古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑬ 文禄三(1594)年 三成35歳-文録の役③(休戦中)、島津忠恒の上洛、伏見城普請、島津領国・佐竹領国の「太閤検地」、秀吉の上杉邸御成

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月十九日 ★秀吉、「山城伏見城の築城工事を東国の諸大名・小名に課す。以後、同城は豊臣政権の所在地となる。」(柴裕之、p186)

正月十九日 ★「「関白降表」を得た沈惟敬は文禄三年正月十九日(明歴二十日)に熊川を発ち、そののちしばらくして小西行長はいったん日本に帰っている。小西が秀吉にどの程度の真実を打ち明けたのかうかがい知るすべもないが、秀吉は明の返答いかんによっては来年(文禄四年)再び派兵する可能性を示唆しており、小西に対しては怠りない在番の継続を命じた。」(中野等②、p156)

正月下旬 ★「秀吉は使者として美濃部・山城小才次の両名を朝鮮に遣わす。この両使は、在番体制を支える兵員や兵粮改めのために派遣されていたが、秀吉は兵粮の状況について高い関心をもっていた。(中略)秀吉は、朝鮮を、見回った美濃部・山城の上申をふまえ、新たな措置を講じることになる。すなわち、「御蔵米」「御兵粮」を新米に入れ替えることを前提に、これらの備蓄米を在番将兵の糧食として流用することを認めるというものである。」(中野等②、p164~165)

二月 ★長寿院盛淳、上洛。(新名一仁、p211)

二月七日 ■朝鮮在陣の島津義弘充て安宅秀安(石田三成家臣)書状。「(前略)忠恒の秀吉への見参が済めば、「悉く国ぶりを変えて豊臣政権からの軍役をしっかり果たせるようにしないと、島津家は存続できないだろう」と政権からの命令が貫徹しない領国支配体制の変革を求めている。その上で、「国家之役儀」をこれまで無沙汰しても島津家が存続できていたのは「取次」の石田三成細川幽斎のおかげであり、島津家が変革しないのなら三成は「取次」を辞めると脅している。」(新名一仁、p211~212)

二月二十日 ★年初に疱瘡にかかり、堺で療養していた島津忠恒の病が快癒する。(中野等、p223)

二月二十一日 ★秀吉、「普請中の伏見城に秀次を招き、茶会を催した。」(中野等、p222)

二月二十七日 ★「秀吉と秀次が連れ立って公家・諸将を従えて吉野に赴き、花見を楽しんだ。」(中野等、p222)

二月二十七日 ■秀吉が秀次付きの家臣となっていた山内一豊を「折檻」し、「高麗」への渡海を命じる。この命令を伝えたのが、石田三成増田長盛・山中長俊らだった。この命令は即日撤回され、有馬則頼・滝川雄利・木下祐慶らによって「赦免」が伝えられた。(中野等、p222)

上記の「折檻」の理由について、堀越祐一氏は、前年(と推定される)十一月十一日付山之内一豊充て前田玄以増田長盛長束正家書状に、一豊が代官をしている蔵入地の算用目録の提出が遅れておりこのため太閤殿下が非常に怒っており期限までに必ず提出するように命令する書状があり、「折檻」の理由もこれに関する理由ではないかと推測している。また、即日撤回された理由について堀越氏は、朝鮮への出陣が「懲罰」と大名達に認識されることを危惧したこと、東海地方の大名については、朝鮮渡海はほとんどしておらず、(徳川家康への警戒のため)日本に待機させる秀吉の方針だったからではないかとしている。(堀越祐一、p241~256)

三月十日 ■伊集院忠棟充て島津義弘書状(正月二十七日付忠棟書状への返信)。

「・忠恒の秀吉への拝謁が済み次第、忠恒は朝鮮に渡海するよう、石田三成から命じられた。

・忠恒のお供として鎌田政近・伊集院久治・比志島国貞の三人を朝鮮に渡海させるよう、三成が国元に命じた。

・義弘はこうした三成の尽力・措置に謝意を示し、特に三人の老臣の渡海が決まれば「若輩之在陣」も気遣いがなくなると歓迎。

・忠恒の在京中の生活について、伊集院忠棟に「異見」するよう求め、万事依頼。」(新名一仁、p209)

三月十七日 ★『駒井日記』三月十七日条に、秀吉の穴太と秀次の穴太が揉め事を起こしたことが記されている。(中野等、p223)

三月十七日 ★秀吉、伏見屋敷に戻る。(新名一仁、p210)

三月二十日 ■島津忠恒、伏見の秀吉に拝謁する。拝謁の実現に向けて石田三成は島津家の取次として尽力していた。「三成が後見となる忠恒が、秀吉への拝謁を果たすことで、久保急死にともなう継嗣問題は、三成主導で解決することになった。」(中野等、p223~224)

詳細は↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

三月二十六日 ★島津忠恒、京聚楽で秀次に拝謁する。(中野等、p224)

四月七日 ■伊集院忠棟、「朝鮮の義弘に書状を送って忠恒の近況を知らせると同時に、三成が義久の上洛を望んでいる旨、伝えている。」(新名一仁、p210~211)

四月十一日 ★「前左大臣・近衛信輔が薩摩国へ配流される。」(柴裕之、p186)

四月中旬 ★島津義久、鹿児島を発ち上洛の途に就く。しかし、五月上旬になっても、島津義久は京に到着していなかった。(新名一仁、p215)

四月中旬 ★「惟政,都元帥権慄の命をうけて西生浦の加藤清正を訪れ,講和条件を質す」(中野等②、略年表p7)

五月二日 ■「伊集院忠棟は在朝鮮の相良家長・川上忠兄に書状を送り、義久到着が遅れていることを愚痴った上で、石田三成の尽力のお陰で島津家が存続しているのだと強調し、三成一人を押し立てて、京儀を問題なく勤めることが大事であり、ほかに頼るべき人はいないとして、義弘への披露を求めている。」(新名一仁、p215~216)

五月六日 ■石田三成長束正家増田長盛大谷吉継、諸大名に対して竹木の伐採を禁じている。(中野等、p226)

五月七日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家生駒親正に伏見向嶋橋の用材供出を命じる。(中野等、p226)

五月十九日 ■「三成らは秀吉の命に基づいて、伏見城御殿の作事に必要な「足代」の差配を行っている。」(中野等、p227)

五月二十四日 ★「秀吉,福島正則・毛利友則を朝鮮兵糧米の奉行に任ず」(中野等②、略年表p7)

五月下旬 ■島津「義久・新納忠元らは五月下旬に到着したようである。三成は大坂で待ち構えており、恐らく義久に忠恒と三女亀女との婚姻を認めるように迫ったとみられる。」(新名一仁、p216)

六月一七日以前 ★島津忠恒と亀女との祝言が行われる。(新名一仁、p216)  

六月十八日 ■秀吉は十八日の晩に大坂に入っており、三成もこれに従っている。(中野等、p229)

七月 ★「秀吉の養子だった秀秋が小早川隆景の養子となる。」(柴裕之、p186)

七月八日 ★島津義久、伊集院忠棟に誓紙を出す。石田三成主導の検地を認め、その判断・処置は忠棟に任せるという内容。(新名一仁、p217)

七月中旬 ★「惟政,明将劉綖の書を携え,再び西生浦の加藤清正を訪ねる」(中野等②、略年表p7)

七月十六日 ★島津領国検地の算定基準が定められ、また検地における禁止事項を記した掟書が発布される。(新名一仁、p217)

七月十七日 ■浅野長政石田三成増田長盛長束正家は「文禄四年の三月を期して、馬廻り衆に対して妻子の伏見在住を命じた。」(中野等、p229)

八月五日 ■島津「義弘は石田三成に書状を送り、去年以来、久保の遺骸と共に帰国したものもあり、病死者・病人も帰朝したが、参陣する者がおらず無人数のままだと歎いている。」(新名一仁、p219) 

八月十一日 ■島津領国検地の指揮を執る石田家中の検地奉行衆二十名が大坂を発ち、島津領国へ下向。(新名一仁、p217)

八月十二日 ★「全羅道にあった明総兵劉綖,漢城に到着,その後明へ発向」(中野等②、略年表p7)

八月下旬 ★島津忠恒名護屋に下向。(新名一仁、p216)

九月三日 ■石田三成、実母の葬儀を京都大徳寺三玄院で行う。(中野等、p242)(中野等③、p306)同じ頃、伯蒲恵稜の賛を有する三成父石田正継の寿像が描かれる。(中野等、p242)

九月十四日 ■島津領国検地、薩摩大口城麓より開始され、翌年二月までに完了した。(新名一仁、p217~218

九月二十四日 ■朝鮮在陣諸将に宛てた石田三成増田長盛書状。前日付秀吉の朱印状(島津義弘島津豊久・宗吉智・加藤清正鍋島直茂立花宗茂・筑紫広門・伊東祐兵・毛利秀元吉川広家・毛利元康に宛てたものが確認される)の副状。「拠点としている城々を堅固に護るように述べ、しかるべき時期に関白秀次が出陣し全羅道に攻勢をかける計画を披瀝している。」(中野等、p232)

十月 ■十月から十二月晦日まで、石田家中による佐竹領の検地が行われる。(中野等、p244~245)

十月 ★「明将劉綖北京に帰還」(中野等②、略年表p7)

十月上旬 ★島津忠恒、島津彰久、北郷三久とともに壱岐対馬に渡る。(新名一仁、p216)

十月六日 ■秀吉、伏見を発って大坂に下る。三成も増田長盛とともに秀吉に従う。(中野等、p233)

十月九日 ■上杉景勝充て石田三成増田長盛書状。伏見城惣堀の普請を命じられた景勝に秀吉は対面する予定だったが、秀吉の上洛は明日に延びたので、対面は明後日になることを伝えている。(中野等、p233)

十月十六日 ■石田三成家臣・安宅秀安、島津義弘に書状を送り、検地終了後の知行宛行には義弘と義久の熟談が必要になるため、帰国の準備を進めるよう促している。(中野等、p243)

十月二十日 ★秀吉、徳川家康らを従えて聚楽の秀次を訪問する。(中野等、p233~234)

十月二十五日 ★秀吉、蒲生氏郷の京屋敷を訪問。(中野等、p234)

十月二十六日 ★島津忠恒、兵二五一名を率いて朝鮮釜山浦に到着。(新名一仁、p216)

十月二十八日 ■秀吉、上杉景勝の京屋敷を訪問。石田三成増田長盛は、秀吉の「上杉邸への御成に際して、準備が整ったとして景勝から事前の点検を依頼されている。」(中野等、p234)御成の際に景勝は権中納言への昇任が許されている。(中野等、p234)

十月三十日 ★島津忠恒、唐島(巨済島)に渡り、父義弘と再会。(新名一仁、p216)

十一月上旬 ■「島津忠恒が朝鮮唐島に着陣した直後の同年一一月上旬、義弘は石田三成に対し、島津家の軍役は二〇石に一人から四〇石に一人へ緩和され、五〇〇〇人となったにもかかわらず、「国習之式」で急いで出陣する気配はなく無人数のままだと歎いた上で、現時点の島津勢の人数を具体的に知らせている。」(新名一仁、p219)

十一月二日 ★真田信幸、従五位下・伊豆守に叙任される。(中野等、p321)

十一月十一日 ★「明の宋応昌,経略を辞す,顧養謙ついで孫鉱がこれに就く」(中野等②、略年表p7)

十二月 ★明将劉綎、北京へ帰還する。(中野等②、p166)

十二月六日 ★「内藤如安北京に入る」(中野等②、略年表p7)

十二月十二日 ■石田三成は「長束正家増田長盛ら他の奉行衆とともに、若狭の組屋に対して京で売却したルソン壺代金の請取状を与えている。」(中野等、p245)

十二月十四日 ★「小西行長の使者が明国皇帝に謁見し、日本に使節が派遣されることになる。」(柴裕之、p186)

十二月 ■石田三成は呂宋壺の代価を柳沢某より受け取っている。(中野等、p236)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

堀越祐一「太閤秀吉と関白秀次」(山本博文・堀新・曽根有二『消された秀吉の真実-徳川史観を越えて』柏書房、2011年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文録・慶長の役吉川弘文館、2008年

中野等③「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年