古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

 前回の話の続きです。

(前回のエントリーです。↓)

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3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

 この論点が、矢部健太郎氏の新説の核心かと思われます。

「秀次の自発的な意思にせよ、命令にせよ、秀次が自害したことに変わりはないのだから検討することに意味はあるのか?」という意見もあるかもしれません。

 しかし、秀次切腹が秀吉の命令だとすると、秀次切腹は秀吉政権の予定通りの行動であることになります。

 つまり、秀次切腹は秀吉政権の規定通りの行動の一つということになり、これ以後に豊臣政権の運営のあり方に大幅な変更があったとしても、これも想定内・計画通りの行動だったということになります。

 

 これに対して、秀次切腹は秀次自身の意思によるものであるとすると、これは秀吉政権にとって想定外の重大危機が発生したことになり、秀吉政権はこの危機に対して事態を収拾するために急遽迅速な対応を取ることが迫られることになります。

 また、この事件によって当初想定していた豊臣政権の運営のあり方から、想定外に大幅な変更を余儀なくされたことになります。

 

 さて、従来の通説は「秀次切腹は秀吉の命令である」説な訳ですが、矢部健太郎氏は新説として「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」説を唱えます。

 矢部氏の新説を以下要約します。

 

五奉行の「秀次切腹命令」書状が小瀬甫庵『甫庵太閤記』にあり、これが「秀次切腹は秀吉の命令である」説の根拠となっています。

 しかし、この『甫庵太閤記』の五奉行の「秀次切腹命令」書状に対して矢部氏は以下の疑問を呈しています。

a.通常は年号がないはずの「書状」なのに、年号が書いてある。

b.前田玄以を「徳善院」と記しているが、この時期玄以はまだ「徳善院」とは名乗っていない。

c.連署状の署名の格付け(奥に向かって高くなる)が逆になっている。

d.浅野長吉は当時東北におり、発給文書に署名があることが疑問。そもそも、この時点で「五奉行」は成立していない。

e.『甫庵太閤記』以外に、この書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない。

f.奉行衆の書く文書にしては、装飾性に富み文体として不自然。

g.『甫庵太閤記』では、七月十三日に伏見を発った「切腹命令」が、十四日夕刻に高野山に到着したとあるが、三千もの武装した兵が伏見→高野山間の距離は約130キロ強で、加えて麓から800メートルの高低差がある峻険の地である高野山に一昼夜で到着するのは非常に難しい。(*1)

 

 上記についての、個人的な感想を述べます。まず、そもそも『甫庵太閤記』の記載は虚飾も多く史料としては信憑性が低いと評価されています。a.~f.の点を考えても、この切腹命令書は甫庵の(特にモデルとなった原本すらない)ゼロから作った創作だと思われます。このため、e.で述べられているように、『甫庵太閤記』の他にこの書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない以上、「五奉行の『秀次切腹命令』」なるものは実在しないということになります。

 

g.の論点については、「強行軍で行けばなんとか可能だろ」、という反論が予想されますが(これに対して矢部氏は具体的に反論していますが(*2))、そもそも『甫庵太閤記』の記載自体が甫庵の創作だと思われますので、『甫庵太閤記』の記載を元に細かく検討してもあまり意味はないかと思います。(まあ、創作だからこんな無理な日程になるのだ、という補強証拠にはなりますが。)

 

 ②「秀次高野住山令」という史料の「写し」が『佐竹家旧記』及び『南行雑録』(『南行雑録』とは、徳川光圀が『大日本史』の編纂のために部下に諸国の史料を閲覧させて写し取った史料集。「秀次高野住山令」は高野山蓮華定院に所蔵されていたと書かれています。)に残っているということです。矢部氏は史料の由来等を検討した結果、史料としての信憑性は高いとしています。(*3)

 

a.この「秀次高野住山令」は、高野山側に秀次の住山(高野山で生活する)について命じた法令で、発出されたのは文禄四年七月十二日付になっています。「自敬表現」が使われていること等から作成主体は秀吉だと考えられます。

 

b.条文の口語訳を以下に引用します。

「一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、出家の身となり袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。加えて、奉公する者の親類を召し置いてはならない。)(下線引用者)(*4)

 「一、高野山全山として、番人を昼夜問わず堅く申し付けるように。もし(秀次らを)下山させるようなことがあれば、高野山全山に成敗を加える。

 一、高野山の出入口ごとに番人を置き、秀次を見舞う者は固く停止させること。」(*5)

 

 以上を見ると、この「秀次高野住山令」は一定期間秀次が住山することを前提としたものであり(当然切腹させる意図はない)、また秀吉の許可なく下山することを認めない内容になっています。前の論点で高野山行きが秀次の自発的な出奔か、秀吉の命令かという論点がありましたが、どちらの場合であっても、今回の秀吉の許可なく下山を禁じる命令によって、秀次の高野住山は秀吉の命令として上書きされたことになります。

                                                                   

 特に注目する箇所は「刀・脇差を携帯してはならない。」という命令で、これは自害の防止・禁止のための措置ともいえます。このような命令を秀吉が発しているにも関わらず、秀吉が秀次の切腹を命令していたというのは矛盾していることになり、やはり秀吉(あるいは五奉行の)の切腹命令など存在しなかったということになります。

 

 ということで、矢部氏の説のとおり、「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」という見解が妥当だと思われます。

 

3´.秀次はいつ自殺したのか?三使はその場にいたのか?

 秀次はいつ自殺したのかは七月十五日と明らかになっています。そして、前述の「秀次高野住山令」が高野山に伝達されたのは七月十四日夕刻です。すぐにその内容は高野山から秀次に伝えられたでしょう。その一日の間に秀次は自害を決意したことになります。

 

 これは、「秀次高野住山令」が秀次にとっては思いの他厳しいものだったため、絶望したことによるかと思われます。秀次としては高野山に「自発的に」向かい、謹慎して秀吉に対する謝罪の意を示すことによって、秀吉の赦免があることをおそらく期待していました。あるいは、高野山に謹慎しても比較的短い間で謹慎が解けるかもしれないと思っていました。

 しかし、実際に発された「秀次高野住山令」を見ると、住山し続けなければいけない期限が一切書かれておらず、もしかしたら残る一生をこのまま高野山に謹慎したまま暮らすことになるのではないかとも思ったのかもしれません。

 

 深く絶望した秀次は切腹を決意します。そして、「秀次高野住山令」には「刀・脇差を携帯してはならない。」とあり切腹を決行する猶予の期間はほとんどありません。刀と脇差を取り上げられる前に秀次は切腹をする必要があり、そして明日(15日)の朝、秀次は切腹を決行することになりました。

 

 この時、高野山に「秀次高野住山令」を伝えに行った使者は福島正則、福原長堯、池田秀雄の3名。

 このうち、だれが秀次の切腹に立ち会ったのか、あるいは誰も立ち会わなかったのかは信頼できる史料がないとされます。ただし、二次史料の『川角太閤記』には、三使のうち福島正則、池田秀雄の二人だけが秀次の元に現れて、秀吉の真の御意は「切腹」である、と伝えたといいます。

(とすると、『川角太閤記』の記述は、矢部氏の説に反することになりますが。

 ただし、正則・秀雄が秀吉の意思に反して、秀吉の真の御意は「切腹」だと嘘をついたとすると悪質ですが、『川角太閤記』の記述とはつじつまが合います。

 しかし、そのような嘘を正則・秀雄が秀次に対して言う意図が(現在残っている史料からは)全く不明です。やはり他の二次史料と同じく『川角太閤記』の記述も著者の想像が多く混じっていて、これをそのまま史実として確定できないということになるかと思います。)

 

 矢部氏は、

 ①十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

 ②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

 ③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

の3つのケースを上げ、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*6)としています。

 

 上記の3ケースのどれが正しいかで、色々な説が考えられますが、一次史料の根拠がない以上、あまり推測してもきりがないので、私も推測は述べません。

 

※次回のエントリーです。(「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」については、次々回に検討します。)↓

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  注

(*1)矢部健太郎 2016年、p153~162

(*2)矢部健太郎 2016年、p156~161

(*3)矢部健太郎 2016年、p162~167

(*4)矢部健太郎 2016年、p170~171

(*5)矢部健太郎 2016年、p175

(*6)矢部健太郎 2016年、p222~226

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年