古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑩ 天正十九(1591)年 三成32歳-大崎・葛西一揆の鎮圧、伊達政宗上洛、千利休切腹、九戸政実の乱(九戸一揆)、三成の佐和山入城、秀次の関白任官

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

 

正月十日 ■石田三成、相馬に到着。これを受けて、伊達政宗は正月晦日には黒川に到着する見込みのもと、伊達家中に対して二十五、六日の黒川集結を命じる。(中野等、p131)

正月 ★伊達政宗蒲生氏郷の間で和解がなる。政宗一揆与同の嫌疑が晴れたことで、豊臣秀次を総大将とする大崎・葛西一揆鎮圧軍の派遣が取り止めとなる。(柴裕之、p112)

政宗の「嫌疑が晴れた」と書かれてはいますが、この後、政宗一揆与同の嫌疑の糾明のため、秀吉に上洛を命じられていますので、嫌疑が完全には晴れてはいない事が分かります。

正月二十二日 ★豊臣秀吉の弟、秀長死去。(柴裕之、p186)

正月二十八日 ★朝鮮使節一行、釜山浦に帰る。この使節には回礼使として景轍玄蘇・柳川調信が同行し、秀吉の要求を「征明嚮導」から「仮途入明」に緩和して協力を要請する。(中野等③、p17)

正月三十日 ★秀吉から、上洛を命じられた伊達政宗、米沢を出発。(柴裕之、p112)

閏正月四日 ■佐竹義宣充て石田三成書状。黒川に諸将が集結しており、三成・義宣もここに参陣していた。

「◇先ほどはお出でい頂き感謝します。明日はそちらへ伺いますので、必ずお会いしお話をしたく存じます。鶴はそちらで料理頂くということですので、こちらから持参します。御茶はしばらく執着もしておりませんので(うまく点てられるか)どうかと思いますが、(とりあえず)明日持参いたします。御逢いできることを楽しみにしています。」(中野等、p132)

参考↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 この後、伊達政宗が召喚に応じたのを受け、三成も帰京した。(中野等、p133)

閏正月十二日 ■石田三成、武蔵岩槻に到着。(中野等②、p303)

閏正月二十日 ■島津義弘、嫡男久保に手紙を送る。「「いつも言っているように酒を飲み過ぎないように肝に銘じよ。細川幽斎石田三成も酒を飲み過ぎないよう何度も龍伯様=義久を説得している」と記している。」(新名一仁、p157)等とある。

閏正月二十七日 ★上洛途中の伊達政宗、清須で秀吉に謁見。(中野等、p133)

閏正月 ★豊臣秀次及びその家臣団の移封に伴い、近江国の検地行われる。(中野等、p140)

閏正月 ★京都の御土居の工事始まる。(柴裕之、p186)

閏正月~二月 ★島津義久、豊臣政権内の誰か(細川幽斎もしくは石田三成とみられる)に書状を送る。財源不足で、名護屋の普請・唐入りの準備が難しいことを述べている。また、久保の上洛を命じたが延引していることを知らせた。自分は老いぼれたので、今後の命令は義弘・久保に命じていただけないかともあり、隠居も示唆している。(新名一仁、p158)

二月  ★京都の御土居の工事が大方できあがる。(柴裕之、p186)

二月四日 ★伊達政宗、上洛。(中野等、p133)

二月九日頃 ★秀吉、伊達政宗に旧大崎・葛西領への移封を命じる。(柴裕之、p186)

二月十三日 ★千利休、堺へ追放を命じられる。(白川亨、p29)

二月十五日 ■この頃には、石田三成の在京が確認される。(中野等、p133)

⇒上記のように、この年二月の石田三成は奥羽から帰還している途中であり、二月十三日に実際に在京していたか自体も確認できません。俗説で言うような「石田三成千利休追い落としを画策していたような説」は、この時期の石田三成が奥羽の事態収拾にかかりきりだったことを考えると、時系列的には非現実的な説といえます。

二月二十六日 ★洛中に秀吉の政策を批判する十首の「落首」が掲げられる。(小和田哲男、p265~266)

二月二十八日 ★千利休、秀吉の怒りにふれ、自刃に追い込まれる。(柴裕之、p186)

参考↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

三月 ★陸奥南部一族の九戸政実らが一揆を起こす。(柴裕之、p186)

三月十三日 ★九戸政実、櫛引・久慈・七戸氏らを誘い、石川(南部)信直方の城を攻撃。南部家当主の後継を巡って、同じ南部一族の政実が信直の後継に不満を持ったことによるもの(九戸政実の乱・九戸一揆)。(小和田哲男、p258)

三月 ★秀吉の甥である豊臣秀勝岐阜城入部。(中野等、p138)■これに前後して、石田三成美濃国内に領地を与えられたようである。(中野等、p138)

四月十日 ■石田三成、秀吉に従い大津に逗留。(中野等②、p303)

四月十九日・五月七日 ■島津義弘、国元に重臣談合のために派遣した島津家家臣・鎌田政近に書状を送る。概要は以下のとおり。

「・これまで親切だった取次の石田三成の態度が豹変し、「島津家滅亡ハ程有間敷」(島津家の滅亡はまもなくであろう)と言うようになった。これは島津家が国持大名であるにもかかわらず動員がなく無勢であり、関白様の御用に立たないからである。

・京都・大坂を往復する際、島津家では騎馬が五騎、三騎ほどで、槍を持つ供衆すらいない。これは同じ九州大名の龍造寺・鍋島・立花・伊東にも劣っており、「言語道断沙汰之外」である。義久・義弘ともに二度も上洛しているのだから、京都の様式・侍の風体は知ったはずであり、恥ずかしい。

・島津家は豊臣に何の忠貞もなく、屋敷作りも人並みにできず借物(借金)に頼るばかりである。多くの扶持をもらいながら借金するのは不届きであり、それは「国之置目」=国元の支配がいいかげんだからである。

・義久が下向する前、細川幽斎にて国元の置目や屋形作りの処置について石田三成から丁寧に指示があったのに、いまだに実現できていない。これはひとえに義久が心得ていないからである。石田三成は無駄なことを言ったと後悔している。

・義久は取次=細川幽斎石田三成が島津家内部のことまで立ち入って「熟談」するのは不要と考えていると聞いた。一方、三成は島津家の存続は難しく、良くて国替えで「御家滅亡」はまもなくだと言っている。

・「国の置目」をいいかげんにせず借金をしなければ、騎馬武者の一〇人、二〇人も引き連れ「外聞」も国持大名らしくなり、屋作りも人並みに準備できる。

・「京儀」=京都での豊臣政権への奉公に精を入れるものは国元衆から嫌われ、義久もこうした国元衆に同意して「京儀」を重視していないと、石田三成は聞き及んでいるという。義久以下小姓衆・小者、女房衆に至るまで政権批判をしないように。」(新名一仁、p161~162)

 新名一仁氏は、「本当に石田三成が義弘に突然冷たくなって島津家を見放すようなことを言ったのかは分からない。恐らく、三成か安宅秀安(筆者注:石田家重臣・島津家との交渉役)がそのように国元に伝えるよう義弘にアドバイスしたのではないだろうか。つまり、「京儀」をないがしろにする義久や国元衆に対し、政権側が島津家を潰そうとしていると脅すことで、義弘がコントロールできるように示唆したのではないか。」(新名一仁、p163)としている。

参照↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

四月二十七日 ■三成、「近江国犬上・坂田郡美濃国の豊臣蔵入地代官に命じられ」(中野等、p140)る。

五月 ★上杉景勝らによって出羽国一揆が平定される。(柴裕之、p186)

五月三日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家、全国の諸大名に秀吉の意向として「大名の領知内容を「御前帳」「郡図」に仕立てて呈上するように命じ」(中野等、p135)る。

五月三日 ■「前田玄以石田三成ら奉行衆四名は在京中の(筆者注:島津)義弘に対し、「御国之知行御前帳」を来る一〇月までに調達するよう命じる。」(新名一仁、p166)

五月三日 ■三成、家中の北畠助大夫に対して美濃国内の知行を宛行っている。この頃の三成の石高は、一〇万石程度と想定される。(中野等、p138~139)

五月九日 ■この頃も、三成は秀吉に近侍して大津にいたようである。(中野等、p141)

五月十一日 ■この日の秀吉書状を見ると、この頃から石田三成佐和山城に拠点を置いていたようである。(中野等、p140)

六月二十日 ★九戸一揆の鎮圧に、豊臣秀次を総大将とする軍が秀吉の命令により出陣。徳川家康上杉景勝佐竹義宣蒲生氏郷伊達政宗らもともに出陣する。(柴裕之、p186)■この派兵命令の中に石田三成の名も入っている。三成は、大谷吉継とともに相馬筋の「横目」としての派遣だったようである。(中野等、p144)

六月二十八日 ■石田三成、須藤道光を美濃の領国に代官として派遣する。(中野等、p148)

七月三日 ★佐沼城が攻撃され、大崎・葛西一揆が鎮圧される。(小和田哲男、p258)

七月十五日 ■この頃は、石田三成は大津にいたようである。(中野等、p304)

→三成の奥羽行きはこの後か。

七月二十五日 ★秀吉、ポルトガルのインド副王に充てて書簡を送る。(中野等③、p21)

七月末  ■石田三成、岩城に到着。その後は相馬を経て北上する。(中野等、p144)

八月五日 ★秀吉の嫡男、鶴松が死去。(柴裕之、p186)

八月 ★秀吉、後継を甥の秀次に家督と関白職を譲る意向を示す。また、「翌天正二十年三月の「唐入り」実行を明言し、黒田長政小西行長加藤清正らの九州諸大名に肥前国名護屋佐賀県唐津市)に拠点の築城を命じた。」(柴裕之、p118)「大陸派兵の期日は、結果的におよそ一年延期され、天正二十年三月と決定する。」(中野等③、p20)

八月七日 ★豊臣秀次徳川家康陸奥二本松に着陣。秀吉の指示を受け、旧大崎・葛西領における伊達・蒲生氏の所領配分を行う。家康は、政宗陸奥国岩出沢への入部につき、居城の岩出山城などの普請をはじめる。(柴裕之、p113)

八月十五日 ■石田三成の兄・正澄、島津義弘名護屋城普請に関わる書状を発する。これを受け、義久が名護屋に向かうが、罹病を理由に途中で鹿児島に帰ってしまう。義久は代わりに義弘を向かわせるので問題ないと、三成に弁明の書状を送っている。(中野等、p153)

(新名一仁、p169)によると、義久が途中で鹿児島に帰ったのは、十月頃である。

八月十五日 ■「石田三成の兄、正澄は在京中の義弘に対し、島津家の「御軍役」が「一万五千」になったこと、名護屋での普請はその三分の一を割り付けるよう、「両三人」=義久・義弘・久保に命じられることになったと伝えている。軍役の人数が確定したということは、その前提となる島津領国の石高が確定したことを意味する。八月五日の時点で「一ヶ村分」の差出も届かなかったにもかかわらず、どうもこの時点で島津領国の「御前帳」は出来つつあった。」(新名一仁、p168)

八月二十日 ★和賀・稗貫一揆が平定される。(小和田哲男、p258)

八月二十一日 ★秀吉、「身分統制令」を発する。(中野等③、p19)

九月 ★対馬島主宗義調、みずから朝鮮に渡り、秀吉の征明について警告したが、朝鮮国は「仮途入明」の要求も受け入れず、単なる脅迫として無視する。義調は帰国して秀吉に状況を説明するとともに、朝鮮の地図を献上。(中野等③、p20~21)

九月一日 ★九戸政実方の姉帯城・根反城落城。(小和田哲男、p259)

九月二日 ★九戸政実の居城である九戸城が包囲される。(小和田哲男、p259)

九月四日 ★九戸一揆が平定される。(柴裕之、p186)九戸政実、主だった一五〇人の城兵とともに、首を斬られる。(小和田哲男、p259)

九月十五日 ★秀吉、「小琉球」(当時スペインの服属下にあったフィリピンを指すとみられる)に日本への服属を要求する書翰を発する。(中野等③、p21)

九月二十二日 ■石田三成伊達政宗に書状を発する。「気仙・大原両城の修築を負え、それらを伊達政宗の家中に引き渡すことを告げた」(中野等、p144)もの。この時、三成は陸奥国江刺郡黒石にいたとされる。(中野等、p144)かつて、三成は会津蘆名家を支援し、蘆名家を滅ぼした政宗と敵対関係にあった。「しかしながら三成は、岩手沢(大崎岩手山)への居城を移そうとする政宗の立場を考え、ここでは積極的な協力を申し出ている。気仙・大原両城に駐留する伊達勢の人数に不安があれば、三成管下の兵を充当するとし、また豊臣秀次中納言殿)の指示で破却される城に、まわすべき普請衆が不足するおそれがあれば、これまた三成が管下の兵に命じて、家々を損ぜないように分解してどこにでも運ばせよう、と述べている。」(中野等、p146)

詳細は↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

十月 ■秀吉、島津義久に代わって義弘を名護屋に向かわせることを命じる。八月の義久の弁明が認められたものと思われる。詳細は石田三成家臣の安宅秀安により伝えられた。(中野等、p154)

十月 ★名護屋城の「御座所」普請が「浅野長吉(のち長政)を惣奉行、黒田孝高(如水)を縄張り奉行とし、九州の諸大名を動員して開始された。」(中野等、p20)

十月二日 ■島津義久、取次の石田三成細川幽斎充てに書状を送る。

 これによると、薩州家・出水の忠辰が島津家の与力から「別所」の与力になろうとしており、御前帳作成のための「差出」を拒否し、名護屋城普請の人数も石材調達も拒否しているとしている。このため、薩州家はどこか別に移封して、出水は島津の直轄領にしてほしいと訴えている。(新名一仁、p170)

十月六日 ■石田三成蒲生氏郷とともに米沢に至る。(中野等、p147)

十月八日 ■三成、在三春。(中野等、p147)

十月十日 ■三成、岩城平で仕置を行う。(中野等、p147)

十月二十四日 ★島津「義久は(筆者注:琉球の)尚寧王に対し、「入唐」に際し島津家には琉球分も込みで一万五〇〇〇人の軍役が賦課されたことを伝え、琉球には軍勢の代わりに七〇〇〇人の兵粮一〇か月分を二月までに坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)に輸送するように求めた。」(新名一仁、p171)

十月末  ■この頃、三成は京に到着したとみられる。(中野等、p148)

十一月二日 ■島津義久が義弘に送った書状によると、「義弘は三成家臣安宅秀安からの書状を見せたようである。安宅の書状には「義久のすべてが気にいらない」と書かれており、「何共慮外至極候」と義久も困惑している」(新名一仁、p170)

これに対して義久は、自分が老中に命じても誰も島津家のために動かないと言い訳をしている。(新名一仁、p170)

→安宅秀安が「義久のすべてが気にいらない」としているのは、義久が結局は名護屋に向かわず病気を理由に鹿児島に帰ってしまったこと、御前帳の提出のための「差出」についても、ほとんど履行していないこと等についてと考えられます。 

十一月二十八日 ★豊臣秀次権大納言を拝任。(中野等、p150)

十二月四日 ★秀次、内大臣へ昇任。(中野等、p150)

十二月十三日 ■三成、島津は久・一仁に「人質番組」(島津家側に要求する人質のリスト)を発する。(中野等、p154)

十二月十九日 ★島津義久琉球の「尚寧王に対し、「綾船」の派遣が遅いと豊臣政権から責められて「島津家の面目が失われた」と抗議し、「入唐」の軍役についても。「天下一統之国役」はどんな遠くの島であっても逃れられないと恫喝している。」(新名一仁、p171)

十二月二十六日 ■五月二十五日付では石田三成増田長盛連署近江国高島郡百姓中充てに書状が出されており同地の代官支配は秀吉の奉行衆である三成・長盛によって行われていたが、十二月二十六日付の書状では秀次の奉行である駒井重勝・益庵宗甫の連署による置目が発出されており、この頃より「国内支配の関わる権限が三成ら秀吉奉行衆から秀次の奉行衆へ移譲されていたことがわかる。いうまでもなく、秀吉自身はもとより、三成らも「唐入り」へ専念するためである。」(中野等、p151)

十二月二十八日 ★秀吉、甥の秀次に家督と関白職を譲る。以後は太閤を称する。(柴裕之、p186)秀次は関白・左大臣に任じられる。同時に秀吉から三〇万石といわれる蔵向かわす次に譲られた。(中野等、p150)

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、.2021年