☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)
正月六日 ★小西行長らの守る平壌城、明・朝鮮連合軍の攻撃を受ける。(中野等、p175)
正月七日 ★総攻撃を支えきれなくなった小西行長らは平壌城を放棄し敗走する。(中野等、p175)
正月八日 ★平壌を脱した小西行長らは、黄海道鳳山に到着する。ここは大友義統が守っているはずだったが、すでに大友勢は城を捨てて遁走した後だった。さらに小西行長は南下し黒田勢と合流する。当時、黒田長政は黄海道白川にいたが、明軍の追撃を避けるため、ともども小早川隆景・吉川広家の拠る京機道の開城へ退く。(中野等②、p99)
しかし、開城に集結した軍勢も戦線を立て直ため、ほどなく漢城へ移動する。小早川隆景らは開城撤退に反対したが、大谷吉継の説得を受けて漢城へ撤退することになる。(中野等②、p99~100)
正月十一日 ■石田正澄・長束正家充て前野長康・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛書状。内容は、
・小西行長(平安道・平壌)の軍勢は、兵粮が不足し継続も難しいと考えていたところ、明軍からの謝罪の申し出があったたため、(休戦協定を結び)、平壌からの撤退(終戦協定の条件の中に日本軍の平壌撤退が入っていたと考えられます)を準備していた。
しかし、加藤清正(或鏡道)の先手の者が失態をおかし(或鏡道での清正勢の苦戦のことを指すかと思われます)、熊川付近に展開していた軍勢が新城の攻略に失敗(晋城攻略失敗のこと?)したこと、海戦でも日本水軍が苦戦していることが北京に伝えられた結果、明軍は休戦協定を破り、大軍を持って明軍は平壌を襲撃した。正月四日から七日まで激しい戦いがあったが、敵の攻撃は激しく小西勢も兵粮が尽きたため、平壌から(小早川隆景のいる京畿道・開城)へ撤退した。是非もないことである。
・黒田長政(黄海道・白川)の陣所へも敵三万が攻撃を仕掛けてきたが、撃退した。長政の陣も兵粮は長く持たないので、消耗を考慮して行動すべき。
・漢城(京畿道)には去年苅田したことによる兵粮は正月中はある。その外に各軍に配り終えた残りの兵粮は一万四千石となる。
・漢城から釜山開までの間のつなぎの城は丈夫に構築しているが、朝鮮国内の反攻が激化している。兵粮が不足し、兵力のゆとりもない。朝鮮への新たな軍勢もないままに、朝鮮の奥地へ兵力もなしに深入りしたのが、かかる事態となった原因である。
・小早川隆景(開城)は期待通りに持ちこたえているので問題はない。
・加藤清正(或鏡道)らは無計画に奥地に入り込みすぎたので、撤退するようたびたび使いを出しているのに、征服地は穏やかに治まっているとして、後退してこない。どうしようもないことである。
・昨年も申し上げたとおり、釜山浦へ兵粮が到着することが肝要。
・朝鮮水軍を日本水軍が抑えることができていない。これは敵方にある三〇〇艘あまりの「かこひ舟」が日本側に一艘もないから。我が方にも「かこひ舟」を備えることが必要。
・兵粮さえ十分にあれば、どれほどの敵が出てきても打ち果たすことが可能だが、どの軍勢も兵粮が不足している。
・福島正則の陣所(京畿道竹山?)に敵が三~四万で攻撃をかけてきたが撃退した。しかし、敵の人数は減少せず、こちら側の損害も重い状態となっている。
・こちらの一人なりとも名護屋へ向かわせたいと使者に言伝している。兵粮の手当と釜山浦に然るべき指揮官を確実に派遣すべく、(秀吉様に)御指示いただくのが肝要と考える。つなぎの城が万一遮断された場合は、回復できるように軍勢を増派していただきたい。
(中野等、p175~181)
正月十二日 ★この頃、江原道の在陣諸将(江原道には、金化に島津義弘、鉄原に伊東祐兵、春川に島津忠豊、原川に毛利吉成・秋月種長・高橋元種らが展開していた)に対して、京畿道の陣替えが命じられる。「朝鮮半島を全域的に支配しようとする戦略はすでに放棄され、戦略の基本は漢城と釜山を結ぶ経路の確保にようやく移ったのである。」(中野等②、p100~101)
正月十五日 ★加藤清正充て島津義弘書状。小西行長の平壌の敗退を告げ、清正に漢城への撤退を勧める書状。万が一漢城の日本軍が撤退した場合、或鏡道の加藤軍は孤立することになるので、撤退を強く勧めている。この後、奉行衆から再度(昨年十一月にも加藤清正は奉行衆から撤退の指示を受けている)の撤退指示を受け、撤退を判断している。(熊本日日日新聞、p68~69)
正月十六日 ★小西行長勢、漢城に入る。(中野等②、p102)
正月十八日 ★明の先鋒、開城に入る。(中野等②、p102
正月二十一日 ★漢城にほとんどの軍勢が集結。(中野等②、p102)
正月二十三日 ■木下吉隆・山中長俊・長束正家充て前野長康・加藤光泰・石田三成・大谷吉継・増田長盛書状。
内容は、
・当初、開城での明軍迎撃を想定してが、開城を維持するのは実質困難なため、開城にいる小早川隆景・黒田長政・小西行長隊は、漢城に移動させること。漢城付近に明・朝鮮軍が押し寄せてくれば、これを討ち果たす作戦であること。
・兵粮不足が深刻であること。この事態を打開するために諸将談合の上、(穀倉地帯として知られる)忠清道・全羅道を攻める予定であること。しかし、この両道を制圧しても兵粮の確保できるか保証はできないこと。
・朝鮮国は広大であり、味方の人数は少なく、このままで奥地に入りすぎると前線とののつなぎの城に充当すべき人数にも不足すること。このため、海端や河端にいくつか城を構築し、相互に連携して地域を制圧するように命令していただけないか提案している。
・通信が途絶しており、使者も注進の返信も帰ってこないことを嘆いている、等
(中野等、p182~188)
⇒漢城に諸将を集結させ、漢城付近で明・朝鮮軍を迎撃する作戦(→碧蹄館の戦い)、忠清道・全羅道の攻略(→晋州城攻略)、海端や河端にいくつか城を構築(→「倭城」の構築)等、後の日本軍の戦略はこの注進状で提案された計画に沿って進んでいく形になります。
正月二十六(二十七)日 ★日本軍と明軍、漢城の北16キロほど離れた碧蹄館で衝突。激しい戦いとなるが日本軍の勝利に終わる。(碧蹄館の戦い)(中野等②、p102では一月二十七日、(中野等③、p16)では一月二十六日となっています。)
正月二十七日 ■「三成ら三奉行は(筆者注:碧蹄館の)捷報をすみやかに名護屋に伝えた。また、三成自身も碧蹄館で戦った諸将に軍功を称える書状を発している。」(中野等、p189)
正月二十八日 ■細川幽斎家臣麻植長通、島津義弘とともに朝鮮に在陣中の伊勢仁世に書状を送り、「幽斎仕置」の完了を告げる。没収した寺社領の検地は終わったが、延期とした薩隅検地を完了しないと軍役調達は難しいため、石田三成に検地を依頼するようアドバイスをしている。それとともに、島津義久の命令はいつも緩んでいるのではないかと批判もしている。(新名一仁、p194)
二月二日 ■石田三成・大谷吉継・増田長盛、豊臣秀次の使者丹羽五平次の日本帰還の際に、諸々の指示を行い、帰国の便宜をはかっている。(中野等、p189~190)
二月十二日 ■漢城から北西に15.6キロほどに位置する辛州山の古城に集結した朝鮮軍を日本軍が攻める。日本軍は苦戦し、城を落せずに退却。この戦で日本軍はかなりの死傷者を出し、宇喜多秀家、吉川広家、石田三成、前野長康らまで負傷する状態だった(辛州山城の戦い)。(中野等②、p104)
二月十五日から二十日 ★明軍の使者馮仲纓が安辺の加藤清正のもとを訪れ、協議をしている。馮仲纓は朝鮮王子の引き渡しと或鏡道からの撤退を要求し、清正は朝鮮領土の割譲を要求した。両者の折合いはつかず、明使は還去する。(この時期、奉行衆からの再度の漢城への撤退指示が清正に出ており、朝鮮側の反攻で甚大な被害を被っている加藤勢も撤退を応じる方針だったが、明使に対しては強硬な姿勢を崩さなかった。)(中野等②、100~101)
二月二十一日 ★清正、「安辺の陣所を引き払い、漢城へ発足する。」(中野等②、p102)
二月中旬 ★平壌の敗報、名護屋に届く。秀吉の三月渡海計画がただちに再延期されることになる。(中野等②、p107)
二月十五日 ★島津義久宛て石田正澄書状。秀吉の渡海は四・五月になるとしている。(この四・五月の渡海計画も実現することはなかった。)(中野等②、p107)
二月後半 ★浅野長吉・黒田孝高、秀吉から戦局の立て直し・兵站補給体制の見直しを指示され、朝鮮半島に渡る。しかし、内陸部の兵糧事情を危惧し、沿岸部にとどまっている。(中野等、p197)
二月十八日 ★二月十八日付秀吉朱印状。これまで前線の将達に何らの決定権を与えていなかった秀吉だったが、今後は、秀吉の大局的な指示のもと、宇喜多秀家を「大将」として秀家に現地軍を指揮する権限を与える体制に再編をはかる。(中野等②、p108)
二月二十七日 ★諸将は漢城で軍議をもつ。秀吉渡海の延期の上申の他、漢城放棄の議論もかわされたようである。(中野等②、p105)
二月二十八日 ★鍋島直茂、漢城に戻る。(中野等②、p105)
二月二十九日 ★加藤清正、朝鮮の両王子とともに漢城に戻る。(中野等②、p105)「1万人いた加藤清正の軍勢は逃亡も相次ぎ、漢城に撤退した時点では約5千500人までに減っていたという。」(熊本日日日新聞、p69)
三月十日 ★秀吉、漢城からの撤退もやむなしと考える。慶尚道尚州(古都)までの後退を認めるが、そのかわり晋州城の攻略を至上命令とし、その陣容を示した。(中野等②、p109~110)
三月頃 ★碧蹄館の敗戦で厭戦気分が明軍にも拡がっており、平壌の李如松らが日本との講和の可能性を探るようになる。沈惟敬と小西行長のあいだに交渉が持たれることになる。(中野等②、p115)
三月中旬 ★漢城の南にあった竜山館の兵糧が明軍の策略により燃やされる。これにより、城内の食糧事情は悪化の一途をたどる。(中野等②、p115)
三月二十日 ★木下吉隆・長束正家充て加藤清正書状。清正としてはあくまで或鏡道の経略は成功したとし、隣国(平安道・黄海道・江原道などか)の経略不調のためやむを得ず漢城に戻った。清正は前線へ少しでも前に進むことを主張し、平安道・黄海道からの撤退に反対したが、諸将の容れることにならず、本意に反して或鏡道の放棄に至ったとしている。(中野等⑤、p132~134)
⇒実際には、清正の或鏡道の支配は最終的にはうまくいっておらず、朝鮮の反攻も相次ぎ、各地に点在する加藤軍は孤立し苦戦している状況でした。それにも関わらず清正はあくまで或鏡道支配の成功を強調しています。これは秀吉の評価が下がれば、今までの地位もあっという間に転落し処分されることを恐れたものといえます(後述するように、実際に五月一日付で朝鮮陣で失態のあった大名を改易処分を下しています)。豊臣軍の諸将は、常に秀吉による評価にさらされており、失態すれば改易等の処分を受けるプレッシャーを受けていたという事です。
四月九日 ★沈惟敬、小西行長の陣所で交渉を行う。(中野等③、p183)
四月十七日 ★明から派遣された「勅使」が漢城に入る。しかし、この「勅使」は、明の将宗応昌の幕下の将であり、明国皇帝の意志とは関係のないでっちあげの「偽りの勅使」であった。(中野等、p193)(中野等③、p184)
この時の、日明の交渉妥結内容は以下のとおりだったとされる。
一、明から講和使節を日本に派遣。
二、明軍の朝鮮からの撤退、
三、日本軍の漢城からの撤退
四、朝鮮の二王子と従臣の身柄返還、」(中野等②、p116)
「ちなみに、その後の展開からみて、沈惟敬は朝鮮の領土割譲についても独断で約束していた可能性もある。」(中野等②、p116)
四月十七日 ★日本軍、交渉の妥結を受けて漢城撤退。(柴裕之、p186)
四月十七日 ★加藤清正充て豊臣秀吉朱印状。加藤清正・鍋島直茂らの漢城撤退をもっともなこととし、朝鮮王子は返還もありうるためそれまで厳重に監視すること、晋州城を攻撃する書状を改めて送ること、年二回ほど鴨緑江まで攻め上がれば朝鮮は戦意を失い、日本に服従するであろう等の内容が書かれている。ここでは、自らの渡海や明攻めのことは書かれておらず、朝鮮支配が最重要課題になっていることが分かる。(熊本日日新聞、p71)更に、「朝鮮の現地を見たわけではなく、手強い相手ではないという前線諸将の報告をもとに、積極的に攻め進むよう命じたが、今思うと、漢城に兵を留め、広大な朝鮮の地を推し量って作戦を立てていればよかった。奥地へ攻め込んでしまったため、各地で一揆や反乱が起きてしまった。今後はしっかり見極めて判断することが大事だ」(熊本日日新聞、p71)と述べている。
⇒上記の文は、これまでの清正の秀吉に対する注進を全否定するような内容であり、この書状を読んだ清正は大きな衝撃を受けたのではないでしょうか。
四月十八日 ■石田三成・大谷吉継・増田長盛、島津義弘・中川秀成・福島正則ら二十一名の諸将に充てて、日本に渡る明の「勅使」の護送(饗応・従者への食事の供給・宿所の手配等)について指示を出す。三成・吉継・長盛も漢城を離れ明使に同行する。(中野等、p194~195)
四月? ■浅野長政と黒田孝高との面談をする必要を感じた三奉行(石田三成・大谷吉継・増田長盛)は、南下して梁山で浅野長吉(長政)と面談した。一方、黒田孝高は秀吉の指示をうけるため名護屋へ向かったため、孝高との面談は行われなかった。(中野等、p197)
四月末 ★明の「勅使」が小西行の長の陣に入ったという注進状が肥前名護屋にもたらされる。「勅使」の日本派遣は、明の日本に対する降服の使節として読み替えられることとなる。(当時の外交上の慣習として、先に国書を指し出すことは相手への恭順を意味することになるため、日本側がこれを「降服の使節」と解釈するのはおかしなことではない。)(中野等②、p117・p120)
五月一日 ★秀吉、戦線放棄した豊後の大友義統を改易処分とする。また、与力として従うべき島津義弘や鍋島直茂に従軍せず、帰国を企図したとして、島津一門の島津忠辰と肥前の波多親を改易処分にする。(中野等②、p120~121)
五月一日 秀吉、軍令を発する。明からの「詫び言」を受け入れる一方で、晋州城の攻略の厳命、その後の全羅道(赤国)侵出を指示。(中野等②、p121)
五月六日 ■三成らの一行は、五月六日までに釜山へ到着。(中野等、p197)
五月十三日 ■「三成らの一行は、偽りの勅使を伴い、五月十三日早暁に名護屋に到着。(中野等、p198)
五月二十日 ★秀吉、朝鮮在陣の諸将へ向け、「晋州城攻撃や「仕置き」の城普請について、かなり具体的な指示を発する。」(中野等②、p122~125)
五月二十日 ★島津義弘、晋州城の攻撃を命じられる。この時の軍勢は2128人であり、朝鮮渡海時の軍役の1万人からは隔たりがあった。(新名一仁、p195)
五月二十一日 ★黒田孝高、名護屋に戻る。「沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきか、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。」(中野等④、p171)しかし、こうした行動(無断帰国)は、軍律違反と秀吉にとらえられ、また晋州城攻めに何の手配も施さないまま名護屋に戻ったとみなされたため、秀吉の怒りを買い対面も許されず朝鮮に追い返されてしまうことになる。(中野等④、p171~172)
(参考)
五月二十三日 ★秀吉、「明国使節」と引見。(中野等②、p129)使節の滞在はこの後一ヶ月以上に及ぶが、これは講和条件について朝廷の勅許を得る必要があったためである。(中野等②、p130)
五月二十四日 ■使節をともなってきた石田三成・増田長盛・大谷吉継・小西行長、朝鮮に戻る。(中野等②、p129~130)
六月五日 ■島津義久、石田三成に書状を送る。「幽斎仕置」に対する不満(蔵入地の代官に義久がまったく知らない「若輩者」が配置され、義久が信を置く代官は「悪所」に移し替えになったことへの不満)が述べられている。(新名一仁、p190)
六月十六日 ■石田三成は、相良頼房充て書状で「一両日中」の熊川訪問を告げている。(中野等、p199)
六月二十日 ★小西行長家臣・内藤如安、釜山を発つ。(中野等②、p156)
六月二十一日 ★日本軍、晋州城を囲んで攻撃開始。(中野等②、p133)
六月二十一日 ★島津義弘、晋州城の攻撃に従事。(新名一仁、p195)
六月二十八日 ★秀吉、「明国使節」に明との和平に七ヵ条の要求を提示。(柴裕之、p121~123、p186)内容は、「明皇女の天皇后妃化、断絶していた日明貿易の再開、誓紙の交換、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮国王子の人質差し出し、朝鮮国重臣の誓紙提出など」 (柴裕之、p123)加藤清正が捕えた朝鮮二王子の返還も条件に記されている。(中野等②、p132)
六月二十八日 ★「明国使節」、名護屋を発ち、朝鮮に戻る。(中野等②、p133)
六月二十九日 ★晋州城、陥落。(中野等②、p133)
七月五日頃 ★晋州城陥落の報せが秀吉のもとにもたらせされた。(中野等②、p133)
七月七日 ★明との交渉を進める使節となった小西行長家臣・内藤如安、漢城に入る。(中野等、p155~156)
七月八日 ■宇喜多秀家、慶尚道の昌原に入り、石田三成・大谷吉継・増田長盛らと朝鮮支配について談合を持つ。(中野等、p201~202)
七月八日 ■島津義久充て島津義弘書状。細川幽斎が薩摩・大隅の検地を義弘外家中の留守中に行うという情報に困惑し、検地を石田三成に委ねるべきことを提言をしている。(中野等、p206~207)
七月十八日頃 ■三成、大谷吉継・小西行長らとともに明国「勅使」を伴い、半島南岸の巡検を行っている。(中野等、p203)
七月二十七日 ★秀吉、朝鮮における「御仕置きの城々」を指定し、守備体制を細かく定めた目録を諸将に発する。「御仕置きの城々」の警衛から外れた諸将の日本への帰還が始まることになる。(中野等②、p138~140)
八月 ★明将李如松及び明兵三万、漢城を発ち、明へ帰る。(中野等②、p156)
八月三日 ★秀吉と淀殿との間に、拾(秀頼)が誕生。この報を受け、秀吉は大坂に戻り、その後名護屋に戻ることがなかった。(柴裕之、p186)
八月三日 ★島津久保、留守居の新名忠元充て書状。「幽斎仕置」により、没収した土地は蔵入地にせよと秀吉の命令があったにも関わらず、皆に配当したことは許されず、配分した所領は没収し、年貢を確かに納入させよと命じる。勝手な者がいたら「成敗」せよとも命じている。(新名一仁、p198~199)「久保がこれほど厳しい指示を出しているのは後にも先にも無く、怒り心頭の様子がうかがえる。」(新名一仁、p199)
八月 ■石田三成ら三奉行は、浅野長吉を支えて在番体制の構築を行っている。(中野等、p210)また、それとともに熊川城の要害構築にたずさわっていた。(中野等、p211)
八月 ■要害の構築を終え、在番を免除された大名の日本帰還が始まる。浅野長吉や三成ら三奉行は、兵粮の確保などの善後策を行い、将兵の帰還を指揮した。(中野等、p211)
八月九日 ★無断帰国した黒田如水(孝高)に対する秀吉の怒りは解けず、如水(孝高)は死を覚悟し息子長政に「遺言」を遺す。これより前、八月上旬には孝高は剃髪・入道して如水と号した。(朝鮮に追い返された後の如水(孝高)は、朝鮮の長政軍に同道していたようである。)(中野等④、p173~174)
八月十日 秀吉、如水を助命する。「秀吉は本来なら如水は「成敗」すべきであるが、そうなると長政の奉公にも支障が生じるだろうから助命に決したと告げている。(中野等④、p174)
八月十六日 ■島津義弘・久保充て(石田三成家臣)安宅秀安書状。「三成が帰国後すみやかに上洛して秀吉に義久隠居の件を言上するので、三成の上洛から二〇日程度経たのちに島津家の使者を上方へ派遣するように指示している。」(中野等、p207)
「要は、石田三成が秀吉を説得して、義久を強制的に隠居させて久保が家督を継承し、義弘・久保親子が領国支配の全権を掌握するという強行策・荒療治である。」(新名一仁、p200)
八月二十一日 ■島津義弘・久保親子充安宅秀安(石田三成家臣)書状。「これまでの義久ら国元の不作為を書き上げて糾弾した上で、「御分別此時候」と父子の決断を迫っている。」(新名一仁、201)「この前後、義弘は名護屋在陣中の奉行長束正家に対して書状を送り、幽斎「仕置」で「棄破勘落」された寺社領のうち一万一〇〇〇石が代官や朝鮮に出陣もしない者らに宛行われている現状を訴え、「棄破勘落」分を残らず久保の蔵入地にするよう命じる秀吉朱印状の発給を要請している。」(新名一仁、p201)
八月二十三日 ★在朝鮮の義弘側近山崎久兵衛尉・川上忠兄充て新納旅庵(栗野留守居)書状。「幽斎仕置」により義弘領である大隅国の収穫量の良い土地は、義久の蔵入地と鹿児島在番衆のものになってしまったと報告している。(新名一仁、p197~198)
八月二十五日 ★秀吉、大坂に到着。(中野等②、p143)
八月二十七日・二十八日 ■島津義弘・久保充て安宅秀康書状。義久の隠居を決断するよう促す内容。(新名一仁、p201~202)
九月 ★明の李松如の軍勢が鴨緑江を超える。(中野等②、p156)
九月 ★内藤如安、明国に入るが遼東で足止めを受ける。(中野等②、p156)
九月四日 ★秀吉、日本の五分の四を秀次に与え、五分の一を拾(秀頼)に与える分割案を秀次に提案。(藤田恒春、p141)
九月八日 ★「島津義弘の長子で義久の婿となり獅子に定まっていた又一郎久保が、巨済島(唐島)の島津陣内で急逝する(中略)久保の急死により、義久を隠居させる計画もご破算となる。」(中野等、p207)
九月十日 ■「三成は朝鮮在陣中の島津忠長以下御一家・国衆七名、喜入忠続以下重臣一六名に対して条書を与え、久保供養のための帰国は義弘が命じた一〇〇名以内とし、久保の陣所に誰か「老衆之中」または「人持之仁」を在陣させることを命じている。」(新名一仁、p203)」
九月二十一日 ★秀吉、尾州・三州・遠州・駿州の東海四国に鷹狩へ向かう計画を発表。(中野等②、p154)
九月二十三日 ★在番を継続する諸将に対する手当を終えた三成は、日本へ帰る。九月二十三日に名護屋に着岸。(中野等、p213~214)
九月二十五日 ■島津家重臣・伊集院幸侃?充て石田三成書状。島津久保の急死を受けて、久保の弟忠恒を島津家の後継として推し、忠恒のすみやかな上洛を促す内容。義久側では、義久の次女婿である島津彰久を後継として動きがあり、豊臣政権に非協力的な義久側の推す彰久を後継とさせないため、義弘の息子である忠恒を早急に決める必要があった。(中野等、p214~216)この書状には、島津領国の仕置・検地も決定した、とある。(新名一仁、p205)
閏九月十三日 ■浅野長吉・増田長盛・石田三成・大谷吉継が一両日中に京に参着することを知らせる書状。(中野等、p219)
閏九月二十六日 ■長束正家・木下吉隆・山中長俊・石田三成・増田長盛・大谷吉継らへ寿楽廻りに屋敷が充行われる。(中野等、p220)
閏九月二十六日 ★秀吉、「朱印状で、蓄電した将兵を追跡して厳罰を加えるという現地諸将の申し入れを許諾し、将兵の判別をはかるため、それぞれが領国へ往来するのに際して「切手」、すなわち手形を発行することを提示している。」(中野等②、p163)
閏九月三十日 ■朝鮮在陣の島津義弘充て(当時上洛していた)安宅秀安書状。義久隠居の件の上申取り下げ、島津忠恒の上洛及び忠恒が後継となるよう尽力する旨が書かれている。(新名一仁、p205)
十月一日 ★秀吉、拾と秀次の娘との間の婚約を決める。(柴裕之、p186)
十月一日 ★朝鮮国王、漢城へ帰還。(中野等②、p144)
十一月初旬 ★秀吉、「小琉球」(フィリピン)、「高山国」(台湾)へ入貢を促す。(中野等②、p153~154)
十一月五日 ■秀吉、大坂城二丸御門の定番を行う者は、前田玄以・浅野長吉・石田三成が決定する規定に従う旨等の「定」を発する。(中野等、p221~222)
十一月七日 ■前田玄以・浅野長吉・石田三成、全国の陰陽師を家族ともどもに京都に集めさせる。(中野等、p220)
十一月十五日 ■秀吉、大坂城に関する「定」を発する。この定めによると、二の丸御門の定番は、前田玄以・浅野長吉・石田三成が決定する規定に従って決定することとなっている。(中野等、p221~222)
十一月十八日 ★秀吉、大坂から伏見に入る。(中野等②、p154)
十一月十九日 ★秀吉、尾張に下る。(中野等②、p154)
十一月二十日 ★浅野長吉・長継(幸長)父子、朝鮮で没した加藤光泰の跡を受け甲斐一国を与えられる。この時、長吉には、伊達政宗・南部信直・宇都宮国綱・那須資晴・成田氏長らが与力として付られている。(中野等、p264)
十一月二十四日 ★秀吉、秀次の実父三好吉房が預かる清洲城に到着。(中野等②、p154)
十一月二十八日 ★秀吉、清洲城を発つにあたり、九ヵ条にわたる「条々」を発する。尾張の荒廃状況に触れ、復興を期して尾張八郡に奉行を派遣することを決定し、在地の荒廃状況など実態をつぶさに報告するよう命じた。(中野等②、p154)
十一月 ★島津家の継嗣、忠恒に決定される。(新名一仁、p208)
十二月中旬 ★島津忠恒、堺に入り、滞在。(中野等、p223)
十二月十三日 ★島津忠恒、伊集院忠棟とともに大坂に入る。(新名一仁、p208)
年末 ★熊川において、沈惟敬と小西行長のあいだで会談が求められる。「ここで、沈惟敬は小西に対して「関白降表」、すなわち明皇帝に上表する秀吉の降服文書の作成を要求したと伝えられる。」(中野等②、p156)
参考文献
山本博文『島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)
中野等②『戦争の日本史16 文録・慶長の役』吉川弘文館、2008年
中野等③『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年
中野等④「黒田官兵衛と朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社、2014年所収)
中野等⑤「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戎光祥出版、2014年所収)
新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年