前のエントリー(三国志 考察 その16 曹操の清流派への転身① )の続きです。許劭の曹操の人物評価は有名ですが、実は『三国志』注と『後漢書』では表現が違います。
まず、『三国志』注にある孫盛『異同雑語』を見ましょう。(前のエントリーにも書きましたが再掲します。)
「あるとき許子将に、「わたしはどういう人間でしょうか」と質問したことがあった。許子将が返事をしないでいると、あくまでも訊ねた。許子将はいった、「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。」太祖は哄笑した。」(12ページ)
ここでは、「治世の能臣、乱世の姦雄」という評価です。
これに対して、『後漢書 許劭列伝』では以下の表現になります。
「曹操の微なりし時(無名の頃)、常(か)つて辞を卑(ひく)くし礼を厚くして己れの目(標語を与える)を為さんことを求む。劭(引用者注:許劭)は其の人を鄙(いや)しんで肯(あ)えて対(こた)えず。操乃ち隙を伺いて劭を脅す。劭已むを得ずして曰く、「君は清平の姦賊、乱世の英雄」。操大いに悦(よろこ)んで去る。」(247ページ)
『後漢書』では、「清平の姦族、乱世の英雄」という評価です。どちらの評価が許劭の曹操に対する評価として正しいのでしょうか?
まず、考えなければいけないのは、許劭はまったく曹操のことは評価していないし、その人品をむしろ卑しんでいるということです。これは曹操と会う前でもそうですし、会った後も変わっていません。
後年、許劭は宮廷に召されても乱れた宮廷の招きには応じず、(徐州の)広陵に行きます。徐州の刺史陶謙が礼を尽くしますが、陶謙の人品を評価せずむしろ警戒した許劭は、揚州刺史劉繇を頼って(揚州の)曲阿に逃げます。この後、劉繇が孫策と争って敗れると、劉繇と共に(揚州の)更に南の予章に逃げます。
このように許劭はまるで曹操から逃げるように南へ南へ逃げています。曹操を評価した橋玄が「妻子をよろしく頼みたい」と言い、また高名な清流派士人である李膺の息子李瓚が亡くなる時に自分の息子に、袁紹や張邈には頼らず曹操を頼れと遺言したのとは対照的です。これから後漢が乱世になる時に頼りになるのは、軍事能力が高いと思われる曹操であるというのが、曹操を評価する人物達(橋玄・李瓚)の意見な訳です。これに対して曹操に決して頼ろうとはしなかった許劭は、曹操に会った後も彼をまったく評価していなかったことが分かります。
こうした事を前提に上記の評価を考えていきます。
どちらの評価も「治世(清平)」と「乱世」が対比され対句となっています。そして、許劭のみならず、当時の知識人はこれから世が乱れていく、つまり「乱世」となっていくという認識だったのです。つまり「乱世」における評価が曹操に対する許劭の正しい認識を示しているといってよいでしょう。
『後漢書』の評価は「乱世の英雄」であり、『異同雑語』の評価は「乱世の姦雄」です。
「英雄」はプラスの評価です。「姦雄」はマイナスの評価です。許劭は曹操を評価していないのでマイナスの評価である「姦雄」という言葉が、許劭が実際に言った言葉であり、つまり「治世の能臣、乱世の姦雄」という評価が、許劭が実際に曹操に下した評価といえます。『後漢書』の許劭の評価は後世の歴史家が許劭の言葉を改変した評価といえるでしょう。
なぜ『後漢書』では、許劭の曹操に対する評価は「清平の姦族、乱世の英雄」に改変されたのでしょうか?(『後漢書』は南朝宋の時代に范曄によって編纂されました。)
これは、人物鑑定家としての許劭の名声に瑕をつけないための歴史家としての配慮だったのではないかと思われます。つまり人物鑑定家というのは無名の人物を見出して、後にその人物が高い地位につくであろうことを予言するから、その名が高まる訳です。(と少なくとも、改変した歴史家は人物鑑定家をそういう者として見なしていたのです。)
許劭が、鑑定した当時は無名な人物で、後に魏王、魏の初代皇帝曹丕の父という地位にまで上りつめた人物である曹操を「乱世の英雄」と評価したというエピソードであれば、それは許劭の人物鑑定家としての能力が非常に高いということを示す伝説的なエピソードになりますが、許劭が曹操に対して実は「姦雄」というマイナスの評価としていたということになると、人物鑑定家として見る目がなかったというエピソードになってしまう、とその歴史家は考えたのではないでしょうか。
そこで、後世の歴史家(范曄とは限りません)によって、マイナス評価である「姦雄」という言葉がプラス評価である「英雄」に変えられてしまった訳です。「清平の姦賊」は、元の言葉が対句であったため、それに合わせて「能臣→姦賊」に変えただけで、この改変についてはその歴史家としては特に深い意図はなかったと思われます。このため、「清平の姦族」とはいったい具体的に曹操に対するどういう評価を示しているのか、全く訳が分からない評価となっています。後世の歴史家が特に深い意図なく改変したものですから、よく分からないのは当然です。
この改変は、改変した歴史家が人物鑑定家をまるで予言者であるかのように勘違いしたことによる間違いです。少なくとも許劭の人物批評はそういうものではなかったのだと思われます。許劭の人物批評は、当然彼自身の人倫・思想による主観が批評される人物に反映された批評であり、純粋に客観的にその人物の能力を査定したり、占い師的にその人物の将来を占ったりしたものではないのです。
では、この「治世の能臣、乱世の姦雄」という許劭の評価が何を示しているのか検討してみます。
そもそも、この評価を指し示す意味として許劭が「治世」「乱世」「能臣」「姦雄」という言葉をどのように定義しているかを理解しないと、この評価は理解できません。この評価は曹操一人に向けられたものではなく、許劭の世界観、また後漢の未来を予測したものでもあるのです。ちなみに「姦」という言葉にプラスの意味を見いだそうと、ねじまげた解釈をする人がいますが、許劭にとって「姦」は「姦」であり、プラスの意味はまったくなく、純粋にマイナスの意味しかありません。これをプラスの意味もあると解釈してしまうと、許劭の考えをねじまげてしまうことになります。
まず、許劭にはこれから後漢がどうなってしまうかの予感があります。許劭に限らず当時の知識人は多かれ少なかれ、後漢の未来を憂いています。彼らが予想した未来は決して明るくなく、むしろ今より更に悪くなっている未来です。知識人たちは自分と自分の一族の未来を守るために、その将来予想される悪い事態を予測してそれに備えるために、必死に未来を予測していたのです。
彼らの共通の認識が、現在でも後漢は衰退し政治は混迷しているが、未来の後漢は更に衰退し、更に混迷する「乱世」となるであろうという認識です。
つまり、「乱世」とは「(更に悪くなるであろう)後漢の未来」を示しています。
これに対して、「治世」とは、漢帝国の「過去」あるいは「理想の世」です。理想といってもユートピアのようなものではなく、現実的に治まっている世であればよいのです。かつて、漢帝国も現実に安定し平和な「治世」がありました。どの時代を「治世」とするかは人それぞれですが、後漢であれば初代光武帝・二代明帝・三代章帝あたりは「治世」と言ってよいのではないでしょうか。その初期の良い時代以降から徐々に後漢の統治は悪くなっていき、治まった世から乱れた世、すなわち「乱世」へ向かっている、というのも当時の知識人の共通した歴史観であると思われます。
しかし、各知識人の考える後漢の未来の「乱世」の具体像は各々微妙に違います。
例えば、曹操を高く評価して頼みにした橋玄の考える「乱世」とは、おそらく異民族の反乱が拡大する、あるいは辺境の反朝廷勢力が異民族と手を結んで攻め込み大乱を起こすような「乱世」を想定していたのではないでしょうか。いわゆる「内憂外患」の「外患」を深刻視した未来予測で、橋玄はやがて起こる可能性がある異民族と反漢勢力の大乱から天下を守る次代の軍事の天才曹操を見出し、後継者として育成しようと考えたと思われます。
これに対して何顒・袁紹ら「奔走の友」の考える「乱世」とは、宦官が朝廷を牛耳り、党錮の禁で士人を弾圧する現在こそが既に「乱世」だったと思われます。彼らの考える未来の「乱世」とは、このままでは現在の「乱世」が延々と続き、後漢は衰退し続けるという危機感です。ただその結果、漢が具体的にどのようなカタストロフを迎え、滅亡するのかについてまでは具体的な像は結べていなかったのではないでしょうか。
彼らが深刻視したのは宦官の横暴という「内憂」であり、逆にいえば宦官を一掃すれば「治世」が戻るであろうという、後世から見れば楽観的なものであるといえます。彼らの曹操に対する評価も高いものですが、あくまで「期待の若者、優秀な後輩」としてのものといえます。
これに対して、許劭の未来に起こるであろうと考えている「乱世」とは、上の2つとは違って更に極めて悲観的なものです。彼の考える「乱世」とは「姦雄」が跳梁跋扈する世の中です。
まず「治世の能臣」とはなんでしょう。これは、ただの「能臣」のことを指しているのではなく、「乱世の姦雄」と対句になっていることに注意が必要です。
これは、本性が実は卑しく姦物であっても能力の高い優秀な人物は、世がきちんと治まって平穏な世にあっては姦物としての本性を示す機会はなく、「能臣」としてその能力を発揮するであろうし、そうした政治が治まっている平和な時代にあえて無謀に乱をおかそうとする程愚かではあるまい、ということです。治世においては自らの能力を発揮し、能吏と評価されることが一番の立身出世、栄達の道です。逆に言えばその官吏の能力が正当に認められ、立身出世できる世こそが治世といえるのかもしれません。治世にあっては「姦雄」の出る幕はないのです。
しかし、治世ではその本性を現すことがなかった姦物が、これから乱世になるとその本性を現し、跋扈しはじめます。彼らは乱世にあっては「能臣」として衰退した後漢王朝を再建・再興する意欲はなく、むしろこれを崩壊させ、更なる本格的な「乱世」の到来を望みます。彼らの望む「乱世」とは春秋・戦国時代や秦末、前漢末のような「群雄割拠の戦国時代」のことです。
将来、後漢王朝は何らかの大乱により統治機構が崩壊し、滅亡するか、春秋・戦国時代の周王朝の名目だけの存在となる可能性がある、と許劭は考えます。そして「姦雄」どもが地方で軍閥を築いて割拠し、公やら王やら皇帝やらを自称して自分の勢力を拡大させることに野心を燃やし、しのぎを削って戦争を繰り返す混乱した時代になるだろう、というのが許劭の予測した悪い未来です。上記の2つに比べても悲観的な未来予測ですが、現実的には許劭が予測した通りの未来となります。
もちろん、許劭はこのような未来の到来を望んでおらず、「乱世」の到来を阻止し、治世に戻すことができる「乱世の能臣」を探すために、日々人物批評をしていたのだと思われます。許劭は人物を批評する能力はありますが、彼自身は乱世を阻止するような才能はありません。
これに対して橋玄は「曹操こそが君が探している人材ではないかね」と許劭に曹操を推薦しますが、許劭はそうは思いません。ちなみに許劭の人物鑑定とは人相見だけではありません。『後漢書 許劭列伝』には、「好んで共に郷党の人物を覈論(かくろん、実情を調べてずけずけと論評する)し」(248ページ)とありますので、彼は人間を品評する時には実情を事前に調べているのです。当然許劭はそれまでの曹操の行状も知っていますし、橋玄や何顒の曹操に対する高い評価も知っています。調べた上で許劭は彼の本性は姦物であると考えたのです。橋玄や何顒の評価は間違っている、何を彼らは誤解しているのだ、許劭は舌打ちしたい気分になったでしょう。
ところが、許劭の人物鑑定はあまりに評判が高いため、どんな悪名の評価でも彼が評価を下したというだけで、名声が高まってしまう状態にあります。本来なら橋玄の推薦によるものですから、許劭は曹操の人物鑑定をむげに断れないはずですが、曹操の名声を高めたくない許劭は曹操と会おうとしません。これに対して曹操は「隙を伺いて劭を脅す」した訳ですから、無理矢理屋敷に押し入って許劭を脅したのでしょう。許劭はその行状にあきれるとともに、実際に彼の顔を見て、彼が姦物であることを確信しました。
しかし、彼の評価をあくまで拒否して行わなかったとしても、橋玄や何顒が曹操を評価している以上、自分の評価の有無関係なく曹操はやがて頭角を現すでしょう。「治世の能臣、乱世の姦雄」という曹操への評価は、曹操へ向けられた評価というより、なぜか曹操が乱世を治める英雄であるかのように勘違いしている橋玄・何顒に対して「あなた達は何を勘違いしているのだ。曹操は乱世を治める英雄どころか、乱世に乗じて頭角を現し、乱世の混迷を更に深める『姦雄』となるであろう」と警告を送ったという意味の方が強いと考えられます。
この許劭の「乱世の姦雄」という警告は、後に曹操が徐州虐殺などの蛮行を行うことで証明されます。許劭の未来予測の確かさには戦慄させられます。
ともあれ、許劭の警告は世人に正しく受け取られることはなく、ただ許劭の評価を受けたという事実のみが一人歩きし、曹操の名声は高まります。こうして名声を高めた曹操は熹平3(174)年、20歳で孝廉(任用資格のひとつ)に推挙されて郎(各部局の属官)となります。
董卓の乱が起こるまでは曹操は清流派の有能な官吏として行動していますので、本当の「乱世」が来るまでは彼は「治世の能臣」であろう、という許劭の予言のひとつも正しかったことになります。
許劭の没した年齢は『後漢書 許劭列伝』によると46歳、孫策が呉を平らげた(興平元(194)年)後に亡くなってなりますので、その直後に亡くなったという計算でも許劭の生年は建和3(149)年ということになり、曹操とは6歳しか年が離れていないことになります。許劭が曹操の人物鑑定をしたのが、曹操が15~19歳の頃だとすると、許劭は21~25歳ということになりますが本当でしょうか。このような若年で許劭は本当に天下に名が轟いていたのでしょうか。後漢書の許劭の没年齢は若過ぎるような気がします。
(追記1:許劭の曹操に対する「姦雄」という評価については、現代の我々からしてみればぴったりの評価に見えますが、それは許劭がはじめにそのように評価したためです。許劭の人物評価がいかに的確だったかが伺えます。
当時の若き曹操の評価については、橋玄や何顒の評価のように純粋に肯定的な評価が主なものでしたので、許劭は世評に合わせて「姦雄」という評価にした訳ではありません。橋玄や何顒の評価に合わせるならば「英雄」という評価になっていたでしょう。
曹操が許劭の評価を聞いて哄笑したのは、橋玄や何顒ですら気が付かなかった自分の暗い本性を、許劭のみは見事に見破り本質を突いた評価をしたからです。天下に名が轟く人物批評家の名は伊達ではないと、純粋に感心したのだと思われます。)
(追記2:渡邉義浩氏の『儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源』講談社選書メチエ、2010年によりますと、
「(引用者注:曹操は)著名な「名士」である許劭から人物評価を受けたという事実、それにより「名士」の仲間社会に参入する資格を得たことを喜んだのである。この結果、曹操は、汝南郡を名声の場とする「名士」の集団である何顒グループに加入できた。何顒のもとには、袁紹・荀彧・許攸など、曹操の生涯に大きな関わりを持つ「名士」が集まっていた。許劭の評価により、曹操は、覇権のスタートラインに立つことができたのである。」(125ページ)とあります。
上記のエントリーでは、筆者は『三国志 魏書 武帝紀』の」「したがって世間には彼を評価する人は全然いなかった。梁国の橋玄と南陽の何顒だけが、彼に注目した。」という記述から、曹操が彼らに会った順番は橋玄・何顒→許劭としましたが、渡邉義浩氏の上記の記述では、橋玄→許劭→何顒となっています。確かにそちらの方が自然の流れのように感じます。)
三国志 考察 その18 曹操の清流派への転身③に続きます。
参考文献
鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社、2004年
陳寿著、今鷹真、井波律子訳『正史 三国志1』ちくま学芸文庫、1992年