古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑮ 文禄五・慶長元(1596)年 三成37歳-文録の役⑤(講和使節の来日→交渉決裂)、慶長伏見地震、サン・フェリペ号事件、二十六聖人殉教事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★沈惟敬、釜山を発ち名護屋へ向かう。(中野等③、p180)

正月二十三日 ■前田玄以増田長盛石田三成長束正家は、秀吉と秀頼に忠誠を誓う起請文を提出する。「内容は五ヵ条に及び、冒頭の箇条で次のように誓約する。すなわち、格段の取り立てを受けた連署の四人は、その厚恩に報いるため、秀吉と秀頼に心底奉公し、今後は四名として「諸事」を申し談じ、別心なく「公儀」のために忠節を尽くす。続く箇条では、互いに依怙贔屓なく、法度・置目を遵守することなどを述べ、最後の箇条では、案件によって奉行間での厳格な守秘義務を定めている。

 この起請文から看取されるのは、連署者間の連帯と排他性であろう。」(中野等、p272~273)

三月 ■「島津義弘は朝鮮に在陣している子息忠恒に対し、帰国して上洛するよう促している。もとより明国使節の来日に備えてであるが、こうした指示も三成の意向を受けたものであった。」(中野等、p275)

三月一日 ■「三成は領内の村々に掟書を下す。」(中野等、p286)

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三月十日 ■この頃から、石田三成家臣の安宅秀安が「三河守」を名乗るようになる。(中野等、p301)

三月二十三日 ■三成は、「家中に対して知行宛行状を発給している。」(中野等、p299)

四月二日 ★明国正使の李宗城、日本側の陣営から逃亡。このため、副使の楊方亨を正使とし、新たな副使には沈惟敬がおさまった。(中野等③、p180)

四月五日 ■島津義弘の書状によると、女子(御下・桂樹院)を伊集院幸侃の子忠真に娶すよう、安宅秀安に指示されたとある。(中野等、p301)

四月十日 ★浅野長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起きた。これにともない嫡子幸長が領国を取り上げられ、長政も政治的な影響力を失ったとされる。(相田文三、p329)

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五月 ■石田三成の意向を受け、島津義弘は子の忠恒に対して帰国して上洛するよう促している。(中野等、p275)

五月十一日 ■「豊臣氏(羽柴家)の親類・徳川家康が正二位内大臣となる。」(柴裕之、p186)「前田利家権大納言に昇任する。」(中野等、p274)

五月二日 ■薩摩に配流されている近衛信輔、越後に配流されている菊亭晴季の赦免が決定される。(中野等、p274)その後、菊亭晴季は早々に帰洛するが、「宮中への使者となった家康と利家が島津家に行った提案が、三成の意向とは相容れなかった」(中野等、p275)ことにより、近衛信輔の帰洛は遅れることになったようである。(中野等、p275)

五月十三日 ★「拾が童昇殿で初の参内を果たす。この後、拾は実名「秀頼」を名乗りだす。」(柴裕之、p186)そうした次第を諸大名に告げ、準備を促す役割も三成ら四奉行によっておこなわれた。」(中野等、p274)

五月二十七日頃 ★朝鮮諸将への帰還命令が急遽撤回される。(中野等、p275)

五月二十八日 ■石田三成島津忠恒に帰還中であっても朝鮮に戻るように指示を与えている。(中野等、p276)

六月半ば ★楊方亨、釜山から対馬にいたる。朝鮮の使節もこれに従う。(中野等③、p180)

六月十六日 ■前田玄以長束正家増田長盛石田三成連署で講和使節を受け入れる準備を進めている書状がある。(中野等、p305~306)

七月四日 ■三成、「島津義久・義弘と連署して、島津領内に対し当給人への年貢収納を命じる書状を発している」(中野等②、p307)

七月十日 ★近衛信輔、鹿児島を発つ。(中野等、p275)

七月十ニ日 ■三成、「佐竹領内所替えの件で、佐竹家臣佐藤大隅守に書状を発している。この時の在所は京都と考えられる」(中野等②、p307)

七月下旬 ★この頃やり取りされた書状には、来春の朝鮮半島の内陸部への侵攻を示唆する書状が見られ、交渉の破綻がある程度予見されていたようである。このため、朝鮮在陣諸将の日本帰還が一部見送られ、一定の兵力を継続して駐留することに決したとみられる。(中野等、p276)

閏七月十二日~十三日 ★「畿内マグニチュード八に近い規模の大地震(文禄地震)が起きる。山城伏見城天守を始め建造物が大破し、山城国伏見山へ移転のうえ、新たな伏見城を築城する。」(柴裕之、p186)

★この時、(謹慎中であったとされる)加藤清正がいち早く伏見城の秀吉のもとに駆けつけた「地震加藤」の逸話があるが、謹慎中であったことも含めて史実ではなく、虚構の可能性が高い。

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閏七月十三日 ★いち早く浅野長様が伏見城の秀吉のもとへ駆けつけた。このためか、4月の事件後能登に蟄居されていた幸長が召喚されることになる。(相田文三、p329)

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八月十四日 ★伊達政宗浅野長政に絶縁状を告げられている。(相田文三、p329)

八月中旬 ★明国及び朝鮮の使節が堺に到着。(中野等③、p181)

八月十八日 ★近衛信輔、大坂に到着。(中野等、p275)

八月二十六日 ★「スペイン船サン・フェリペ号が土佐国に漂着する。」(柴裕之、p186)

八月二十六日 ■前田玄以長束正家増田長盛石田三成連署状で、諸大名に九月一日の使節引見のため、八月晦日までに大坂に入るよう指示を出している。(中野等、p306~307)

九月一日 ★「摂津大坂城で明国使節に対面し、「日本国王」の任官を受ける。」(柴裕之、p186)「列席した徳川家康を筆頭に前田利家宇喜多秀家上杉景勝毛利輝元ら諸大名にも明国の官職が授与された。」(柴裕之、p128)

九月二日 ★「秀吉の「唐入り」事業の功績を示す要望が受け入れられず、講和交渉は決裂する。」(柴裕之、p186)「明国使節朝鮮半島からの日本軍の完全撤退を求め、また朝鮮国王子が差し出されなかったことに、秀吉は激怒」(柴裕之、p129~131)し、交渉は決裂となる。

九月 ★秀吉、朝鮮半島への再派遣を決定。(中野等③、p188)

九月十五日 ★近衛信輔、京都に戻る。(中野等、p275)

九月十七日 ■石田三成島津義弘に対して島津家中に対する知行加増について指示を与えている。(中野等、p311~312)

十月上旬 ★小西行長肥前名護屋に入る。(中野等③、p188)

十月七日頃 ■石田三成、相良頼房へ国許への帰国と再渡海を指示する。(中野等、p311)

十月二十七日 ★年号が「慶長」に改元される。(柴裕之、p132)

十一月上旬 ★加藤清正、熊本を発し朝鮮半島へ向かう。(中野等③、p188~189)

十一月十一日 ■増田長盛長束正家石田三成前田玄以加藤清正に書状を発し、「文禄四年算用分の年貢運上を督促している。」(中野等②、p307~308)

十一月下旬 ■三成、「近江国佐和山領内の寺社に宛行状を発している」(中野等、p299)

十二月 ★秀吉、閏七月の地震で倒壊した伏見城を再建するため、諸大名に対する課役の指示を下す。(中野等、p313)

十二月上旬 ★小西行長、釜山で再び和平への工作を行う。具体的には朝鮮側に王子の来日を促すことであったが、この工作は失敗に終わる。(中野等③、p188)

十二月八日 ■秀吉、京都と大坂でキリシタンの捕縛を命じる。(中野等、p309)

十二月十九日 ★「肥前国長崎でキリスト教フランシスコ会士と教徒ら二十六人を処刑する。」(柴裕之、p186)

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十二月末 ★明国使節、釜山到着。(中野等③、p188)

 

 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収) 

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文録・慶長の役吉川弘文館、2008年