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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その21 霊帝は暗君だったか?

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 石井仁『魏の武帝曹操』新人物文庫、2010年のp90~99「霊帝の改革」の項を読んでの感想です。

 

 後漢霊帝の評判はすこぶる悪く、実質的に後漢を滅亡に追い込んだ暗君として批判されています。石井仁氏はこれに対して、本当に「霊帝は暗君だったか?」と問いかけます。そして、「いわれるほど暗愚な帝王ではない」(p90)とします。

 

 その理由として、第一に霊帝は衰えた後漢王朝を再建するために西園軍(いつでも出動可能な皇帝直属の常備軍)を編成しようとしていた、とします。霊帝は異常なまでに蓄財に固執したとされ、そのために売官などを行い批判されましたが、その蓄財の理由の一端は軍事費の捻出にあったのではないかとします。

 

 第二に「牧伯制」を施行したとします。それ以前の州の長官である州刺史は監察官にすぎませんでしたが、これを州牧とすることで、軍政支配も保証し、将軍職を兼任させたということです。これは地方で反乱が頻発し地方官が軍事的に対処しなければいけない現実を踏まえた現実的な策といえますが、牧の権力は強大で、石井進氏も「牧伯制は帝国を分裂にみちびく、いわばパンドラの箱だった」(p96)と書いているように、地方官の権限を強めたことで、後に群雄が割拠する原因になったともいえます。

 

 そして、魏王朝によって確立した「中軍」の制度は「西園軍」の継承であり、「都督」の制度は「牧伯制」をベースしたものであるとしています。魏王朝の「中軍・都督」の制度は、六朝時代の軍制制度の根幹となりました。

「このことは、霊帝の軍制改革の先見制をものがたっている」(p99)とされ、「曹操霊帝の後継者でもあったといえる」(p99)と書かれています。

 

 以下、感想です。

 

 上記の霊帝の軍制改革は、結局対症療法に過ぎません。各地で反乱がおきるからそれに対処するために、常備軍や地方軍政が必要だという考えです。霊帝は、なぜこれだけ反乱が頻発するのかという元の原因を考えることには至りません。元の原因を除くことが朝廷の責務であることを考えれば、その原因を除くどころか、把握することすらできない時点で、それはトップとしては残念なら駄目な君主と評価されても仕方ないのではないかと思われます。

 もっとも、本当に暗君ならば対症療法すら思いつかないでしょうから、本物の暗君ともいえません。

 

 おそらく霊帝は発生する問題に対処する方法を、自分で必死に考えていたのでしょうし、その対処方法自体は後世の軍制制度の根幹になるようなものであり、先見性の高いものであることを考えると、もともとは聡明な人物なのでしょう。

 

 彼の悲劇は、貧乏皇族の出身で高等な教育も受けられず、12歳の若さでいきなり皇帝になり、右も左も分からないうちに帝を補佐すべき竇武、陳蕃が宦官粛清に失敗して逆に殺され、無知蒙昧な宦官に周囲を取り囲まれ、頼れるのは宦官ばかり、帝王学を学ぶことも、優秀な補佐を得ることも、正しい情報を得ることも出来なかったことにあるかと思います。

 

 いくら地頭が良かったとしても、周りの教育環境が悪く、情報が遮断されてしまえば、どんな人間でもまともな判断はできないということです。そういった意味で彼を暗君とするのは酷であるかと思いますが、せっかく良い素質のある帝をスポイルさせてしまう宮中のシステムそのものが、後漢の滅亡の要因だったといえるでしょう。