古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑪ 天正二十・文禄元(1592)年 三成33歳-文禄の役①、梅北一揆

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月五日 ★豊臣秀吉、「「唐入り」実施にあたり、渡海の軍事編制を明示する。」(柴裕之、p186)同日付で「街道(海道)筋や軍勢が陣を構えるような場所の地下人や百姓が家を空け、逃散することを禁じた」(中野等②、p24)「掟」を発する。

正月十八日 ★秀吉、小西行長宗義智充てに書状を発し、朝鮮国の日本協力を取り付けるよう指示。秀吉の認識では、「朝鮮国は天正十八年の使節派遣で服属している」というものであり、日本の明侵攻に朝鮮も協力する前提であったが、いちおうその確認を行うため、行長・義智に対し朝鮮へ渡海し朝鮮の意思を確認し、朝鮮が軍勢の通行に異議を唱えるのであれば、四月一日をもって朝鮮半島に上陸・討伐に踏み切れと命じている。その交渉が済むまでは日本の軍勢が朝鮮の領土内に入ることを厳に戒めた。(中野等②、p26)

正月十九日 ★秀吉、島津義久・義弘に、「「薩摩国出水の薩摩守忠辰は、一国全体の支配を義弘に命じているのだから、陣普請も義弘と一緒につとめるように」と命じ」(新名一仁、p171)ている。同日、同じ命令を忠辰にも命じている。(新名一仁、p171)

正月十九日 ★「秀吉は、琉球を大明国に出陣するついでに改易するつもりであったが義久の取次により挨拶にきたので安堵し、島津家の「与力」として「唐入り」への出陣を命じている。」(新名一仁、p171)

正月十九日 ■「細川幽斎石田三成は、「虫気」で国元に残っていた義久に書状を送り、琉球からの「綾船」派遣が遅延していることを糺し、義久自身も秀吉が到着する前に名護屋に参陣し、出迎えるよう厳命している。」(新名一仁、p173)

正月二十一日 ■石田三成は、「細川幽斎とともに、島津義久・義弘充てに連署状を発して、出水島津家の処遇を述べ、琉球との交渉を島津家に委ねること、肥前名護屋への出陣のなどを指示している。」(中野等、p154~156)

正月二十六日 ■島津「義久は石田三成家臣安宅秀安・細川幽斎家臣麻植長通(おえながみち)に対し書状を送り、「唐入」は騎馬武者以下を形だけ申しつけたが、「田舎之国ぶり」のためまったく準備が出来ていないと釈明し、軍役数が揃わないまま義弘が名護屋に出陣することを伝えている。さらに、延び延びになっている島津久保・亀寿夫妻の上洛についても「仕立」が見苦しいという理由で、久保だけを上洛させると回答している」(新名一仁、p174)

正月二十八日 ■三成、京都の前田玄以の催す能興行に増田長盛とともに招かれる。(中野等、p156)

正月二十九日 ★「秀吉の養子・羽柴秀俊(小早川秀秋)と秀長の養嗣子・羽柴秀保がともに従三位中納言となる。」(柴裕之、p186)

二月二十日 ■三成、「唐入り」に従うため大谷吉継とともに京都を出発。(中野等、p156)

二月二十七日 ★島津義弘、「唐入り」のため、本拠栗野を出陣するが、供奉する武者は二三騎に過ぎず、途中大口で兵が揃うのを待つ。(新名一仁、p174)

三月四日 ■三成・大谷吉継増田長盛連署状。小荷駄馬の通行に関するもの。(中野等、p156)

三月十二日 ★小西行長対馬に入る。(中野等②、p34)

→この後、小西行長は景轍玄蘇を朝鮮に遣わし、「仮途入明」(日本が明に攻めるための道を貸せ、という意味)の交渉を進める。(中野等②、p34)

三月十三日 ★秀吉、「九州・四国・中国諸勢に渡海・命じる。」(柴裕之、p186)「秀吉は、この軍令で一番から九番に分けた「陣立て」を示し、さらに当面の戦略について述べている。」(中野等②、p30)

島津義弘は一万人の軍役を課せられている。前年の石田正澄の伝えた一万五千人から五千人減っているが、この時期、義弘の元には千人も揃っていなかったとみられる。(新名一仁、p174)

三月十三日 ■三成、大谷吉継・岡本宗憲・牧村利貞とともに、名護屋駐在の「船奉行」に任じられる。(中野等、p156)

三月十四日 ■この日までに三成は長門国の関戸に到着。名護屋に向かう。(中野等、p157)

三月二十二日 ★小西行長対馬に入る。行長に同行するのは肥前(松浦・有馬・大村・五嶋ら)の諸将。小西は朝鮮との最終交渉のため、ひと月対馬に留まる。(中野等、p34)

三月二十六日 ★秀吉、京都を発し「「唐入り」実行の拠点である肥前名護屋へ向かう。」(柴裕之、p186)

三月二十九日 ■三成、相良頼房充て書状。鯛を送ってもらった礼と、相良氏のすみやかな渡海を促したもの。この頃には三成は名護屋にいたことが分かる。(中野等、p157)

四月三日 ■島津家臣・新納忠元充て島津義弘書状。

 琉球との交渉を担っていたのは島津家であったが、秀吉により琉球に対しても「唐入り」への軍事動員が命じられていた。その後、軍事動員の代わりに兵糧米の拠出をすることとされたが、島津家は琉球との交渉も島津家自身の出陣の準備もままならない状態であった。

 諸々の梃入れをはかるため、三成は家臣の安宅秀安の薩摩派遣を決める。これを受けて義弘は新納忠元に安宅秀安と熟議の上、諸事を進めるように命じた。義弘は島津家の不調が続けば家の滅亡にもなりかねないという危機感を持っていたことがこの書状から分かる。(中野等、p159~160)

参考↓

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四月三日 ■三成・家臣安宅秀安、肥後水俣に至る。(中野等、p160)

四月六日 ★島津義弘・久保親子、国元に書状を送る。国元から朝鮮に渡る船が一艘も来ないことに困惑している、借船で義弘・久保親子だけ渡海することになり、兵は残しておくので、国元からの船が到着次第渡海させるよう申し付けた、とある。(新名一仁、p175)

四月七日 ■安宅秀安、鹿児島に入る。(中野等、p160)

■安宅秀安は、島津領国内の各寺社領の三分の二を上地=収公し、更に「地頭職分」も一町につき二反ずつの上地を命ずる強行策を行った。これにより、一説には米二万七千石を確保したという。(新名一仁、p176)

四月七日 ★朝鮮に派遣されていた景轍玄蘇、対馬に戻り小西行長に朝鮮側の対応を伝える。これを受け、小西行長ら武力侵攻を期して最終的な準備に入る。(中野等②、p35)

→玄蘇の交渉は不調に終わり、これを受けて行長は侵攻の準備に入ります。

四月八日 ■島津義久琉球国建善寺に兵糧米の拠出を促す書状を送る。(中野等、p160~161)

四月九日 ■島津義久、久保夫人の上洛の遅延、借銀の弁済の遅延、自身の名護屋参陣の遅参について弁明の書状を石田三成に送り、秀吉への取り成しを依頼している。(新名一仁、p177)

四月十二日 ★日本軍(小西らの軍勢)が朝鮮半島への上陸を開始。(中野等、p162)(中野等②、p35)

四月十三日 ★小西行長ら、釜山城を包囲し、戦闘が始まる。釜山城はその日のうちに陥落した。(中野等②、p39~40)

四月 ★「朝鮮半島に上陸した日本軍が「唐入り」の協力を拒絶した朝鮮への攻撃を開始する。(文禄の役壬辰倭乱の開始)。」(柴裕之、p186)

四月十七日 加藤清正鍋島直茂ら釜山に上陸。(中野等②、p40)

四月十七日 毛利吉成率いる第四軍、釜山近郊金海(キメ)に上陸。本来、島津軍は第四軍として共に渡海すべきだったが、渡船がないため、共に渡海できなかった。(新名一仁、p178)

四月十九日 ★秀吉、小倉に入る。(中野等、p34)

四月十九日 ★小西行長ら日本軍の進発が秀吉に注進させられる。(小西の交渉が不調に終わった報告も秀吉にも伝えられたと考えられ)、これを受けて今まで朝鮮の協力を得て明に侵攻する当初の目的は撤回され、日本軍は朝鮮半島での戦闘を前提とする新たな軍令が発せられる。(中野等②、p35)

四月十九日 ★駒井重勝木下吉隆長束正家充て加藤清正鍋島直茂書状。路地に豊富に兵粮が蓄えられているため、兵粮の心配はないことを告げ、小西行長と別経路で都(漢城)を目指すとしている。この時期の清正は小西行長と協同する姿勢を示しており、清正と行長の対立は認められない。(中野等

四月二十五日 ★秀吉、名護屋へ入城。(中野等、p161)■この日の秀吉朱印状から、三成・大谷吉継名護屋在陣が確認できる。(中野等、p161~162)

四月二十七日 ★小西行長、忠州で申硈の率いる朝鮮軍を破る。(中野等②、p40)

四月二十七日 ★島津義弘対馬を発つ。(新名一仁、p178)

四月二十八日 ★清正らの軍勢忠州に至る。(中野等②、p40)

五月三日 ★「日本軍が朝鮮国の首都・漢城を陥落させる。」(柴裕之、p186)

五月三日 ★島津義弘、釜山上陸。(新名一仁、p178)

五月四日 ★島津「義久は、留守居をつとめる老中本田親貞・新納旅庵・同忠元・川上忠智ら八名に対して指示を与える(『島津』三-一四四九」。義久は名護屋参陣命令に応じることを伝えるとともに、数年に及ぶ義久・義弘の在京により「国家」=島津領国が「困苦」したとし、皆で熟談して、高麗への支援、名護屋在陣・京都への調進、船手手配など昼夜油断なきよう命じている。そして、「当家一難儀相及事眼前候」(島津家の危機は目の前に迫っている)と今までに無く危機感を煽り、精を入れないものがあれば「京儀」に任せ成敗せよとまで命じている。」(新名一仁、p180)一方、四月に安宅秀安の行った仕置の変更(上地の返還)も行っており、家中の不満を和らげようという意向も見られる。(新名一仁、p181)

五月五日 ★島津義弘、国元の重臣川上忠智に対し上陸までの苦境を伝える。この書状で国元から船が一艘も来ないので、やむなく借船一艘で、本隊から遅れて上陸することになってしまい「日本一之遅陣」となり、自国・他国の「面目」を失い無念千万であるとし、国元からの支援を精一杯果たして欲しいとしている。(新名一仁、p178~179)さらに「義久様は、ご存じないだろうが、「逆心之者共」(裏切り者)が島津家を崩すことになる。逆心を企てている者は後日明らかになるだろう。」(新名一仁、p179)とも述べている。

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五月上旬 ■薩摩に留まっていた安宅秀安は、五月上旬には名護屋に帰還したようである。(中野等、p161)

五月七日 ★玉浦沖で李舜臣らが率いる朝鮮水軍が、藤堂高虎の水軍を破る。(中野等②、p78)

五月八日 ★島津義弘、玄風(ヒヨンプン)の毛利秀康陣ちかくに布陣。(新名一仁、p181)

五月八日 ★島津義久、鹿児島を出発。(新名一仁、p182)

五月十六日 ★漢城陥落の知らせが名護屋の秀吉に元に届く。(中野等②、p52)

五月十八日 ★秀吉、「三国国割構想」を発表する。(柴裕之、p186)秀吉、「覚」を発し、関白秀次に対して出陣を要請する。(中野等②、p53)

五月 ★漢城に集結した諸将は、秀吉の命令である早急なる明国侵攻ではなく、朝鮮半島の安定支配のため、朝鮮八道に諸将を派遣して経略を進める方針を決定する。

※諸将の分担は以下のとおり。

慶尚道(白国) 毛利輝元

全羅道(赤国) 小早川隆景

忠清道(青国) 蜂須賀家政

京畿道(青国) 戸田勝隆 長宗我部元親

漢城      宇喜多秀家

江原道(黄国) 毛利吉成

平安道(黄国) 小西行長 宗義智

南海道(緑国) 黒田長政

或鏡道(黒国) 加藤清正(中野等②、p56)

五月十八日 ★小西行長宗義智らは臨津江付近にいた朝鮮軍と和平を模索していたが、朝鮮側は反攻を仕掛けてきたため、和議の企ては破れる。以後は、上記五月の経略が開始される。(中野等②、p57)

五月二十七日 ★「漢城より北に赴く小西行長加藤清正黒田長政らは五月二十七日に都元帥金命元らが率いる臨津江朝鮮軍を駆逐」(中野等②、p63)する。

五月二十八日 ★小西行長加藤清正黒田長政ら開城を占拠。(中野等②、p63)

五月二十九日 ★泗川沖李舜臣らが率いる朝鮮水軍が、日本水軍を破る。(中野等②、p78)

六月一日 ★加藤清正・相良頼房・鍋島直茂ら或鏡道へ向けて開城を発する。(中野等②、p63)

六月一日 ★「諸将のうち最も秀吉の軍令に忠実で、早急に明国に攻め入るべきとする(筆者注:加藤)清正は漢城で行われた諸将の談合を「迷惑」と論談し、軍勢を明国に向かわせるためには秀吉みずからの出陣によるしかないと、そのすみやかな渡海を要請している。」(中野等②、p56)(跡部信、p131、174)

六月一日 ★宛所不明の加藤清正書状。清正がこれから向かう或鏡道は僻遠であり、秀吉本隊が明との国境に集結するようになっても間に合わないかもしれないと危惧している。(中野等、p115~116)

加藤清正の或鏡道攻略は諸将の談合で決まったものであり、清正の意思によるものではなく、清正はこの分遣に不満と懸念を抱いていたことがわかります。

六月二日 ★秀吉の渡海が延期される。(柴裕之、p186)結果、秀吉の渡海は翌年三月までに延期。(柴裕之、p120)この時、石田三成は秀吉の渡海を主張したが、徳川家康前田利家らが渡海再考を主張したため、渡海は延期となった。(中野等、p164)

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■渡海延期を決定した秀吉は、奉行衆(長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成大谷吉継増田長盛)を朝鮮半島に遣わすこととした。(中野等、p164)

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六月三日 ■秀吉の代わりに朝鮮に派遣されることになった奉行衆は、秀吉の「軍令」を携行することになった。この「軍令」を朝鮮在陣諸将に周知し、履行させることが奉行衆の任務となる。秀吉の「軍令」の主眼は、朝鮮在陣諸将に朝鮮半島の奥地さらに明国へ侵攻すること、朝鮮八道には代官を派遣して支配させるので諸将は明国侵攻へ専念すること、である。 これにより、朝鮮在陣諸将が現地決定した朝鮮八道を分割支配する方針は、秀吉の軍令により覆されることになる。(中野等②、p79~80)

六月五日 ■この日まで、三成の名護屋在陣が確認できる。(中野等、p162)

六月五日 ■島津義久名護屋に着陣。「石田三成細川幽斎、そして秀吉に拝謁している。」(新名一仁、p182)

六月六日 ■石田三成ら奉行衆は、名護屋から出船、壱岐に着陣する。(中野等、p165)

六月十五日 ★「軍役を忌避した島津家中の梅北国兼が、肥後の加藤清正領内で叛乱を起こした。(梅北一揆)。六月十五日、梅北国兼らは清正の留守居を追って肥後佐敷城を奪取する。」(中野等、p165)

六月十五日 ★小西行長平壌入城。(中野等②、p72)

六月末 ★黒田長政、海州を占拠。(中野等②、p72)

六月十六日 ★一揆勢、小西行長の肥後麦島城を目指し北上。(中野等、p165)

六月十七日 ★梅北国兼、佐敷城内で謀殺される。これにより、一揆自体は収束する。(中野等、p165)

六月十七日 ★加藤清正、或鏡道の安辺に到着。(中野等②、p64)

六月十八日 ★鍋島直茂、或鏡道の安辺に到着。(中野等②、p64)

六月十八日 ★「名護屋城在陣中の秀吉は梅北国兼蜂起の一報をうけ、一揆勢鎮圧の軍勢を派遣すると共に、六月十八日には、朝鮮渡海衆の加藤清正鍋島直茂毛利輝元らに書状を送り、一揆勢鎮圧のため軍勢を派遣したことを報じて、島津義弘に安心するよう伝えている。」(新名一仁、p183~184)

六月二十日 ★「細川幽斎は朝鮮の義弘に書状を送り、(筆者注:梅北一揆を謀った)「彼悪逆人一類」成敗のため義久とともに薩摩に下向するように命じられたことを報じている。」(新名一仁、p184)

六月二十一日 ★細川「幽斎家臣麻植長通が義弘側近伊勢貞真に宛てた書状には、大隅・薩摩に対し新たな検地を命じるように」との秀吉の上意があったとし、「御法度」が軽んじられているからこのようなことが起きると警告している」(新名一仁、p184)

六月二十四日 ★加藤清正、或鏡道の監営の地、或興に入る。(中野等②、p65)

七月 ★この頃から、朝鮮各地での「義兵」による反攻が活発化する。(中野等②、p82)

七月初旬 ★全羅道侵攻を企図する小早川隆景ら、高敬命らと錦山で戦う。高敬命は戦死を遂げるが、隆景らの全州侵攻は阻止される。その後、隆景は漢城に移動。立花宗茂らは残り全羅道の経略にあたった。(中野等②、p82)

七月五日 ★李舜臣、閑山島沖で脇坂安治率いる水軍に壊滅的な打撃を与える。(中野等②、p83)

七月六日 ★島津義久、鹿児島に戻る。直後に細川幽斎も鹿児島に入る。(新名一仁、p184)

七月九日 ★李舜臣、安骨裏の加藤嘉明・九鬼義隆を襲い、船手に打撃を与える。(中野等②、p83)

七月十日 ★秀吉、義久に書状を送る。梅北一揆の始末としてその首謀者を義久・義弘の弟・歳久とみなし、これから歳久が義弘と高麗に渡れば、その身は助けるが代わりに一揆の棟梁を一〇・二〇人も首をはねて送ること、歳久が高麗に渡らないならば、その首をはねることを命じる。歳久は持病(リウマチか)が悪化しており、朝鮮出陣はとても無理な状態であった。(新名一仁、p185)

七月十五日 ★秀吉、「奉行衆からの朝鮮半島情勢に加え、海上での敗退という報に接した秀吉は、七月中旬にいたって六月三日令の凍結を決断した。すなわち、七月十五日付の朱印状によって、当年中に明国境に迫るようにした軍令を改め、まずは朝鮮半島内の支配を優先するように指示している。」(中野等、p84)

 これをうけて巨済島に二か所の城塞を築きそれぞれに九鬼・加藤・菅、脇坂・藤堂・紀伊国衆・来島兄弟の船出を入れることとし、この両者を豊臣秀勝に統括させた。

いたずらな海戦は避けるよう命じている。(中野等②、p84)

七月中旬 ★祖承訓の率いる明軍、平壌を攻めるが小西行長に撃退される。(中野等②、p75)

七月十六日 ■石田三成ら、漢城到着。(中野等、p165)

七月十八日 ★島津義久、秀吉の上意により、歳久を討つ。(新名一仁、p187)

七月二十三日 ★加藤清正、会寧で二人の朝鮮王子の身柄を確保。(中野等②、p67)

七月末 ★加藤清正、会寧を発して「おらんかい」へ侵攻。(中野等②、p67)

七月~八月 ■石田正澄・木下吉隆長束正家充て増田長盛大谷吉継石田三成書状。

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→明国侵攻を命令した秀吉の「六月三日軍令」でしたが、石田三成ら奉行衆が現地の状況をつぶさに見た状況では、各地の朝鮮軍や義兵の反攻により朝鮮は全く静謐になっておらず、補給路の確保も難しい状態であり、このまま明国に侵攻するのは非現実な状況でした。

 このため、年内は、明国の侵攻ではなく朝鮮の支配に専念すべきであるとの報告といえます。これは、秀吉の「六月三日軍令」に真っ向から反するものであり、そのまま秀吉に披露してしまうと逆鱗に触れてしまう可能性があるため、まず名護屋の奉行衆にメモの形で渡され、秀吉の機嫌のよい時に状況説明をしてほしいと依頼した文書といえます。

七月十八日 ★一揆の後処理として、細川幽斎が薩摩へ派遣された。島津義久・義弘の弟歳久の一揆への与同が疑われ、誅殺された。(中野等、p165)(山本博文、p88)

七月二十二日 ★秀吉、母大政所の危篤の報を受け、名護屋城を離れ、大坂に向かう。

(中野等②、p86)

七月二十二日 ★秀吉の母、大政所死去。(柴裕之、p186)

七月二十三日 ★朝鮮の権応銖、永州を回復。(中野等②、p82)

七月二十九日?(八月一日?) ★秀吉、急ぎ名護屋から大坂城に戻るが、母の死に間に合わず。(柴裕之、p186)((中野等②、p93)では七月二十九日になっています。)

八月十日 ★漢城で諸将参集の上軍議が開かれた。両党から救援に来た明軍への対処、七月十五日による秀吉の六月三日軍令「凍結」への対応について協議することが目的と考えられる。(中野等②、p86)

八月十四日 ★秀吉、義久に対し歳久を成敗したことを賞する。秀吉は、歳久の成敗により、義久の失態は不問に付した。また、秀吉は(細川幽斎による)検地を実施することを命じている。(新名一仁、p187)

八月十五日 ★黒田孝高、罹病を理由に帰国が許される。(中野等②、p108)

八月二十二日 ★加藤清正、「おらんかい」から或鏡道に戻る。(中野等②、p67)

八月三十日 ★小西行長と明の将・沈惟敬平壌近郊で会談を行い、停戦協定を結ぶ。(柴裕之、p186)この会談で沈惟敬は降伏を乞うたとされる。会談の結果、日明間に五十日間の休戦協定が結ばれている。(中野等②、p88)

八月三十日 ★吉川広家充て木下吉隆書状。秀吉は来春渡航し朝鮮統治を徹底すること、明侵攻は延期することが書かれている。(中野等②、p84) 

九月六日 ★朝鮮の朴晋、慶州を回復。(中野等②、p82)

九月九日 ★秀吉の甥の豊臣小吉秀勝、朝鮮陣中で死去。(柴裕之、p186)

九月中旬 ★加藤清正、安辺に到着。(中野等②、p68)

九月中旬 ★加藤清正に降った、或鏡北道・鏡府城の鞠世必、鄭文に説服されて朝鮮側への復帰を決断。清正に反攻する。(中野等②、p88)

九月中旬 ★全羅道経略に残された立花宗茂ら、攻略を諦め漢城へ転進する。「これは明軍が遼東から進出してきたことをうけ、新たに平壌漢城間の守備を充実するという方針が策定されたことによる。」(中野等②、p83)

九月二十日 ★加藤清正書状。「おらんかい」探情の詳細が述べられている。「おらんかい」ルートを通って明国への侵攻が可能か調べたが、田地もなく畠地ばかりであり、兵粮の確保も難しいため不可と判断したこと、おらんかいは伊賀・甲賀のような一揆支配の地であること、自らの或鏡道の経略は成功していること、それとは裏腹に制圧に苦慮する諸将の様子を述べ、特に平安道における小西行長の経略の不調を批判している(中野等③、p124~126)

⇒前述したように、或鏡道の経略は加藤清正の希望ではなく、不満に思っていたところへ、(本来の清正の希望であったと考えられる)明への攻略ルートである平安道小西行長平壌城に入城はしたものの、それ以上の侵攻は行っていない(これは明との休戦協定が行われたためです)ため、清正としてはこれを歯がゆく思い、平安道の経略を自分に替えてほしいとの思いが伺えます。九月中旬から或鏡道においても朝鮮側の反攻がはじまり、清正の或鏡道経略は必ずしもうまくはいっていませんが、この書状では清正は経略はうまくいっていると強調しています。

 この書状に小西行長平安道経略に対しての不満が述べられているところから、この頃から、両者(小西行長加藤清正)の確執が始まったことがうかがえます。

九月二十三日 ★木村重玆・長谷川秀一・細川忠興らの軍勢、慶尚道昌原を落す。(中野等②、p90)

十月 ■島津義弘、京畿道と或鏡道を結ぶ交通の要衝、金化(クムフア)への陣替えを石田三成に命じられる。(新名一仁、p193~194)

十月一日 ★秀吉、大坂城を発向し、名護屋へ向かう。秀吉は、当初九月上旬の名護屋再下向を予定していたが、正親町上皇後陽成天皇の、秀吉は名護屋下向を思いとどまるべきという「叡慮」を受け、しばらく延引していた。(中野等②、p91~92)

十月六日 ★木村重玆・長谷川秀一・細川忠興らの軍勢、晋州牧使・金時敏の守る慶尚道・晋州城を囲む。晋州城は全羅道にいたる経路にあり、頓挫した全羅道経略にも道が開けることとなるため、日本軍としてはなんとしても攻略したい城であった。しかし、城方の抵抗は強く、数日の戦闘の後、金時敏は数万の日本軍を押し返した。(中野等②、p90)

十月中旬 ★或鏡道の「明川以北の地がこぞって朝鮮義軍の手に帰すこととなった」。(中野等②、p88~89)

十一月一日 ★秀吉、再び名護屋城に入る。六月に渡海しなかったことを後悔し、来春三月の渡海を期する秀吉書状がみえる。また、朝鮮在陣諸将から兵糧枯渇の注進が相次いでおり、名護屋の秀吉は兵糧対策を進めていく必要があった。(中野等②、p93~94)

十一月五日 ★秀吉、島津義久に寺社領の蔵入地化を厳命するとともに、旧島津歳久領と没収する寺社領の検地を、細川幽斎の仕置により行わせる(幽斎仕置)。幽斎仕置はこの年の冬から翌年の正月にかけて行われた。この仕置で、寺社・地頭職・御一家衆・国衆らの「上地」も行われ、一定の成果を収めたとされる。(新名一仁、p189~190)

十一月十五日 ★或鏡道を「南下した鄭文孚の兵が加藤(筆者注:清正)勢を撃破し、清正の部下が守る吉州や端州が孤立する危険性が高まっていく。」(中野等②、p90)

十一月十八日 ■漢城増田長盛大谷吉継石田三成黒田長政に書状を発する。内容は、つなぎの城に黒田利高(孝高の弟)を派遣することになったことを了とした事、先手の人数が必要な場合は小早川隆景に対応を要請している事、黒田勢が来年三月までの兵糧を蓄え、更に秀吉進軍のための兵糧を一万石用意されている事を了とする事が書かれている。(中野等、p373~374)

→上記の書状等から、漢城の三奉行(増田長盛大谷吉継石田三成)は、朝鮮在陣諸将の各つなぎの城への配置の割り振り・兵糧の管理・諸将への秀吉の軍令の伝達等を行っていたものと考えられます。

十一月下旬 ★小西行長の陣中を沈惟敬が訪れ、講和の成立も間近いことを報じてきた。(中野等②、p98)

十一月 ■石田三成ら奉行衆、加藤清正漢城への退却を指示する。しかし、加藤清正は或鏡道の支配はうまくいっていると、これを拒否。(熊本日日新聞社、p68~69)

十二月九日 ★「日本の諸将は開城で会議をもつが、恐らく沈惟敬の報告をうけ、その後の対応を協議したものであろう。あるいは晋州城攻略の失敗も伝えられたのかもしれない。」(中野等②、p98)

十二月二十三日 ★明の李如松、四万三千の兵を率いて義州に入る。(中野等②、p98)

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

熊本日日新聞社編(執筆:山田貴司・鳥津亮二・大浪和弥・浪床敬子)『加藤清正の生涯-古文書が語る実像』熊本日日新聞社、2013年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、202筆者

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、200③8年

中野等③「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正戎光祥出版、2014年所収)

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)