古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑰ 慶長三(1598)年一月~七月 三成39歳-慶長の役②、蔚山城の戦い、蒲生秀行の宇都宮転封、上杉景勝の会津転封、蜂須賀家政・黒田長政らの処罰、秀吉の病重篤となる、筑前・筑後巡検

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★上杉景勝は、新春を伏見屋敷で迎えたとされる。(尾下成敏②、p270)

正月四日 ★「日本軍の諸勢が蔚山籠城中の加藤清正の軍勢を救援し、明・朝鮮国の軍勢を撤退に追い込む。」(柴裕之、p187)

正月六日 ■島津義弘石田三成蔚山城の戦いに関する詳細な戦況報告を送っている。(中野等、p347)

正月十日 ■「越後の上杉景勝は、秀吉から慶長三年(一五九八)正月十日付で奥州会津への国替を命じられる。蒲生秀行の宇都宮への減転封をうけたものである。(中略)この転封を進めるため、三成は奥州に下ることになる。」(中野等、p348)

正月十一日 ★上杉景勝は伏見を発って大坂に向かい秀吉に国替えの礼を行う。(尾下成敏②、p270)

正月十二日 ★上杉景勝、伏見屋敷に戻る。(尾下成敏②、p270)

正月二十一日 ■徳川家康が四奉行(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)に伏見城の「御普請」に応じるため人数を京着させることを告げる書状を出している。(中野等、p342~343)

正月二十五日 ★浅野長政は、この頃徳川秀忠と共に伏見にいたものと考えられる。(相田文三、p330)

二月十日 ■「直江兼続が、三成の家臣今城次右衛門尉・木村造酒丞らに充て、上杉旧領の北信濃に位置する海津城(のち松代城)・長沼城の両城引き渡しに関わる覚書を発する」(中野等、p350

二月十六日 ■「三成は、上杉家老臣直江兼続連署して、会津領などに禁制などを発給している。」(中野等②、p308)

二月二十一日 ■慶長二年六月十二日付で蒲生家重臣、蒲生郷成・小倉良清・蒲生郷可による「御新座衆へ相渡物成御算用状」といった資料が、慶長三年二月二十一日付で石田家家臣、八十島助左衛門尉充て提出される。(中野等、p350

三月四日 ■「さらに、この両名(筆者注:石田三成直江兼続)は連署して、蒲生家重臣蒲生郷安(四郎兵衛)の引き移りに関わる伝馬・人足の規定を定めている。」(中野等、348)

三月六日 ★『上杉家御年譜』には、この日上杉景勝が伏見を発ったとされる。(尾下成敏②、p270)

三月十三日 ★秀吉、「日本勢の中で検討された戦線縮小案を「曲事」と咎める。」(柴裕之、p187)

三月十五日 ★秀吉、「山城醍醐寺で大規模な花見を催す(醍醐の花見)。」(柴裕之、p187)

三月十九日 ★『上杉家御年譜』には、この日上杉景勝会津城に到着したとされる。(尾下成敏②、p270)

四月三日 ★浅野長政、「伏見で徳川秀忠より幸長帰朝の祝いと明後日の来訪についての書状を受けている。」(相田文三、p330)

四月十五日 ■「三成が越後国刈羽郡に関する条書を発している。」(中野等、p351)

四月二十三日 ★「豊臣秀頼が数え六歳にして従二位権中納言となる。」(柴裕之、p187)

五月二日 ★軍目付の垣見一直・熊谷直盛・福原長堯ら、朝鮮より帰国し、上洛し秀吉に謁見する。この報告により、蜂須賀家政黒田長政・竹中隆重・毛利友重・早川長政に処分が下る。(中野等、p347)

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五月三日 ■石田三成、越後から佐和山に帰着。(中野等、p352)

五月三日 ■福原長堯、石田三成に書状を送る。五月二日の秀吉への謁見内容についての報告。

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五月五日 ■石田三成、帰京。(中野等、p352)

五月二十二日 ■石田三成、島津家の「算用場」に関わる規定などを発給する。(中野等、p360)

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五月二十三日 ■石田三成、嶋井宗室充て、博多への下向及び宿所を嶋井邸とすることを伝える。(中野等、p361)

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五月二十六日 ■垣見一直・熊谷直盛・福原長堯、島津義弘に書状を送る。

 この書状には、筑前筑後から越前北庄に小早川秀秋が転封となったことを受け、秀吉は旧小早川領を石田三成に与えようとしたが、佐和山に配すべき別の人物がいないということを理由に三成が辞退したこと、代わりに筑前筑後の代官としての支配を三成が命じられたこと、また、来年には福島正則石田三成増田長盛を大将として朝鮮に軍勢を派遣する予定が書かれている。(中野等、p357~358)

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★この書状で、浅野「長政が「奉行」に加われたことが、島津義弘・家久に告げられている。」(相田文三、p330)

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五月二十九日 ■三成、京を発ち筑前に下向する。(中野等、p361) 

六月 ★秀吉「重篤の身になる。」(柴裕之、p187)

六月十七日 ■三成、博多入りし、二十六日まで逗留する。(中野等、p361)

六月二十二日 ■三成、小早川旧領に対する年貢収納の詳細を定める「条々」を発する。(中野等、p361)

六月二十六日 ■三成、この頃から筑前と北筑後巡検する。(中野等、p362)

七月二日 ■三成、この頃までに博多に戻っている。(中野等、p363)

七月三日 ■この日も、三成の在博多が確認される。(中野等②、p309)

七月十日 ■七月十日以前には、三成は筑前を発って伏見に帰る予定であった。(中野等、p363)

七月十二日 ★秀吉、徳川家康毛利輝元以下諸大名に遺物を分かち後事をたくす。(穴井綾香、p234)

七月十五日 ★秀吉、「この日付で、諸大名・小名に秀頼への忠誠を誓った起請文を提出させる。」(柴裕之、p187)

七月十五日 ★徳川家康前田利家毛利輝元との間に起請文が交わされる。(中野等、p364)

七月十五日 ■島津義弘宛、増田長盛浅野長政前田玄以連署状。長束正家が越前に、石田三成が九州へ下向という理由で奉行衆三人となっている旨がわざわざ述べられており、「五奉行」の連署が本来の形であることが示されている。(中野等、p360)

七月十五日 ★西笑承兌、「在伏見:家康・利家宛、秀吉への忠誠起請文起草」(杣田善雄、p413)

七月中旬 ■この頃、石田三成の在京が確認される。(中野等、p364)

七月十七日 ★浅野長政、「島津義弘に対し、秀吉の病状回復を告げている。」(相田文三、p330)

七月二十二日 ★秀吉の病を見舞うため前田利家徳川家康らと登城。(尾下成敏、p221)

七月二十三日 ■この頃、大阪城の大規模な拡張工事が進められる。この頃、浅野長政石田三成増田長盛大坂城に下向している。(中野等、p365~366)

七月下旬 ★秀吉の遺物分けがすすめられる。(中野等、p364)

七月二十四日 ★浅野長政、「近江神崎郡において蔵入地1万石の管理と、5000石を加増する旨の秀吉朱印状を受けた。(相田文三、p330)

 

※慶長三(1598)年八月以降は、「慶長争乱(関ヶ原合戦)時系列まとめ・関ヶ原への百日」を参照。↓

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 参考文献

相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

穴井綾香「毛利輝元の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

尾下成敏「前田利家の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

杣田善雄「西笑承兌の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)