古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑯ 慶長二(1597)年 三成38歳-慶長の役①、宇都宮氏改易事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月十一日 ■石田三成、「長束正家増田長盛前田玄以ら奉行衆とともに、近江国芦浦観音寺に対して連署状を発し、伏見城の普請用材を拠出するように命じている。」(中野等、p313)

正月二十四日 ■三成、「秀吉の京屋敷造営のために入京している」(中野等、p313)

二月二十一日 ★秀吉、「一門衆の小早川秀秋を総大将に日本軍の朝鮮国への再出兵を命じる。」(柴裕之、p187)

二月二十五日 ■前田玄以長束正家石田三成増田長盛、日用取(日雇いを業とする者)の停止を令する。この令は前年(慶長元年)に出されていたものの再令であった。(中野等、p314~315)

三月一日 ★伏見城再建の普請工事が開始される。(中野等、p314)

三月七日 ■前田玄以・宮部継潤・石田三成増田長盛長束正家連署して「掟書」を発する。内容は、「辻切・摺・盗賊などの取り締まりのため、武家奉公人については五人組、それより下層の下人については十人組を組織して、相互監察を強めようとするものである。」(中野等、p318~319)この「御掟」は伏見城築城に関わって発令された可能性が高い。(中野等、p319)

三月二十六日 ■前田玄以石田三成増田長盛連署して聚楽付近にあった侍屋敷は秀吉の意向としてすべて没収することになった旨を記した書状を発している。(中野等、p320)

四月二日 ■前田玄以石田三成長束正家増田長盛、秀吉の御意として、慶長二年の夏から田方(裏作)麦の収穫量の三分の一を領主に納めさせようとする命令を発する。(中野等、p328~329)

四月二十日 ■三成、近江国内の村々にも田方年貢の徴収を命じる印判状を発する。(中野等、p330~331)

五月 ■三成、神龍院梵舜に『源平盛衰記』の書写を依頼する。(中野等、p332)

五月十四日 ★秀吉、秀頼を伴って大坂城から伏見城に移る。(中野等、p335)

五月十六日 ■秀頼が伏見城へ移ったことを祝う賀儀が十七日に行われるため、長束正家石田三成浅野長政にこの賀儀に参上するよう書状で伝えている。(中野等、p334)

→文禄5(1596)年)四月十日、長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起き、これにより、長政の息子幸長は能登に配流となり、長政は実権を失ったとされますが、上記の書状をみると、この頃には長政の復権の兆しがみえます。

 これより前の文禄五年七月十三日の畿内地震では、いち早く長政は伏見城のもとに駆け付けたため、これにより、能登に蟄居していた幸長も召還されたとあります。(相田文三、p329)

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六月 ★「朝鮮半島南部の確保を目的とした戦争が始まる(慶長の役・丁酉倭乱の開始)」(柴裕之、p187)

六月十二日 ★小早川隆景が備後三原で急死する。(中野等、p345)

六月末 ★浅野長政甲斐善光寺の大仏を京都に運ぶため、甲斐に下向する。(相田文三、p330)

七月十五日 ★巨済島(唐島)付近での海戦が行われる。(中野等、p336)

七月十八日 ★浅野長政、大仏乳酪に騎馬で供奉。(相田文三、p330)

八月十六日 ★南原城陥落が報じられる。(中野等、p336)

七月二十六日 ★「家臣で親戚でもあった福島正則従五位下侍従となり、さらに羽柴苗字を与えられる。」(柴裕之、p187)

八月十日 ★島津義弘・家久充ての秀吉朱印状に浅野長政が添え状を発給している。(相田文三、p330)

九月 ★秀吉が、毛利輝元に対し名護屋か博多で後詰するように命じるも輝元はみずから朝鮮に渡海すべく領国を発してしまう。(中野等、p345)

九月九日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家書状。山内一豊に麦年貢の帳が提出されていないことを咎め、督促している。

九月二十五日 ■真田信幸充て石田三成書状。内容は、伏見城普請のさなかに、信幸が下国せざるをえなくなった旨を了承し、父昌幸にあとを任せるとよいと述べた内容。(中野等、p321~322)

石田三成真田信之(信幸)の友誼については↓

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九月二十八日 ★秀吉、「新たに築いた京都新城から嫡男の秀頼とともに参内する。秀頼が内裏で元服」(柴裕之、p187)する。

九月二十九日 ★秀頼、「従四位下左近衛中将となる。同日、京都大仏(方広寺)の近辺に耳塚(鼻塚)を築き、朝鮮での戦場で切り取られた耳・鼻の供養が行われる。」(柴裕之、p187)

十月一日・五日 ★浅野長政、伏見の徳川家康屋敷を訪ねる。(相田文三、p330)

十月 ★下野国宇都宮城主であった宇都宮国綱が突如改易される。この事件は類縁の佐竹氏も巻き込まれることとなり、佐竹家の取次の石田三成も対処を求められることになった。(中野等、p337)

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十一月 ★加藤清正、「慶尚道蔚山で城郭普請を進める。」(柴裕之、p131)

十一月八日以前 ★浅野長政、蒲生家の宇都宮転封の観察として宇都宮に下る。(相田文三、p330)

十二月二十三日 ★毛利輝元が伏見に上り秀吉に拝謁する。これは朝鮮へ渡海しようとする輝元に対し、渡海には及ばぬとすみやかに帰還を命じ、輝元はやむなく壱岐から引き返してきた。今回の輝元上洛は秀吉の配慮に対する御礼言上のためである。

 この時、秀吉に近侍する石田三成の「肉声」が残されている。(中野等、p345~346)

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十二月二十三日 ★「明・朝鮮両国の軍勢が加藤清正蔚山城を攻め囲む。」(柴裕之、p187)

 

 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収) 

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年