☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
*前回のエントリーです。↓
前回の続きです。
文録四(1595)年六月、曲直瀬玄朔(道三)の「天脈拝診怠業事件」が起こります。以下、『関白秀次の切腹』から引用します。
「同年六月十七日からの『御湯殿上日記』の記述をみてみよう。
十七日、はるゝ、御心わろくて、道三御みやく(脈)にまいる、しゆこう(准后)御まいり、
十九日、はるゝ、御こゝろまたわろくて、御みやくみせらるゝ、
廿日、(中略)けふ(今日)は道三くわんはくとの(関白殿)わつらい(患い)にてふしみ(伏見)にまいる、御やうたい(容態)一つかき(一つ書き)にて御くすりとりにま(い脱カ)り候てまいる、
【口語訳】十七日、晴、天皇の御体調が優れず、道三が診療に訪れた。准后が参られた。
十九日、晴、今日も天皇の御体調が優れず、診療させた。
二十日、今日は道三が関白の病気のために伏見に入った。天皇の御容態を一つ書きにして、御薬をとりにいかせ、御所に届いた。」(*1)
つまり、六月十七日に当時の天皇、後陽成天皇の御体調が優れず、曲直瀬玄朔(道三)は診療し、続く十九日も診療にあたっていたにも関わらず、二十日に道三は伏見にいる秀次の診療に向かいました。困った朝廷側は、天皇の御容態を一つ書きにして伏見にいる道三に伝え、御薬をとりにいかせることになりました。
この行為は、関白秀次が道三に天皇の診療より自分の診療を優先させたということになってしまう訳で、非常に問題のある行為となってしまいます。
矢部健太郎氏は、この一件を秀次詰問の要因として考えています。(*2)
前回のエントリーでも引用しましたが、矢部健太郎氏によると「対して秀吉側では、密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。」(*3)というのが秀吉の考えであったとすると、上記の「天脈拝診怠業事件」は秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させる、またとない口実となったと考えられます。
さて、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』によると、七月三日、前田玄以、増田長盛、石田三成、富田一白の四人の奉行衆が聚楽第を訪れ、秀次に謀反の疑いありとして詰問したといいます。
藤田恒春氏の『人物叢書 豊臣秀次』によると、太田牛一は「七月三日に太閤秀吉と関白秀次とのあいだで日本国を闇夜とするようなことが起こったとしているが、具体的なことについては何ら触れていない」(*4)とあります。そして、「秀次が謀反といっても、秀吉を圧倒する軍勢も持たないことに鑑みれば、また、秀次附属の池田・山内などの軍勢も動いていないことをも勘案するとき、「謀反」との言葉は軍勢を動かすようなものではなく、単純に秀吉の意向あるいは命令に、真っ向から背く回答をすることによって引き起こされた混乱と考えるべきであろう。すなわち、両者の不和の内実は、直接的であれ間接的であれ、自明の問題である。豊臣家家督をめぐる問題である。」(*5)としています。
詰問自体のきっかけは「天脈拝診怠業事件」であっても、その詰問される「謀反」の内容は、結局前からの豊臣家家督をめぐる問題であるという事なのでしょうか。前より、秀吉は秀次が自発的に関白職を辞することによって、自ら秀吉の後継を降りて、秀頼に譲る姿勢を示してほしいという意向でしたが、これを秀次は拒否し続けていたところ、「天脈拝診怠業事件」が起こり、これを理由として改めて秀次に関白辞任を突き付けたというところでしょうか。
ちなみに、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』は、後世作成された二次史料であり、その描写をそのまま鵜呑みできる訳ではありませんが、山科言経の日記『言経卿記』の文禄四年(一五九五)七月八日条には「一、関白(羽柴秀次)殿ト、太閤(羽柴秀吉)ト去三日ヨリ後不和也、」(*6)とあり、奉行衆の詰問自体があったかは記されていないものの、七月三日に秀吉と秀次との不和が決定的になるなんらかの事件があったことが伺えます。矢部健太郎氏は、その不和が決定的となる事件を『大かうさまくんきのうち』の記述から、「奉行衆による秀次詰問事件」ととらえているということになるかと思われます。
たしかに、何もきっかけがなければ次回検討する秀次の高野山出奔あるいは追放事件に発展しないでしょうから、奉行衆からの詰問等、秀吉からの何らかの圧力があったと考えるのが自然といえます。このため七月三日、実際に「奉行衆による秀次詰問事件」はあった可能性が高いといえるでしょう。
次回から、2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?の論点を検討します。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)矢部健太郎 2016年、p66~67
(*2)矢部健太郎 2016年、p68
(*3)矢部健太郎 2016年、p58
(*4)藤田恒春 2015年、p178
(*5)藤田恒春 2015年、p178~179
(*6)矢部健太郎 2016年、p64
参考文献