古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次事切腹事件の真相について③~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

 

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

※前回のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

 

 秀吉の使者が文禄四年(一五九五)七月三日に秀次を詰問した後、秀次は八日に高野山に向かいます。

 

 矢部健太郎氏は『関白秀次の切腹』において、この秀次の高野山行は出奔(自発的)か、秀吉による追放(強制的)か再検討を行っており、結論としては、高野山行は秀次の自発的な出奔であるとしています。

 その理由としては、当時の一次史料(『兼見卿記』、『言経卿記』、『御湯殿上日記』、『大外記中原師生母記』)には、秀次が(自発的に)高野山に向かった記述はあるが、秀吉側の命令で追放されたとの記述はないためだとされます。(*1)

 

 上記についての感想を以下に書きます。

 

 これまで見てきたとおり、秀吉のこれまでの意思は「(秀次を後継者から降りさせるための)秀次の自発的な関白辞任」であったと推定され、そして結局、秀次からの自発的な関白辞任はなされなかったが故に、今度の秀次詰問事件が起こった訳です。

 秀吉の詰問を受け、(秀次自身の内心はともかくとして)秀次が秀吉の意思に逆らわず、反省した態度を公に見せる行為として、剃髪して高野山へ行くというのは、当時の「自ら反省の意を示す」態度として代表的なものといえます。

 

 つまり、七月三日の秀次詰問に対して、秀次が反省の意を秀吉に向けて見せる行動として高野山行は最も予想される行動のひとつである訳で、秀次の高野山行は秀吉政権側にとっても想定内の行動であり、秀吉の意図に反した行動ではなかったといえます。というより、秀吉が期待した(と少なくとも秀次はそのように解釈しています)行動であったとも言えるでしょう。

 

 結局、秀次は詰問を受けたことによって、なんらかの行動で秀吉の怒りを避けるために反省の意を示さないといけない立場に追い込まれたといえます。つまり、秀次の高野山行という選択は秀次自身の意思によるものとはいえ、それはあくまで秀吉の意思を受けて行ったものであり、これを単純に「秀次の自発的な出奔」とするのは、引っ掛かりを感じます。

 

 ただし、現代でもある人物に対して組織内のなんらかの不祥事の責任をとらせなければいけない場合、事実上の解雇であっても、外見的には自発的な辞任とさせる場合があります。こうした場合、組織の命令として明確に解雇した形が「処罰」としては重くなりますので、処罰としてそれでは重すぎるとした場合に(実際にはほぼ強制的ですが)自発的な辞任という行動で責任を取ったという形を取る訳です。

 

 秀次の高野山行が、外見的にも「秀吉の命令による追放・配流処分」によるものということになってしまうと、秀次に対する処分としては重すぎる処分になってしまい、その後の赦免・復帰等の処遇も難しくなってしまうと秀吉政権(の中の主に奉行衆の考えということになりますが)は考えたため、「秀次の自発的な出奔」という形を取りたかったのだと思われます。

 

 結局この後、秀次切腹という最悪の結末を迎えてしまうため、あまり今回の論点は注目される事が少ないですが、当初の段階で秀吉政権がこの事件をどのように処理しようと考えていたかを考察するうえでは、重要な論点といえるでしょう。

 

 次回は 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p188~198

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年