古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

慶長の役の時の小西行長と加藤清正について

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 1597年(慶長2年)に文禄の役の講和交渉の破綻により、豊臣秀吉は諸大名に朝鮮へ再出兵を命じます。1月に小西行長は通事の要時羅を朝鮮の慶尚右兵使である金応瑞のもとに遣わせ、加藤清正軍の行動日程と上陸場所の情報を流し、上陸する加藤軍を討つように勧めます。

 

 この話は行長が清正を陥れようとしたエピソードとして伝えられ、行長と清正の不和を示すものとして語られますが、実際にはこれは日本軍の作戦の一部であり、いわゆる「偽報の計」だったのだと思われます。

 

 秀吉はこの慶長2年の時点では健在であり、秀吉によって再度の朝鮮出兵が命じられているのです。一般的に行長は講和派、清正は主戦派とされますが、講和派の行長としても戦局的に有利な状況にならなければ有利な講和ができないことも分かっていますので、実際の朝鮮出兵の戦闘では、行長は最も積極的に戦っている大名の一人となっています。

 

 秀吉死後の撤兵時の混乱した状態であればともかく、慶長の役の最初の上陸作戦の段階で行長が清正を陥れる行動を取るメリットは全くありません。清正を陥れることを目的に行長が実際このような行動を取ったとしたら、秀吉によって重い処罰を課せされるのは間違いないでしょう。特に処罰云々の話が全くなかった事実が、これが日本軍の作戦の一環であったことを裏付けています。

 

 このエピソードを「小西行長加藤清正を陥れようとした」ものであると解するのは間違いです。

 

 朝鮮水軍の将、李舜臣はこの計略を聞いて「「倭軍は、変詐に充ち満ちており、必ず海路に伏兵を設けているはずだ。その策に乗れば、術中に陥る」と、これ(筆者注:清正軍襲撃の命令)を拒絶」(*1)します。

 

 清正は上陸に成功し、命令を拒絶した李舜臣は更迭されますが、実際には李舜臣の読みが正しく、この清正上陸の情報を鵜呑みにして誘い出されて出撃してきた朝鮮水軍に対して伏兵を置いて撃破するのが、日本軍の本来の目的だったと思われます。

 

 こうした「偽情報」を敵に流し、相手を騙して誤った行動を取らせこれを撃破する「偽報の計」は戦争ではよく使われる計略であり、文禄の役で朝鮮水軍に手こずった日本軍が、最初の戦いの段階で朝鮮水軍を叩き打撃を与えることを目的としてこのような計略を立てたのではないかと考えられます。

 

(平成29年5月20日追記)

 山内譲『豊臣水軍興亡史』(吉川弘文館、2016年)の注によると、「また、鄭杜熙氏は、朝鮮王朝内の政争を経て後年『宣祖修正実録』が編纂された段階において、加藤清正問題は日本軍が朝鮮水軍を誘引するための計略で、それを知って出動しなかった李舜臣は正しい判断をした、という方向に叙述が修正されていることを指摘している(『李舜臣に関する記憶の歴史とその歴史化」)。(p239)とあります。

 

 上記で検討した通り、前後の史実の経緯から考えるならば『宣祖修正実録』の記載が正しいと思われます。

 

 注

(1)北島万次 2002年、p76~77

 

 参考文献

北島万次『日本史リブレット34 秀吉の朝鮮侵略山川出版社、2002年

李啓煌「朝鮮から見た文禄・慶長の役」『岩波講座 日本歴史 第10巻 近世1』岩波書店、2014年

山内譲『豊臣水軍興亡史』(吉川弘文館、2016年)