事も秀吉の命に従うと承諾した旨、(秀吉が)お聞きになった。しかしながら、(政宗が)会津を返還しないようなら、軍勢を出し制圧するつもりである。そう諒解し、境域について佐竹と相談し、厳重に支配することが肝心である。」(中野等、p91)■「ここにも三成と増田長盛が取次として登場する。」(中野等②、p302)

九月 ★これまで、越後津川城に拠って伊達政宗に抵抗していた金上盛実、伊達政宗に降伏。伊達家に服従する。(中野等、p92)

九月 ★朝鮮側、秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を決定。(北島万次、p208)

十月 ★琉球使節聚楽第で秀吉に謁見し、琉球国王尚寧王)の国書を呈する、(新名一仁、p152)

十月一日 ■秀吉、石田三成大谷吉継に充てて検地に関する「御掟条々」を発する。これはこの年に行われた美濃国検地実施に関わるものと考えられる。(中野等、p92)

十月十六日 ■石田三成増田長盛近江国伊香郡富永荘に年貢の納め様について訴えがあったため、裁許状を発している。(中野等、p94~95)

十月二十四日 ★川上経久(島津家の弓馬師範)充て島津義久書状。これによると、「秀吉から器量を認められた久保に対し、「縁重」(縁組み・結婚)と、次期島津宗家家督とすることを命じられたようで、義久はこれを了承する。この「縁重」とは、義久の人質としてともに上洛した三女亀寿との縁組である。」(新名一仁、p149)

十月二十六日 ★伊達政宗、「岩瀬二階堂氏を攻めて十月二十六日に須賀川城を攻め落として滅亡させた。」(竹井英文、p221)

十一月 ★「十一月には石川昭光も従属し、岩城常隆とも和睦するなど、政宗の領国は南奥の大部分に拡大し、奥羽最大の大名へと急成長を遂げていった。それでもなお、相馬氏は伊達氏との争いを続け、秀吉がやってくる直前まで駒ヶ嶺城を攻撃するなどしていた。」(武井英文、p221)

十一月三日 ★相模北条の家臣で上野沼田城の城主を務めていた猪俣邦憲が上野名胡桃城を奪取する。(柴裕之、p106。)

十一月十四日、十六日 ■秀吉の伊来忠次への美濃国内五千石の宛行状を受けて、石田三成・浅野長吉と連署で十一月十四日付の知行打渡状を発給している。また、十六日付美濃国内で三〇〇石を南宮領として打ち渡しをしている。(中野等、p95)

十一月二十日 ■島津義弘周辺の者による覚書。島津義弘二男久保の家督継続・義久娘亀寿との縁組につき、秀吉の上意があり、これに対する御礼として義弘が進物を贈ること、亀寿と久保の上洛時期は石田三成の内儀=意向を確認することが記されている。(新名一仁、p149~150)

十一月二十一日 ■真田昌幸充て秀吉直書。「秀吉はとりあえず来春には行動を起こすので、それまではしかるべく軍勢を配し、北条方を抑え込んでおくように命じた。例によって、詳細は浅野長吉(弾正少弼)と三成が申し述べると言っている。」(中野等、p96)

十一月二十四日 ★秀吉、「相模北条氏への「征伐」の意向を示した「最後通告」を行う。」(柴裕之、p185)

十一月二十五日 ■石田三成島津義久宛返書。「秀吉の側で終日働いた結果、御前を退出する義久への挨拶もままならなpったと陳謝している。」(中野等、p99)北条征伐の準備等に忙殺されていたのであろうか。

十一月二十五日 ■石田三成・浅野長吉・増田長盛尾張聖徳寺に寺領打渡状を発給する。(中野等、p95)

十一月二十八日 ■石田三成、南奥州の相馬氏などに書状を発する。「三成はここに至る北条家側の態度を糾弾し、相馬家にも小田原出勢を促し、秀吉への忠節を求めたのである。」

十二月七日 ★北条氏直、豊臣家臣、豊田一白・津田信勝に弁明の書状を送る。上洛遅延及び名胡桃城奪取事件の弁明であったが、秀吉にはこの弁明は通らなかった。(小和田哲男、p234~235)

十二月二十六日 ★佐竹義宣、上杉家中の直江兼続・木戸寿三に書状を発する。「内容は、上杉景勝の上洛を祝し、上杉勢の伊達領(会津)侵攻を懇望する、というものだが、それに関連して蘆名義広の身上復活に触れている。蘆名家の復活自体は、もちろん秀吉自身の意向を前提とするものであり、秀吉は大関晴増を使者として、そうした意向を伝えてきたようである。おそらく、そこには三成の副状ももたらされたのであろう。蘆名家の復活にむけた具体的方策は、三成の「内意」に沿って進められようとしているのであり、さらにいえば、三成の「内意」が伴って、はじめて秀吉の指示・命令が実態化するといってもよい。佐竹義宣は蘆名家の復活をさらに具体化するため、上杉家の後援を求め、上記のような書状を発したのである。」(中野等、p101~102)

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』岩波新書、2012年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

竹井英文『列島の戦国史7 東日本の統合と織豊政権吉川弘文館、2020年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)