古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑭ 文禄四(1595)年 三成36歳-文録の役④(休戦中)、佐竹・島津領国の知行目録発出、蒲生氏郷死去、秀次事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月 ★「明国皇帝は日本への勅使派遣を正式に決定」(中野等、p254)する。

正月十五日 ★「「高麗国動御人数帳」が発せられて、(豊臣秀次出馬の)計画は具体化された」(中野等、p257)

正月十七日 ■石田三成充て浅野長吉書状。上杉領における金の採掘を上杉景勝に促すよう、三成に伝えている。(中野等、p237~238)

正月十七日 ■島津忠恒充て安宅秀安書状等によると、石田三成にも朝鮮渡海命令が下っており、石田三成増田長盛とともに釜山浦に駐屯することになっていた。(中野等、p257)

二月 ■石田三成奉行衆によって行われた島津領国検地が完了。(中野等、p244)

二月七日 ★蒲生氏郷、伏見にして死去。(中野等、p246)

二月二十二日 ■前田玄以長束正家石田三成増田長盛・浅野長吉、「覚」を発する。「秀吉の身辺警護をする馬廻り衆・小姓衆を、伏見あるいは大坂城への集住を徹底させようとして発せられた「覚」である。」(中野等、p234~236)

二月二十三日 ■石田三成は相良頼房から送られた漆を秀吉御前に披露している。(中野等②、p306)

四月四日 ■九州に派遣されていた石田家中の島津領国検地衆が帰洛する。(中野等、p244)

四月六日 ★小西行長家臣内藤如安、明国勅使とともに漢城に入る。(中野等、p254)

四月十六日 ★秀吉の「弟秀長の養子となっていた甥の豊臣秀保が病死する。」(柴裕之、p186)

四月下旬 ★明国正使李宗城の意を受けた沈惟敬が釜山に入り、小西行長と面談を行う。(中野等③、p172)

五月十二日 ★「明国使節への派遣に際して、改めて講和条件を提示する。」(柴裕之、p186)「内容は、①明皇帝の求めにより朝鮮を許すので、朝鮮国王子を人質に差し出させたうえ、日本が管轄する朝鮮半島の南部を王子に与えること。②それを受け、朝鮮半島の南岸に設けた一五城のうち一〇を破却するつもりであること、③明皇帝の求めで朝鮮との和平に応じるのだから、明国使節が皇帝の詔書を携え日本に来たうえで、日明両国間の貿易を実施すること、であった。」(柴裕之、p128)((中野等③、p172~173)では五月二十二日になっています。)

五月二十三日 ★豊臣秀吉朱印状。朝鮮半島における倭城について過半の破却を命じる。(中野等、p175)

五月二十四日 ■朝鮮在陣の島津忠恒充て石田三成書状。

「◇小西行長(小摂)が重ねて渡海しますので、(それに託して)一書を以てご連絡します。まずもって(日明間の)御和平が調うこととなり、公私の大慶とはまさにこの事です。そういう次第ですので、皆様の(日本への)御帰朝が決定するのも間もなくのことでしょう。それについて、そちらでの御陣替など、何によらず御相談事がある場合には、小西行長(摂津守)と寺沢正成(志摩守)の両人に何事であっても御相談ください。この両人は私がとりわけ親しくしております。くれぐれも御隔心などございませんように(お願いします)。あなたの御用には尽力するように、私からも頼んでいますので、そのようにご理解ください。」(中野等、p255~256)

六月三日 ■秀吉、蒲生氏郷死後に蒲生家の提出した検地の申告が過少であり、蒲生家年寄衆の不届を糾弾したうえで、蒲生家を改易し氏郷の嗣子鶴千世には堪忍分として近江二万石を与えるとした。この措置は多くの大名に秀吉朱印状と奉行衆(前田玄以・浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家連署状によって知らされる。(中野等、p246~248)

六月十九日 ■秀吉、「佐竹義宣(羽柴常陸侍従)に充てた知行割りの目録を発する。」(中野等、p249)検地の結果、佐竹領国は54万5千800石と算定される。(中野等、p251~252)

六月二十一日 ★秀吉、蒲生家改易処分を撤回する。蒲生鶴千世の岳父となった徳川家康の説得が奏功したといわれる(秀吉の命により家康娘が鶴千世に嫁いでいる)。(中野等、p248)

六月二十九日 ★秀吉、「島津義弘(羽柴薩摩侍従)を充所とする領知宛行状・知行割が発給される。」(中野等、p249)検地の結果、島津領国は57万8千733石と算定される。(中野等、p249~251)

七月三日 ■秀吉、石田三成増田長盛聚楽に派遣し、秀次への詰問を行う。(中野等、p256)

七月八日 ★「謀反の嫌疑を懸けられた豊臣秀次高野山へ出奔する。」(柴裕之、p186)

七月十日 ★秀吉、秀次の高野山追放を発表する。(柴裕之、p126)

七月十日 ■秀次の高野山出奔の動揺を静めるため、奉行衆(前田玄以石田三成増田長盛長束正家)が諸大名に書状を発する。

「◇このたび、(秀吉が)関白(秀次)殿を不意の御覚悟によって高野山へお遣わしになりました。それだけのことであり、ほかに子細はありません。その旨(秀吉の)の御朱印が出されますのでご諒解いただき、下々へもよろしくご説明ください。万一根も葉もない噂がたったりしては問題であるとの配慮から、このように仰っています。」(中野等、p257)

「文言を忠実に読めば、決して大事には至らないので安堵するように、となる。」(中野等、p257)

七月十二日 ★秀吉、高野山の住僧たちに秀次の監視を命じる。(柴裕之、p126)

七月十二日 ■石田三成増田長盛、起請文をしたため、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の順守を誓う。(中野等、p258)

七月十五日 ★「豊臣秀次が自身の無実を世間に示すために切腹する。」(柴裕之、p186)

参考↓

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七月二十日 ■「秀次事件に際して、秀吉・秀頼父子に忠誠を誓う起請文を諸大名に提出させる。」(柴裕之、p186)起請文は豊臣奉行衆の石田三成増田長盛長束正家・富田一白・前田玄以・宮部継潤らを充所として、徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝小早川隆景らの有力大名が提出した。(中野等、p258)「これとは別に、前田利家宇喜多秀家は中央にあって直接に秀頼を補佐し、私に下国しないことを誓い、「順路憲法」に基づき「坂東」を徳川家康が、「坂西」を小早川隆景毛利輝元が管轄する旨を誓約している」(中野等、p258)

七月二十日 ■秀次自決後の大名領再配の案が付くられる。これを見ると当初清洲に倦ウ一万石が石田三成に与えられる計画があった事が分かる(実際は、清洲福島正則に与えられた)。(中野等、p258~259)

七月二十五日 ■伊達政宗家臣針生盛信宛て石田三成書状。(中野等、p3259~260)

内容は↓

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七月二十五日 ■右大臣菊亭晴季の配流(娘が秀次の正室だったため連座した)を、石田三成前田玄以が伝奏へ伝えた。(中野等、p264)

七月二十八日 ■佐藤方政充て宮部継潤・前田玄以石田三成増田長盛・富田一白・長束正家書状。美濃国の木材を近江国まで運ぶようにとの書状。この書状で聚楽第の御殿にあったものを全て伏見へ移すと書かれている。(中野等、p260~261)

八月二日 ★秀吉、「豊臣秀次の妻子たちを京都三条河原で処刑する。」(柴裕之、p186)

八月三日 ★「徳川家康宇喜多秀家上杉景勝前田利家毛利輝元小早川隆景の有力大名の連名で「御掟」と「御掟追加」を出す。」(柴裕之、p186)

八月四日 ★小西行長・寺沢正成、秀次の追放を報じた七月十日付秀吉朱印状を受け、朝鮮在陣の諸将に釜山への集合を呼びかける、(中野等③、176)

八月五日 ■宮部継潤・前田玄以石田三成増田長盛・富田一白・長束正家豊臣秀次及び木村重茲の琵琶湖で所持していた船の調査を命じる。(中野等、p261~263)

八月十六日 ■この頃、石田三成増田長盛京都所司代に命じられる。また、この頃三成は「相当の知行」を拝領したようである。(中野等、p267)(以前より前田玄以は、京都所司代に任じられているので、京都所司代は三人制となったことになる。)

八月二十日 ★朝鮮在陣の諸将、秀吉の罹病を受けて起請文をしたためる。「秀吉に万一のことがあった場合には、御拾(秀頼)に奉公することを誓約するもの。この充所は石田三成前田玄以増田長盛長束正家らだった。(中野等、p265)

八月二十五日 ■近衛信輔に近侍する進藤筑後守充て石田三成書状。薩摩に配流された信輔の在国賄料として秀吉の命として二千石を付したこと、居所をこれまでの坊津から鹿児島に移すことを認める書状。(中野等、p269~271)

八月後半 ■石田三成大和国内の検地を自ら行う。(中野等②、p307)

九月 ★明国使節の一行、漢城を出発する。(中野等③、p180)

九月九日 ■石田三成家中が近江国内で知行を充行われた。(中野等、p276)

九月十八日 ■島津義弘充て小早川隆景書状。

「◇先般は御懇ろなご返事を畏れ入ります。小早川秀秋中納言)殿の御供をして、一両日以前、筑前に到着しました。遠路ご迷惑をおかけしますが、御家中から御一人お出でいただき、初入国の御祝儀を仰っていただければ幸いです。あれこれと心安く相談するようにと石田三成(治少)から内意を得ておりますので、このように連絡しております。来月中旬には秀秋(中納言)殿もさっそく御上洛されます。山口宗永(玄蕃頭)が御供をされます。御心積もりのため、お知らせいたします。」(中野等、p266)

九月二十五日 ★「京都の大仏経堂で八宗の僧侶を集めた法会(大仏千僧会)が実施される。(柴裕之、p186)。

十月十四日 ■稲荷神社充て石田三成増田長盛書状。病気であった秀吉養女豪姫の快癒を願うもの。豪姫に憑いた憑き物をおとさないと、稲荷神社を破却し、日本国中の狐を狩るぞという脅しの書状である。(中野等、p268~269)

十月十一日 ★明国使節副使の楊方亨が釜山入りする。(中野等③、p180)

十一月   ★明国使節正使の李宗城が釜山入りする。(中野等③、p180)

十一月二十二日 ★李宗城が小西行長の陣に入る。行長は沈惟敬に上洛を要請した。(中野等③、p180)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の歴史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年