古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「古今消息集」にある「慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」は偽文書?

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 高橋陽介氏の『一次史料にみる関ケ原の戦い(改訂版)』星雲社、2017年を読了しました。

 

 本書籍については、白峰旬氏の「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する -高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して-」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04609.pdf?file_id=8221

を先に読み、本書籍を読まないと何を白峰氏が批判しているのかよく分からなかったため、購入して閲読した次第です。

 

 私が読んだのは「改訂版」ですが、白峰氏の批判した内容はだいたい残っていますので、内容はあまり変わらないかと思われます。

 

 個人的には、概ね白峰旬氏の批判が妥当かと思いますが、評価は各自でご判断いただければと思います。(といっても、本書籍の内容が分からないと評価しようがないかと思いますが、正直あらすじをまとめる気力がないのでご容赦願います。)

 

 また、この後も高橋氏、白峰氏の議論は続いているようですが、フォローしきれていませんので、現状の議論がどうなっているのかよく分かりません。

 

*                 *                  *

 

 さて、今回の本題はタイトルのとおり、「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」は偽文書なのか?という話です。

 

 高橋氏の前掲書の根拠史料の主なひとつとして、この「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」が使われており、これに対して白峰氏は、結論として、「九月十二日付石田三成書状については、後世の偽文書である可能性を考えるべきである」と述べています。

 

 この「古今消息集」にある「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」は、高橋氏のみならず、様々な歴史学者・研究者が関ヶ原の戦い直前の情勢を描写する主な論拠として使用している有名な史料です。

 

 この書状は関ヶ原の戦い(慶長五(1600)年九月十五日)の直前である九月十二日に大垣に在陣する石田三成が、大坂城の奉行増田長盛に、西軍の窮状を訴える内容となっています。

 

 白峰氏のこの書状に対する疑義を紹介する前に、この書状の現代語訳の全文を引用します。(今井林太郎氏の『石田三成吉川弘文館、1961年、p177~p183に現代語訳の全文が掲載されていますので、こちらから用します。) 

 

一、赤坂の敵は今日にいたるも、何等の行動を起こさず、ただじっと居陣しているだけで、何かを待っているように見受けられ、皆が不審だと言っている。

一、大垣城には、伊藤盛正の家来を始め近辺のものまで人質に取っているが、敵より放火の才覚があり、伊藤は若輩ゆえ、家中の者共は様々の才覚をするので、心を許すことができない。

一、今日の相談で味方の軍略も大体きまるであろう。一昨日自分等は長束正家安国寺恵瓊の陣所を訪れて、彼らの内存を承ったが、その限りでは、事がうまく運ぶと思われない。というのは彼等は殊のほか敵に対して大事をとり、たとい敵軍が敗走しても、それを壊滅させる工夫もせず、とかく身の安全ばかりを考え、陣所を垂井の上の高所に設けたが、そこは人馬の水もない高い山で、万一のとき人数の上下もできない程の山であって、味方中も不審に思い、敵もきっとそう思っているであろう。

一、当地で苅田を行えば、兵粮はいくらでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出さず、兵粮は近江から運ぶことにしているようだが、近頃は味方中が畏縮してしまっている。

一、とにかくこの様にだらだらと日を延ばしているようでは、味方の心中も計り難い。御分別をなさるべき時である。敵味方の下々の取沙汰では、増田と家康の間に密かに話合いがついていて、人質の妻子は一人も成敗することはないといっている。是もものの分ったものが申すのではなく、下々の申すことである。先書にも申した如く、犬山に加勢に赴いた衆が裏切ったのも、妻子が大丈夫だからであると、下々は言っている。敵方の妻子を三人・五人成敗すれば、心中も変わるだろうと当地の諸将は言っている。

一、大津の京極高次のことは、この際徹底的に処分しなければ、以後の仕置のさわりになると思う。殊に高次の弟高知が当地で種々と才覚していることは、御推量のほかである。

一、敵方へ様子を聞きに放った人が帰ってきての報告に、佐和山口から出動した衆のうち(小早川秀秋を指すと思われる)、大軍を擁して、敵と内通し、伊勢への出陣をも抑え、各自それぞれその在所在所で待機するようにと命じたという噂が、この二-三日頻りに伝えられ、敵方は勇気づいていたが、近江の衆が悉く山中へ出動したので、敵方では噂に相違したといっているということだ。とにかく人質を成敗しななければ、取られた人質について心配しないのは当然で、これでは人質も不要のように見受けられる。

一、連絡のための城には、毛利輝元の軍兵を入れておくようにすることが肝要である。これには子細あることであるから、御分別をなされて、伊勢を始め大田・駒野(岐阜県海津郡南濃町)に城を構えることがよかろうと思う。近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである。いかほど確かな遠国勢でも、いまどきは所領に対する欲望が強いので、人の心は計り難い。分別すべきときである。

一、当地の儀はなんとか諸将が心を合わせれば、敵陣を二十日以内に撃破することはたやすいことであるが、この分だと結局は味方の中に不慮のことが起るのは、眼に見えるようだ。よくよく御分別ありたい。島津義弘小西行長等も同意見であるが遠慮しているようである。自分は思っているだけのことを残らずいっている。

一、長束正家安国寺恵瓊は思いのほか引っ込み思案である。あなたに当地の様子を一目なりと御目にかけたい。さてさて敵のうつけたる体たらくといい、味方の不一致といい、ともに御想像のほかであるが、それ以上味方中はさげしむべき体たらくである。

一、毛利輝元の出馬しないことは、自分はもっともだと思う。家康が西上しない以上、不必要かとは思うが、これについても下々では不審をたてて、いろいろいうことである。

一、度々申し入れた如く、金銀米銭を使うのはこのときである。自分などは分相応にはや手許に持っているだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手元の逼迫は御推量ありたい。この際が一番大事な時期だと思うので、あなたもその御心得がありたい。

一、近江から出動してきた衆(小早川秀秋を指すものと思われる)に、万一不慮のこともあろうかと存じ、これがただただ迷惑である。輝元の出馬がなければ、中国衆を五千人ばかり佐和山城へ入れておくように処置することが肝要である。また伊勢へ出陣された衆は、万一のときは大垣・佐和山の通路を経ずに、太田・駒野から畑道を通って直ちに近江に退去しようという意図のように見受けられるので、長引くことと思われる。

一、宇喜多秀家の今度の覚悟はあっぱれで、このことは方々からお聞きになるだろうから、申し上げるまでもないが、一命を捨てて働こうとの態度である。その分別御心得ありたい。島津義弘小西行長も同様である。

一、当分成敗をしない人質の妻子は、宮島へ移されるがよかろう。御分別が過ぎてもよくない。

一、長束正家安国寺恵瓊は、この度伊勢方面より出動した中国勢は勿論のこと、大谷吉継及び秀頼麾下の御弓鉄砲集までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ。

一、丹後方面の人数がいらなくなった由であるから、その人数を少しでも当地へ差し向けるようにしてほしい。」

 

 白峰氏は、上記の書状について以下のように述べ、「後世の偽文書である可能性を考えるべきである」としています。

 

(以下、白峰氏の前掲論文から引用)

「高橋本では、この九月十二日付増田長盛石田三成書状の内容について、真正の文書(石田三成 が実際に記した内容の書状)である、という前提で検討している。

 

  しかし、筆者(白峰)は、すでに前掲・拙稿「関ヶ原の戦いにおける吉川広家による「御和平」 成立捏造のロジック」で指摘したように、九月十二日付増田長盛石田三成書状については、以下 のような疑義がある。

 

 ①この九月十二日付石田三成書状は書状の原本が伝存せず、書状の写(「古今消息集」所収)しか 存在しない。

 

 ②この書状の内容については、中井俊一郎氏が「この書状は『古今消息集』に収められているものだが、正直なところ、これが三成の書いたものそのままとはとても思えない。通常の三成文書と 文体・内容ともかけ離れているからである。」(30)と指摘して疑義を呈している。

 

③確かに、三成の他の書状を見ると非常に強気な態度で理路整然と論旨を展開する内容であるのに 対して、この書状は全体に悲観的なことがくどくどと書かれていて、他の三成書状とはかなり異 なっている印象を受ける。

 

④特に一人称の使い方に着目すると、他の三成書状では一人称はほとんど出てこないのに対して、 この書状では「拙子」が5例、「拙者」が1例出ている点は他の三成書状と異なった点である。 他の三成書状では一人称の用例は少ないものの、「此方」(「(慶長五年)七月晦日付真田昌幸宛石 田三成書状」(31)など)、「拙者」(「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁宛石田 三成書状」(32)など)、「我等」(「(慶長五年)八月十日付佐竹義宣宛石田三成書状写」(33)などが一人 称として使用されている。三成書状における「拙子」の用例は「(慶長五年)八月十日付真田昌幸真田信繁石田三成書状」(34)にも見られるが、この書状では2例しか使用されておらず、九月 十二日付石田三成書状のように多用(5例)されているわけではない。

 

 ⑤他の三成書状では「秀頼様」に言及する記載が見られるが(前掲「(慶長五年)七月晦日付真田 昌幸宛石田三成書状」、前掲「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁石田三成 書状」など)、九月十二日付石田三成書状では「秀頼様」についての言及が一切ない。

 ⑥他の石田三成書状は8ケ条(「(慶長五年)八月十日付真田昌幸真田信繁石田三成書状」(35))、 10ケ条(「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁石田三成書状」(36))、11ケ条(「(慶 長五年)七月晦日付真田昌幸石田三成書状」(37))、12ケ条(「(慶長五年)八月十日付佐竹義宣 宛石田三成書状写」(38))であるのに対して、九月十二日付増田長盛石田三成書状は17ケ条であり、条数が他に類例がない程多く、その文面の内容量も異常に多いことは異例である。九月十二日という軍事的緊張状態の中で石田三成が、このような異常に長い内容の書状を書いたとは考えにくい。

 

  こうした諸点を勘案すると、九月十二日付石田三成書状については、後世の偽文書である可能性 を考えるべきであると思うので、高橋本46 ~ 68頁の箇所については筆者(白峰)として内容の検証を加えないこととする。その理由は、九月十二日付石田三成書状を真正の文書と考える高橋氏と、後世の偽文書である可能性を考えている筆者(白峰)が議論しても平行線になって結論は出ないか らである。なお、こうした判断は、九月十二日付石田三成書状を真正の文書とする高橋氏の考えを尊重するものであり、決して非難するものではない。」 

 以下、私見を述べます。

 

1.この書状について原本は存在せず、あるのは『古今消息集』に掲載されている「写し」とされるもののみです。原本はなく、江戸時代に作成された文書というだけで、正直信頼性が著しく低くなります。これが真書・原本の写しであるという保証はまったくありません。

 2.この書状は大津で敵軍の手に奪われ、増田長盛の手に届かなかった(今井林太郎氏前掲書、177ページ)とされていますが、味方の大軍が大津城を包囲している時期であり、西軍の勢力圏内である大津近辺で敵に奪われたという経緯も不自然です。

 3.内容は、白峰氏が「三成の他の書状を見ると非常に強気な態度で理路整然と論旨を展開する内容であるのに対して、この書状は全体に悲観的なことがくどくどと書かれていて、他の三成書状とはかなり異なっている印象を受ける。」等と指摘している通り、三成の普通の書状の書き方から大きく逸脱しています。 

 また、この書状は、いたずらに冗長で悲観的な説明が延々と続いております。しかし、この書状で、これだけ悲惨な状況を訴えているのですから、普通なら輝元の援軍を要請する書状になる方が普通でしょう。しかし、「毛利輝元の出馬ないことは、自分はもっともだと思う」とも述べており、かなり支離滅裂で不自然な文書になっています。

 

 以上から、私もこの書状は偽文書である可能性が高いと思います。 

 しかし、私も含め、多くの方の従来の認識では、この書状で書かれている状況そのままが実際の関ヶ原の戦いの直前の状況であるという先入観があったりするのですね。  

 この書状が偽文書だとすると、(この書状が真書であることを前提とした)関ヶ原の戦いの直前の状況の認識も見直しをしないといけなくなるのではないでしょうか。